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【第3章完結!】国を捨て、悪役令嬢は優雅な旅に出る  作者: 月雅
第2章

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第3話 ビジネスパートナー



静かすぎる朝だった。


昨夜カイルが出て行ってから、半日以上が経過している。

広すぎるリビングのソファに座り、私は冷めたコーヒーを啜った。

連絡はない。

書き置きもない。

私の「所有物」であるはずの夫は、所有者の許可なく姿を消したままだ。


「……減給ですね。いえ、契約不履行で違約金請求でしょうか」


独り言を呟いても、返事をする低い声はない。

胸の奥に鉛のような重たさがある。

それは怒りなのか、不安なのか。

私が一番嫌いな「計算できない感情」が、思考のノイズになっていた。


ピンポーン。


不意にインターホンの音が鳴った。

私は弾かれたように顔を上げ、モニターを見る。

カイルが帰ってきたのかと思った。

けれど、画面に映っていたのは、仕立ての良いスーツを着た浅黒い肌の男だった。


「こんにちは、エリカ様。近くまで来たのでご挨拶に伺いました」


商人、ヴァインだ。

手には果物の籠を持っている。

私は一瞬迷ったが、ロックを解除した。

今の私には、この静寂を埋めてくれる話し相手が必要だったのかもしれない。



「素晴らしい! この熱伝導率は画期的です!」


車内のキッチンで、ヴァインが感嘆の声を上げた。

私が開発した最新型の魔導コンロを見せると、彼は子供のように目を輝かせた。

その反応は、技術屋として純粋に心地よいものだった。


「従来の魔石回路だと、どうしても熱ムラが出るんです。だからミスリル線を螺旋状に配置して、熱対流を強制的に起こす仕組みにしました」

「なるほど……。螺旋構造で魔力のロスを減らすとは。合理的で美しい設計だ」


ヴァインは熱心にメモを取っている。

カイルなら「すげえな」の一言で終わる説明も、彼ならその理論的価値を正確に理解してくれる。

共通言語で会話ができる快感。

私は久しぶりに、知的な充足感を味わっていた。


「エリカ様。どうでしょう、このコンロの改良版を、私の商会で共同開発しませんか? 資金と設備は私が提供します。利益は折半で」

「悪くない条件ですね。ただ、特許権はこちらに残しますよ」

「構いませんとも。貴女の頭脳こそが最大の財産ですから」


契約はスムーズにまとまった。

感情論抜きで、互いの利益を最大化するビジネスライクな関係。

なんて快適なのだろう。

私の求めていたパートナーシップは、こういうものではなかったか。


ふと、ヴァインが表情を曇らせた。

「ところで……旦那様はお見かけしませんが?」

「……少し、用事で出かけています」

「そうですか。実は、あまり良い噂を聞かないもので」


彼は声を潜めた。

「帝国軍が国境付近に集結しているそうです。表向きは演習ですが、実際はこの都市への軍事侵攻を計画しているとか」

「侵攻? まさか、一人の脱走兵を捕まえるために?」

「『伝説の竜騎士』と『万能の魔導車両』。それだけの価値があるということでしょう」


ヴァインは真剣な眼差しで私を見た。

「エリカ様。旦那様は腕が立つようですが、所詮は野蛮な軍人です。政治的な駆け引きや、貴女を守るための根回しはできないでしょう」

「……」

「私なら、商会のネットワークを使って貴女を安全な場所へ匿えます。どうですか、今夜、詳しい対策を含めて夕食でも」


それは明確なアプローチだった。

カイルを「野蛮な番犬」と切り捨て、自分こそが相応しいパートナーだと暗に示している。

普段の私なら、警戒して断っていただろう。

けれど、今の私はカイルへの苛立ちで心がささくれ立っていた。


相談もなしに消えた夫。

私を守るためだと言って、私を蚊帳の外に置く男。

それよりは、情報を共有し、対等に扱ってくれるこの男の方が、よほど誠実ではないか。


「いいでしょう。お受けします」


