第22話 キラキラがお好き
食堂の窓外からは、しとしとと秋の雨音が聞こえていた。この数日、天気はずっとこの調子だ。
「エミリア」
スープを口に運びかけたところで、父に呼ばれた。
「近頃は朝晩が冷える。体調はどうだ」
「……はい。おかげさまで」
それきり、父は書類に目を戻した。短いやり取りだ。だが、以前なら考えられなかった。デビュタント以来、父は時々こうして声をかけてくる。そのたびにどう返せばいいのか分からなくなる。
(どういう風の吹き回しかしら)
まあ、朝から嫌味を言われるよりマシだ。
兄は騎士団の巡回の話をしている。母は黙って紅茶を飲んでいた。
(それにしても、今日も雨か……剣の稽古は無理ね。書庫で過ごすしかないか)
食事を終えて席を立つと、父が「気をつけて過ごせ」と短く声をかけてきた。やっぱり、最近の父はどこか変だ。
◇ ◇ ◇
食堂を出て廊下の角を曲がったところで、ずぶ濡れのアンナと鉢合わせた。
「アンナ! どうしたの、そんなに濡れて」
「お嬢様……実は」
抱えていた籠の布を、アンナがそっとめくった。
手のひらに収まるほどの灰色の子猫だ。雨に濡れた毛が貼りつき、小さな体がぷるぷると震えている。
「裏庭の物陰で見つけたんです。母猫の姿がどこにもなくて……このままでは」
「……お父様には内緒よ。まず温めてあげましょう」
自室へ連れ帰り、アンナが布で子猫を拭いている間に、濡れた袖を着替えようとドレッサーを開けた。
手が止まった。
「……ロケットがない」
いつもここに置いてある、銀のロケットのことだ。引き出しも、宝石箱も、寝台の下も探した。どこにもない。
「お嬢様、最後にご覧になったのはいつですか?」
「三日前の夜……だったと思う」
幼い頃、母からもらったものだ。母とのあいだに残っている、数少ない思い出の品だった。アンナもそれを知っている。
「必ず見つけましょう、お嬢様」
アンナの目が妙に据わっているのが少し気になったが、今はこの子猫のことが先だ。
◇ ◇ ◇
午後、ラウルを呼び、三人で相談した。
「なるほど……迷い猫か」
「お父様には絶対に内緒にしたいの。もし見つかったら……」
「旦那様のことだ、『屋敷内で動物を飼うなど言語道断』となるだろうね」
「きっとそう。だから隠すのよ」
隠し場所は屋敷の隅にある古い蔵に決めた。ここはほとんど使われておらず人目につかない。埃を払い、古い毛布で寝床をこしらえ、鳴き声が漏れないようラウルが音を遮る結界を張った。
「壁の板、ところどころ隙間があるな。あれくらい小さいと、抜け出せるかもしれない」
「夜は箱に入れておくわ」
子猫は毛布の上で丸くなり、すぐに寝息を立て始めた。
その横で、アンナが手帳を広げている。
「では、これより『ロケット紛失事件』の捜索会議を始めます」
「……会議?」
ラウルが眉を寄せた。
(ああ、これ。また本の影響ね)
アンナも自分の影響か、意外に本を読む。ただそのたびに、すぐに影響を受けるのだ。そういえば先日、最近は探偵ものにハマっていると言っていた。
いつものアレよ、とラウルに目配せすると、ラウルも察したのか肩をすくめた。
◇ ◇ ◇
翌日からアンナの捜査が始まった。
「皆さん! お嬢様の銀のロケットを見かけませんでしたか? 事件です、事件!」
厨房に響き渡る声に、使用人たちが手を止める。
「そういえば三日前の夜中、二階の廊下でカタカタって音がしたよ」
料理女中のベスが言った。
「犯行時刻は夜中……! ハンスさん、その時刻は何をされていましたか?」
仕込みをしていた料理人のハンスが手を止め、ムッとした顔を見せた。
「なんで俺が疑われてるんだ」
「いえ、全員が容疑者です!」
「……アンナ、推理小説の読み過ぎね」
ベスが呆れたように言うと、使用人たちは苦笑いを浮かべるしかなかった。
アンナの捜査は三日に渡って続き、庭師から馬丁まで、屋敷中の使用人が聞き込みを受けた。
だが、ロケットは出てこなかった。
◇ ◇ ◇
子猫の世話は思った以上に骨が折れた。
ある朝、厨房で山羊の乳を瓶に分けてもらい、裏口へ急いでいたときだった。蓋が緩んでいたらしい。乳がこぼれ、ドレスの胸元にじわりと白い染みが広がった。
(やばっ……!)
