第10話 悪役令嬢はどこまでも
空は、どこまでも高く澄み渡っていた。
遮るものは何もない。
かつて王都で見上げた、結界に切り取られた狭い空ではない。
帝都の空を覆っていた、煤けた黒い雲でもない。
無限に広がる、自由の色をした青。
「……良い天気ですね」
私は呟き、眩しさに目を細めた。
街道の砂利を踏みしめるブーツの音が、ザッザッと心地よいリズムを刻んでいる。
昨日の足の痛みは、一晩眠ったら嘘のように引いていた。
カイルのマッサージのおかげかもしれないし、あるいは単に、心が軽くなったからかもしれない。
「ああ。絶好の旅日和だ」
隣を歩くカイルが頷く。
彼は私の荷物の大半を持ってくれているのに、足取りは羽のように軽い。
時折、道端の草花に目を留めたり、遠くの山を眺めたりしているその横顔は、憑き物が落ちたように穏やかだ。
「カイル様、地図を見せてください」
「はいよ」
手渡された地図を広げる。
私たちは今、帝国の南端、国境付近の街道を歩いている。
ここを越えれば、中立都市群が広がる穀倉地帯だ。
美味しいパンと、新鮮な野菜、そして何より「市場」がある。
「まずは換金ですね」
私は懐の手形をポンと叩いた。
「この手形、帝国国立銀行の刻印入りですから、どこの国でも最高レートで取引できます。まずはこれを元手に、当面の活動資金を確保しましょう」
「活動資金か。……また何か作る気か?」
カイルがニヤリと笑って覗き込んでくる。
「当然です!」
私は鼻息荒く宣言した。
「家を失ったままなんて、私のプライドが許しません。テント生活も悪くありませんが、やっぱりふかふかのベッドと、いつでもお湯が出るお風呂は必須です」
私はポケットからメモ帳を取り出した。
昨夜、テントの中で眠れずに書き留めた、新しい設計図のラフスケッチだ。
「見てください。次は空を飛ぶだけじゃ足りません。陸路も、水上も、なんなら地中だって進める全地形対応型を目指します」
「ほう……」
「外見は馬車ではなく、もっと威圧感のある……そう、『城』のようなデザインもいいですね。足を生やして歩かせましょうか? 『ハウルの動く……』いえ、なんでもありません」
前世の記憶にあるアニメーション映画を思い出し、口をつぐむ。
あの記憶はもう、私を縛る鎖ではない。
新しいアイデアを生み出すための、便利な図書館のようなものだ。
「歩く城か。面白そうだ」
カイルは呆れるどころか、楽しそうに目を輝かせた。
「それなら、庭も作ろう。広いテラスで、星を見ながら酒が飲めるような」
「いいですね! 家庭菜園も作りましょう。採れたてのトマトでパスタを作るんです」
夢が膨らむ。
『スイートホーム号』は素晴らしい車だったけれど、あれは私の「逃避場所」でもあった。
嫌なことから逃げて、閉じこもるための殻。
でも、次に作るのは違う。
二人で世界を楽しむための、最高の拠点だ。
「でも、それにはお金がかかります」
私は現実的な話に戻した。
「素材費、加工費、魔石代……ざっと見積もって、手形の金額の三倍は必要ですね」
「三倍か。……結構な額だな」
「ええ。ですから、稼ぎますよ。魔獣狩りでも、魔道具の販売でも、なんでもやってやります」
私は拳を握りしめた。
公爵令嬢だった頃の私は、与えられるだけの存在だった。
家も、ドレスも、婚約者も。
だから、奪われた時に何も残らなかった。
でも今は違う。
私は商売人だ。
自分の手で価値を生み出し、対価を得て、欲しいものを手に入れる。
その過程こそが、生きるということなのだと知った。
「頼もしいな、俺の雇い主様は」
カイルが私の頭をポンと撫でた。
「俺も働くさ。剣の腕なら誰にも負けん。魔獣の素材なら、山ほど狩ってきてやる」
「期待していますよ。……あ、でも無茶は禁止です。貴方の体は、もう貴方一人のものじゃありませんからね」
「分かってる。メンテナンスは頼むぞ」
私たちは顔を見合わせて笑った。
かつては契約書で縛らなければ不安だった関係が、今はこんなにも自然だ。
胸元のネックレスに触れる。
冷たいナットの感触が、私に自信をくれる。
絶対に緩まない絆が、ここにある。
ふと、後ろを振り返った。
遠く、山脈の向こうに帝国の空が見える。
そこにはもう、黒い雲はない。
私の過去。
前世の因縁。
そして、私を捨てた王子や、私を追放した祖国。
それらすべてが、遠い彼方へと霞んでいく。
「……さようなら」
小さく呟いた。
未練はない。
憎しみもない。
ただ、通り過ぎた景色として、記憶のアルバムにしまっておくだけだ。
「行くか」
カイルが手を差し出した。
私は前を向いた。
そこには、果てしなく続く道と、未知の世界が広がっている。
「はい!」
私は彼の手を力強く握り返した。
温かい。
この手があれば、どこまでだって行ける。
「目標金額、金貨十億枚! 期限は死ぬまで!」
私は高らかに宣言した。
「さあ、稼ぎに行きますよ、旦那様!」
「了解だ、奥様!」
私たちは走り出した。
砂埃を上げて、笑い声を響かせて。
悪役令嬢と呼ばれた女と、最強の竜騎士と呼ばれた男。
二人の旅は、ここからが本当の始まりだ。
物語は終わらない。
私たちが歩く限り、道はずっと続いていくのだから。
(完)
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