第2話 皇帝の取引
私は息を止めて、その老人を見つめた。
広大な私室の中央。
豪奢な玉座に深々と身を沈めているのは、枯木のように痩せ細った男だった。
肌は土気色で、浮き出た血管が蛇のように這っている。
点滴のような魔導チューブが全身に繋がり、生命維持装置の低い駆動音が室内に響いていた。
けれど、その瞳だけが燃えていた。
猛禽類を思わせる鋭い眼光。
衰えてなお、周囲の空気を支配する絶対的な覇気。
鉄と雪の国を統べる支配者、ガレリア三世だ。
「……よく来たな、『異界の知恵』を持つ娘よ」
皇帝の声は、錆びた鉄のようにザラついていた。
咳き込むこともなく、真っ直ぐに私を射抜く。
「そしてカイル。……随分と落ちぶれたものだ。最強の竜騎士が、女の尻に敷かれる傭兵風情とはな」
隣に立つカイルが、ピクリと肩を震わせた。
彼は何も言い返さず、ただ静かに頭を垂れている。
その姿に、私は少しだけ苛立ちを覚えた。
私の夫は落ちぶれてなどいない。
むしろ、貴方の元にいた時よりずっと人間らしく、魅力的になったはずだ。
「お言葉ですが、陛下」
私は一歩前に出た。
「夫の職業選択の自由に、口出し無用でお願いします。彼は現在、当商会の最高戦力として、非常に優秀な働きをしておりますので」
皇帝の視線が私に移る。
面白がるような、値踏みするような目だ。
「ほう。……セシリアからの報告通り、口の減らない娘だ」
皇帝は痩せた指で、卓上の端末を操作した。
空中にホログラムが展開される。
そこに映し出されたのは、私の愛車『スイートホーム号』の解析データだった。
商業都市での戦闘記録、そして王都の結界制御に関わっていた時のデータ。
「単刀直入に言おう。その車を置いていけ」
皇帝は取引の余地などない口調で告げた。
「我が国の地下に眠る『オリジン』……古代遺跡の中枢システムが、限界を迎えている。制御キーが破損し、魔力の暴走が始まっているのだ。だが、貴様のその車に使われている動力炉と制御回路は、オリジンの規格と完全に一致する」
「……一致、ですか」
私は眉をひそめた。
偶然の一致ではない。
やはり、私の技術はこの世界の古代文明と根っこで繋がっている。
「車を分解し、オリジンの代替制御ユニットとして組み込む。そうすれば、帝都の魔力汚染は浄化され、この国はあと百年は安泰だ」
「断ります」
私は即答した。
「あれは私の家であり、全財産です。国の都合で分解されてはたまりません」
「拒否権があると思っているのか?」
皇帝が指を鳴らした。
影から、数人の近衛兵が現れる。
全員が全身を魔導甲冑で覆い、高出力のレーザー槍を構えている。
精鋭中の精鋭だ。
「娘よ。貴様は勘違いしている。これは商談ではない。徴収だ」
皇帝の声が低く響く。
「その車を差し出せ。さもなくば、カイル・ドラグニルを『国家反逆罪』および『敵前逃亡罪』で即刻処刑する」
空気が凍りついた。
カイルへの処刑宣告。
それは私にとって、車を奪われる以上の脅しだった。
「カイルは我が軍の恥だ。生かしておいたのは、貴様をここまで誘き寄せる餌として利用するため。……車さえ手に入れば、餌に用はない」
皇帝はカイルを見ようともしなかった。
かつて息子のように育てたと聞いたが、今の彼にあるのは、国益という天秤に乗せた数字としての価値だけらしい。
非情な合理的判断。
嫌いではないが、私の所有物に手を出そうとするなら話は別だ。
私は深呼吸をして、にっこりと微笑んだ。
営業用の、とびきり冷たい笑顔で。
「……陛下。貴方こそ勘違いされていますよ」
私は懐から、一枚の魔石を取り出した。
通信用の魔石だ。
すでに回線は繋がっている。
相手は、商業都市連合の私のビジネスパートナー(ヴァインではない、もっとまともな商人たち)だ。
「この通信が切れれば、即座に商業都市連合は帝国への全輸出入を凍結します。食料、衣料、そして貴国が依存している魔導触媒の原材料も全て」
皇帝の眉が動いた。
「私はただの魔道具師ではありません。国境を越えた商会のオーナーです。私の所有権を侵害し、従業員に手を出せば……帝国経済を更地にしますよ? 遺跡が暴走する前に、国民が飢え死にするのとどちらがマシか、計算できますよね?」