「エミリア」
顔を上げると、廊下の先に父が立っていた。
「朝から何をしている」
「あ、えっと……喉が渇いて、乳を……こぼしてしまって」
父は、染みの付いたドレスと、手の中の瓶を見比べた。
「……まったく。落ち着きのない」
それだけ言って書斎の方へ歩いていった。
ほっと息をついたが、心臓はまだ跳ねていた。
それにしても、最近の父の態度の変わりように困惑してしまう。以前の父なら、小言を浴びせるか、冷たい視線を向けるだけで立ち去るかだったはずだ。
そういえば、今朝も少しだけ疲れた顔をしていた気がする。
◇ ◇ ◇
一週間が経つ頃には、子猫はすっかり元気になっていた。蔵に入るなり駆け寄ってきて、足首に頭を擦りつけてくる。箱に入れても上手に爪を立て、ひょいと飛び出してしまう始末だ。
「……ホント、元気になったわねぇ」
「でも、いつまでもこのままってわけにはいかないよな」
箒を使いながら、ラウルがつぶやいた。
「分かってるわ。分かってるけど」
ロケットもまだ見つかっていない。
それにここ最近、夜になるとたまに窓の外からカタリと音がするのだ。音はそれだけではなく、何かを引きずるようなものも聞こえていた。
(まさか、この子が抜け出しているのかしら)
子猫は蔵の隅で遊んでいる。
「あら?」
寝床の毛布を畳み直していたアンナの手が止まった。毛布の襞の間で何かが光っている。アンナが指先でつまみ上げると、銀の鎖がしゃらりと垂れた。
「お嬢様、これ……!」
銀のロケットだった。
「どうして、こんなところに」
三人の視線が同時に蔵の隅へ向いた。
子猫は遊ぶのをやめ、のんびりと前足を舐めていた。こちらの視線に気づくと顔を上げ、丸い目でじっと見返してくる。
「……みゃあ」
悪びれる様子は欠片もなかった。
「光るものが好きなのね、この子」
「拾われる前から、屋敷のまわりをうろついていたんだろうな。窓から入ってロケットをくわえて、どこかに隠して……」
三日前、そして最近の音。犯人は最初から目の前にいたのだ。
アンナがぱたんと手帳を閉じた。
「名探偵の推理は外れましたが、犯人は確保いたしました」
三人で声を上げて笑った。
ガチャリ、と蔵の扉が開いたのはその時だった。
戸口に母が立っていた。
三人とも凍りついた。子猫を抱いたアンナ。ロケットを握りしめた自分。そして箒を持ったまま固まるラウル。誰がどう見ても、何か隠し事をしていた現場だ。
「奥様、申し訳ございません! わたくしが勝手に──」
アンナが前へ出た。だが母の目は、アンナにも、子猫にも向いていなかった。自分の手の中を見ていた。
「……ロケットが失くなったと聞いたものだから」
母が静かに言った。
アンナが屋敷中を聞き回っていたのだ。母の耳に入らないはずがなかった。
「見つかったのね」
「……はい」
「そう」
母は一歩、蔵の中へ入ってきた。
「まだ、持っていてくれたのね」
その声が、思いがけないほど柔らかかった。
「七歳の誕生日だったわね。『お母様と同じものが欲しい』って、あなたがねだって」
覚えている。母の胸元で揺れていた銀のロケット。いつも見上げては、同じものが欲しいとせがんだ。大きくなったらね、と母は笑っていた。それなのに、七歳の誕生日に、本当にくれたのだ。
あのとき、母は笑っていた。
今、目の前の母も、少しだけ笑っている。
だが、その笑みはすぐに翳った。
「……ごめんなさいね」
何に対しての言葉なのか分からなかった。昔話をしたことにか。それとも──
訊き返す前に、子猫が鳴いた。
「みゃあ」
母の視線が、アンナの腕の中へ移る。
「その子は?」
「せ、先日の雨の日に、裏庭で……」
「そう」
母はしばらく子猫を見つめていた。
「動物が好きなご夫人を知っているわ。訊いてみましょう」
それだけ言うと、静かに蔵を出ていった。
三人とも、しばらく動けなかった。
「……今の、本当にお母様だった?」
「奥様、とても優しいお顔をされていました」
アンナが、子猫を抱きしめながら言った。
◇ ◇ ◇
数日後、子猫は男爵家の馬車に揺られていった。三人で、門の前から見えなくなるまで手を振った。
その夜、自室でロケットを開いた。
小さな肖像が入っている。花を摘む、幼い自分の絵だ。母がこれを描かせたのは、いつだったのだろう。あの頃の母は、何を思ってこの絵を見ていたのだろう。
ごめんなさいね、と言った母の声が、まだ耳に残っている。
今度、昔の話を聞いてみてもいいかもしれない。
ロケットを閉じ、胸元に戻した。
その時、廊下から兄の声が聞こえてきた。部下と話しながら、足早に通り過ぎていく。
「──例の『彷徨う鎧』だが、明日から我が隊も捜索に加わる」
足音が遠ざかっていった。
(彷徨う……鎧?)
窓の外では、いつのまにか雨が上がっていた。雲の切れ間から月がのぞいている。




