第7話 契約の破棄
森の闇は深く、ヘッドライトの光だけが世界を切り取っていた。
脱出から数十分。
追手の気配が消えたのを確認し、私は『スイートホーム号』を路肩に停めた。
エンジンの駆動音が消えると、車内には痛いくらいの静寂が満ちた。
助手席のカイルは、膝の上で拳を握りしめたまま、俯いている。
その重苦しい沈黙が、私の不安を苛立ちへと変えていく。
「……話してください、カイル様」
私は努めて冷静な声を出し、運転席から彼の方へ体を向けた。
「地下でセシリア殿下と何を話したのですか? そして、何を隠しているのですか」
カイルの肩がピクリと震えた。
彼はゆっくりと顔を上げたが、その瞳は私を見ていなかった。
どこか遠い、どうしようもない場所を見つめているような目だった。
「……取引をした」
掠れた声だった。
「セシリアと約束したんだ。俺が帝国軍に戻り、再び剣を振るうと」
心臓が冷たい手で鷲掴みにされたような感覚。
帝国に戻る。
それは、私との旅を終わらせるということだ。
「どうして……」
「条件がある。俺が戻る代わりに、帝国の法でエリカの身の安全と、技術特許の権利を永続的に保証させる。ヴァインのような手合いからも、国が盾となってお前を守る」
カイルは一気にまくし立てた。
まるで、自分自身に言い聞かせているかのように。
「これが最善だ。ヴァインはこの都市の評議会とも繋がっている。お前一人で逃げ切るのは難しい。だが、帝国の庇護下に入れば、誰も手出しはできない。好きな研究も続けられるし、金銭的にも困らないはずだ」
彼の言葉は理路整然としていた。
私の安全。
私の利益。
私の未来。
すべてを考慮し、最もリスクの少ない選択肢を選び取っている。
けれど、私の耳には、それは最悪の裏切りにしか聞こえなかった。
「……ふざけないでください」
低い声が出た。
怒りが、腹の底からマグマのように湧き上がってくる。
「誰が、そんなことを頼みましたか?」
「エリカ?」
「私がいつ、貴方の犠牲の上に成り立つ安全を欲しがりましたか? 私がいつ、自由と引き換えの飼い殺しを望みましたか!」
私はダッシュボードを叩いた。
乾いた音が車内に響き、カイルが驚いたように私を見る。
「私の人生です! 私の商売です! どうして相談の一言もなく、勝手に決めるんですか!」
「相談すれば、お前は断るだろう! 危険な道を選ぶだろう!」
カイルも声を荒らげた。
「俺はお前を守りたいんだ! あの地下で、お前が殺されかけた時……俺がどれほど怖かったか、分かるか!?」
彼の金色の瞳が、悲痛な色に揺れていた。
恐怖。
最強の竜騎士が抱いた、愛する者を失うことへの恐怖。
それは純粋な愛なのかもしれない。
けれど、それは私が求めていた「パートナー」の姿ではなかった。
「……そうですね。私は弱いですから」
私は冷ややかに告げた。
熱くなっていた頭が、急速に冷えていくのを感じる。
失望。
深い失望が、愛おしさを塗り潰していく。
「貴方にとって、私は守るべきお姫様でしかないんですね。隣に立って、背中を預け合う相手ではない」
「違う! 俺はただ……」
「違いません。貴方は私を信じていない。私の判断も、私の覚悟も、何一つ信用していないから、勝手に私の運命を売り渡したんです」
私は彼を真っ直ぐに見据えた。
カイルは言葉を失い、唇を噛み締めた。
反論できないのだ。
図星だから。
「……契約違反です」
私は静かに言った。
「私は貴方と『一生』の契約をしました。それは、共に生き、共に悩み、共に歩むための契約です。一方的に私を安全な場所に押し込め、自分だけが泥を被って去っていく……そんな自己満足の悲劇は、契約書には記載されていません」
「エリカ、頼む。分かってくれ。お前を失いたくないんだ」
「私もです! 貴方を失いたくなかった!」
声が裏返った。
涙が出そうになるのを、歯を食いしばって堪える。
ここで泣いたら、本当にただの「守られる女」になってしまう。
「でも、貴方が私を対等な人間として見てくれないなら……この関係は破綻しています」
私は深呼吸をして、震える指先でドアのロックスイッチに触れた。
カチリ、と解錠音が響く。
「降りてください」
「……え?」
「契約解除です、カイル・ドラグニル様。本日をもって、貴方を解雇します。そして、夫婦関係も解消させていただきます」
カイルは信じられないものを見るような顔をした。
「本気か? こんな森の中で、俺がいなくなれば……」
「一人でなんとかします。今までだってそうしてきました。貴方に守られるだけの人生なら、死んだ方がマシです」
私は彼を見なかった。
前だけを見て、ハンドルを握り締めた。
これ以上彼の顔を見ていたら、決心が鈍ってしまう。
「……行ってください。今すぐに」
長い、長い沈黙があった。
やがて、シートが軋む音がして、助手席のドアが開いた。
夜の冷気が流れ込んでくる。
「……すまなかった」
カイルの掠れた声。
そして、ドアが閉まる音。
バタン。
その音は、私の心の一部を断ち切る音のように聞こえた。
私はアクセルを踏んだ。
『スイートホーム号』が走り出す。
バックミラーを見ることはしなかった。
見れば、きっと彼が立っている。
捨てられた子犬のような顔で、遠ざかる私を見送っているはずだ。
車は闇の中を疾走した。
隣を見る。
誰もいない助手席。
彼が座っていたシートの窪みが、まだ生々しく残っている。
ついさっきまで、そこには温もりがあった。
笑い声があった。
安心があった。
「……広すぎるわよ、この車」
独り言は、震えていた。
エアコンの温度は適切なはずなのに、肌寒い。
広すぎるリビングも、機能的なキッチンも、彼がいなければただの箱だ。
私は唇を噛み、涙を堪えた。
後悔はない。
あれは必要な決断だった。
対等でいられないなら、一緒にいる意味はない。
私は私の尊厳を守ったのだ。
けれど、ハンドルを握る手から力が抜けない。
視界が滲む。
自由だ。
また一人に戻った。
誰にも縛られず、誰の顔色も窺わず、好きなように生きられる。
それなのに、どうしてこんなにも、世界が色を失ってしまったように見えるのだろう。
警告音が鳴ったのは、その時だった。
『アラート。周辺に多数の熱源反応。敵性魔力パターンを検知』
ナビゲーションパネルが赤く点滅する。
私は涙を乱暴に拭い、モニターを睨みつけた。
レーダーには無数の赤い点。
森の中から、何かが急速に接近してくる。
「……ヴァインね」
しつこい男だ。
カイルがいなくなったタイミングを、まるで待っていたかのような襲撃。
いや、実際に見張っていたのだろう。
最強の盾を失った私は、彼らにとって格好の獲物だ。
「上等じゃない」
私はスロットルレバーを叩き込んだ。
悲しみに浸っている暇すらない。
これが、私が選んだ「自由」の代償だというなら、払ってやろうじゃないか。
「迎撃システム、起動! 私の家には指一本触れさせないわ!」
私は叫び、アクセルをベタ踏みにした。
闇の向こうから、魔導兵器のサーチライトが私を捉える。
一人きりの籠城戦が、幕を開けようとしていた。
次話、カイルのいない戦場。孤立無援の私に迫る限界。