私はカイルへの当てつけのように、その誘いに乗った。



ヴァインが予約したのは、街一番の高級レストランの個室だった。

窓の外には、夕暮れに染まる港町の絶景が広がっている。

テーブルには最高級のワインと、見たこともない創作料理。


「乾杯しましょう。我々の新しいパートナーシップに」

「乾杯」


グラスを合わせる。

ヴァインのエスコートは完璧だった。

話題は豊富で、私の興味を引く最新の魔導論文の話から、この街の経済情勢まで多岐に渡る。

カイルといる時の、安心感とは違う刺激。

知的好奇心が満たされる喜び。


(カイル様と一緒だと、話題は『今日の飯』か『魔獣の倒し方』ばかりだものね)


ふと、そんな比較をしてしまう自分に苦笑する。

居心地は悪くない。

はずなのに、なぜか胸の奥が空虚だった。

完璧すぎる食事は、どこか味気ない。

焚き火の前で、手づかみで食べたロブスターの方が美味しかった気がするのは、なぜだろう。


「エリカ様?」

「あ、いえ。少し酔ったかもしれません」

「無理はいけません。……ですが、貴女は本当に魅力的だ。才能も、美貌も」


ヴァインが身を乗り出し、テーブルの上の私の手に触れようとした。

その指先が触れる直前。


ガシャアンッ!!


個室の扉が、蹴破られたかのような音を立てて開いた。

給仕たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。

入り口に立っていたのは、泥と埃にまみれたコートを羽織った男だった。


「……カイル様」


私は息を呑んだ。

カイルだ。

髪は乱れ、目の下には隈がある。

一睡もしていないような憔悴ぶりだが、その瞳だけが異様な光を放っていた。


「……見つけた」


カイルが低く唸るように言った。

彼はヴァインを睨みつけ、ゆっくりと歩み寄ってくる。

その一歩ごとに、空気が凍りついていくような錯覚を覚える。

殺気だ。

戦場でしか見せない、剥き出しの敵意。


「おや、旦那様。奇遇ですね。今、エリカ様と大事な商談を……」

「その汚い手を、エリカから離せ」


カイルの声と共に、不可視の衝撃波が走った。


パリンッ。


テーブルの上のワイングラスが、何の前触れもなく砕け散った。

赤い液体が純白のクロスに広がる。

魔法ではない。

純粋な闘気による威圧だけで、物理的に物を破壊したのだ。


ヴァインが顔を引きつらせて手を引っ込めた。

「なっ……野蛮な! ここは食事の場ですよ!」

「知るか。……エリカ、帰るぞ」


カイルが私の腕を掴んだ。

その力は強く、痛いほどだった。

有無を言わせぬ強引さ。

私の意思など確認もしない一方的な命令。


私の中で、何かがプツンと切れた。


「……離してください」

「エリカ?」

「離してくださいと言っているんです!」


私はカイルの手を振り払った。

砕けたグラスの破片が散らばるテーブル越しに、私は夫を睨みつけた。


「なんてことをするんですか。マナーも守れないんですか、貴方は」

「こいつは危険だ。お前を騙そうとしている」

「ヴァインさんは私のビジネスパートナーです! 危険だと言うなら証拠を出してください! 何も説明せず、勝手に消えて、戻ってきたと思ったら暴力で解決しようとする……私は貴方の所有物じゃありません!」


叫んでしまった。

カイルが目を見開き、傷ついたような顔をする。

その表情を見て、胸がズキリと痛んだ。

言い過ぎたかもしれない。

でも、止まらなかった。


「……頭を冷やしてください。今日は帰りません」

「エリカ……」


私は彼に背を向けた。

ヴァインが勝ち誇ったような微かな笑みを浮かべたのが視界の隅に見えたが、今はそれどころではなかった。

ただ、カイルの悲痛な視線から逃れたかった。


信頼という名の糸が、音を立てて千切れていく音が聞こえた気がした。


次話、決裂した二人。私はカイルを置いて単身ヴァインの工房へ向かう。


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