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【第3章完結!】国を捨て、悪役令嬢は優雅な旅に出る  作者: 月雅
第2章

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第7話 契約の破棄



森の闇は深く、ヘッドライトの光だけが世界を切り取っていた。


脱出から数十分。

追手の気配が消えたのを確認し、私は『スイートホーム号』を路肩に停めた。

エンジンの駆動音が消えると、車内には痛いくらいの静寂が満ちた。


助手席のカイルは、膝の上で拳を握りしめたまま、俯いている。

その重苦しい沈黙が、私の不安を苛立ちへと変えていく。


「……話してください、カイル様」


私は努めて冷静な声を出し、運転席から彼の方へ体を向けた。

「地下でセシリア殿下と何を話したのですか? そして、何を隠しているのですか」


カイルの肩がピクリと震えた。

彼はゆっくりと顔を上げたが、その瞳は私を見ていなかった。

どこか遠い、どうしようもない場所を見つめているような目だった。


「……取引をした」


掠れた声だった。

「セシリアと約束したんだ。俺が帝国軍に戻り、再び剣を振るうと」


心臓が冷たい手で鷲掴みにされたような感覚。

帝国に戻る。

それは、私との旅を終わらせるということだ。


「どうして……」

「条件がある。俺が戻る代わりに、帝国の法でエリカの身の安全と、技術特許の権利を永続的に保証させる。ヴァインのような手合いからも、国が盾となってお前を守る」


カイルは一気にまくし立てた。

まるで、自分自身に言い聞かせているかのように。

「これが最善だ。ヴァインはこの都市の評議会とも繋がっている。お前一人で逃げ切るのは難しい。だが、帝国の庇護下に入れば、誰も手出しはできない。好きな研究も続けられるし、金銭的にも困らないはずだ」


彼の言葉は理路整然としていた。

私の安全。

私の利益。

私の未来。

すべてを考慮し、最もリスクの少ない選択肢を選び取っている。


けれど、私の耳には、それは最悪の裏切りにしか聞こえなかった。


「……ふざけないでください」


低い声が出た。

怒りが、腹の底からマグマのように湧き上がってくる。


「誰が、そんなことを頼みましたか?」

「エリカ?」

「私がいつ、貴方の犠牲の上に成り立つ安全を欲しがりましたか? 私がいつ、自由と引き換えの飼い殺しを望みましたか!」


私はダッシュボードを叩いた。

乾いた音が車内に響き、カイルが驚いたように私を見る。


「私の人生です! 私の商売です! どうして相談の一言もなく、勝手に決めるんですか!」

「相談すれば、お前は断るだろう! 危険な道を選ぶだろう!」


カイルも声を荒らげた。

「俺はお前を守りたいんだ! あの地下で、お前が殺されかけた時……俺がどれほど怖かったか、分かるか!?」


彼の金色の瞳が、悲痛な色に揺れていた。

恐怖。

最強の竜騎士が抱いた、愛する者を失うことへの恐怖。

それは純粋な愛なのかもしれない。

けれど、それは私が求めていた「パートナー」の姿ではなかった。


「……そうですね。私は弱いですから」


私は冷ややかに告げた。

熱くなっていた頭が、急速に冷えていくのを感じる。

失望。

深い失望が、愛おしさを塗り潰していく。


「貴方にとって、私は守るべきお姫様でしかないんですね。隣に立って、背中を預け合う相手ではない」

「違う! 俺はただ……」

「違いません。貴方は私を信じていない。私の判断も、私の覚悟も、何一つ信用していないから、勝手に私の運命を売り渡したんです」


私は彼を真っ直ぐに見据えた。

カイルは言葉を失い、唇を噛み締めた。

反論できないのだ。

図星だから。


「……契約違反です」


私は静かに言った。

「私は貴方と『一生』の契約をしました。それは、共に生き、共に悩み、共に歩むための契約です。一方的に私を安全な場所に押し込め、自分だけが泥を被って去っていく……そんな自己満足の悲劇は、契約書には記載されていません」


「エリカ、頼む。分かってくれ。お前を失いたくないんだ」

「私もです! 貴方を失いたくなかった!」


声が裏返った。

涙が出そうになるのを、歯を食いしばって堪える。

ここで泣いたら、本当にただの「守られる女」になってしまう。


「でも、貴方が私を対等な人間として見てくれないなら……この関係は破綻しています」


私は深呼吸をして、震える指先でドアのロックスイッチに触れた。

カチリ、と解錠音が響く。


「降りてください」

「……え?」

「契約解除です、カイル・ドラグニル様。本日をもって、貴方を解雇します。そして、夫婦関係も解消させていただきます」


カイルは信じられないものを見るような顔をした。

「本気か? こんな森の中で、俺がいなくなれば……」

「一人でなんとかします。今までだってそうしてきました。貴方に守られるだけの人生なら、死んだ方がマシです」


私は彼を見なかった。

前だけを見て、ハンドルを握り締めた。

これ以上彼の顔を見ていたら、決心が鈍ってしまう。


「……行ってください。今すぐに」


長い、長い沈黙があった。

やがて、シートが軋む音がして、助手席のドアが開いた。

夜の冷気が流れ込んでくる。


「……すまなかった」


カイルの掠れた声。

そして、ドアが閉まる音。

バタン。

その音は、私の心の一部を断ち切る音のように聞こえた。


私はアクセルを踏んだ。

『スイートホーム号』が走り出す。

バックミラーを見ることはしなかった。

見れば、きっと彼が立っている。

捨てられた子犬のような顔で、遠ざかる私を見送っているはずだ。


車は闇の中を疾走した。

隣を見る。

誰もいない助手席。

彼が座っていたシートの窪みが、まだ生々しく残っている。

ついさっきまで、そこには温もりがあった。

笑い声があった。

安心があった。


「……広すぎるわよ、この車」


独り言は、震えていた。

エアコンの温度は適切なはずなのに、肌寒い。

広すぎるリビングも、機能的なキッチンも、彼がいなければただの箱だ。


私は唇を噛み、涙を堪えた。

後悔はない。

あれは必要な決断だった。

対等でいられないなら、一緒にいる意味はない。

私は私の尊厳を守ったのだ。


けれど、ハンドルを握る手から力が抜けない。

視界が滲む。

自由だ。

また一人に戻った。

誰にも縛られず、誰の顔色も窺わず、好きなように生きられる。


それなのに、どうしてこんなにも、世界が色を失ってしまったように見えるのだろう。


警告音が鳴ったのは、その時だった。


『アラート。周辺に多数の熱源反応。敵性魔力パターンを検知』


ナビゲーションパネルが赤く点滅する。

私は涙を乱暴に拭い、モニターを睨みつけた。

レーダーには無数の赤い点。

森の中から、何かが急速に接近してくる。


「……ヴァインね」


しつこい男だ。

カイルがいなくなったタイミングを、まるで待っていたかのような襲撃。

いや、実際に見張っていたのだろう。

最強の盾を失った私は、彼らにとって格好の獲物だ。


「上等じゃない」


私はスロットルレバーを叩き込んだ。

悲しみに浸っている暇すらない。

これが、私が選んだ「自由」の代償だというなら、払ってやろうじゃないか。


「迎撃システム、起動! 私の家には指一本触れさせないわ!」


私は叫び、アクセルをベタ踏みにした。

闇の向こうから、魔導兵器のサーチライトが私を捉える。

一人きりの籠城戦が、幕を開けようとしていた。


次話、カイルのいない戦場。孤立無援の私に迫る限界。

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