ハッタリではない。
第2部での冒険を通じて、私は裏で着々と根回しをしてきた。
経済という武器は、時に剣よりも鋭く国を刺す。
皇帝は沈黙した。
その瞳の奥で、計算と、そして微かな称賛が揺らめいた気がした。
「……小賢しい真似を。だが、ここで貴様らを殺せば、その脅しも無意味だ」
皇帝が近衛兵に目配せをする。
兵たちが一歩、距離を詰めた。
殺気が肌を刺す。
その時だった。
「動くな」
低い声が、部屋の空気を圧し潰した。
カイルだ。
彼は剣を抜いてすらいない。
ただ、一歩前に出て、私と皇帝の間に立っただけだ。
けれど、その全身から放たれる黄金色の闘気が、物理的な圧力となって近衛兵たちを襲った。
ガシャン、と鎧が震える音がする。
精鋭であるはずの兵たちが、恐怖で足を止め、後ずさる。
「カイル……」
皇帝が初めて、感情の色を見せて名を呼んだ。
「陛下に剣を向けるか。育ての親に」
「親だと思っていました」
カイルは静かに言った。
その声に迷いはなかった。
「貴方に認められたくて、最強を目指した。帝国のための剣になろうとした。……だが、貴方は俺を見ていなかった。見ていたのは『竜騎士』という兵器だけだ」
カイルは振り返り、私を見た。
その瞳は穏やかで、温かかった。
「エリカは違う。俺の無能さも、弱さも、大食いなところも、全部含めて『カイル』として見てくれる。……俺の居場所はここだ」
彼は再び皇帝に向き直り、堂々と宣言した。
「俺の主は、エリカ・フォン・クロイツただ一人。帝国ではない。……俺の妻に指一本でも触れてみろ。たとえ陛下でも、俺は斬る」
部屋が静まり返った。
それは決別だった。
過去との、故郷との、そして父親代わりだった男との、完全なる決別。
皇帝はしばらくカイルを睨みつけていたが、やがてふっと息を吐き、玉座の背もたれに体を預けた。
「……そうか。犬だと思っていたが、いつの間にか狼になっていたようだな」
その声には、怒りよりも諦め、そして奇妙な満足感が混じっていた。
彼は手を振り、近衛兵たちを下がらせた。
「交渉決裂だ。……去れ。気が変わらぬうちに」
殺気が霧散する。
私はカイルの袖を引いた。
長居は無用だ。
皇帝の気が変われば、今度こそ全面戦争になる。
「失礼いたします」
私は優雅にカーテシーをして、踵を返した。
カイルが私の背中を守るように続く。
重厚な扉が閉まるその瞬間まで、皇帝の視線は私たちの背中に突き刺さっていた。
廊下に出ると、私は大きく息を吐き出した。
膝が震えているのが分かった。
怖かった。
経済制裁なんてハッタリが通じなかったら、今頃私たちは消し炭だったかもしれない。
「カイル様……」
「大丈夫か、エリカ」
カイルが私の体を支えてくれた。
その手は温かく、強かった。
「かっこよかったですよ。あの啖呵」
「お前こそ。国一つを人質に取るとはな」
私たちは顔を見合わせて、小さく笑った。
共犯者の笑みだ。
これで私たちは、完全に帝国を敵に回した。
もう後戻りはできない。
「帰りましょう、私たちの家に」
「ああ」
歩き出そうとした、その時。
ズズズ……ン!!
足元から、不気味な地響きが伝わってきた。
地震ではない。
もっと深く、重い、何かが目覚めるような振動。
廊下の魔導パイプが軋み、照明が明滅する。
「な、何だ!?」
カイルが私を庇うように抱き寄せる。
振動は収まるどころか、強くなっていく。
王宮全体が、いや帝都全体が震えている。
「地下だ……」
私は床を見下ろした。
皇帝の私室よりもさらに深く、この国の根幹にある場所。
「オリジンが……暴れ出した?」
皇帝は言っていた。
限界がきていると。
だが、このタイミングは良すぎる。
まるで、誰かが無理やりこじ開けたかのような。
「エリカ、走れ! ここから出るぞ!」
「ええ!」
私たちは走り出した。
けれど、その振動は、単なる故障の予兆ではなかった。
それは、私の過去(前世)からの呼び声であり、世界を終わらせるカウントダウンの始まりだった。
次話、崩壊する地下への招待。そこで待つのは真実か、絶望か。




