第13話 泣く精霊
子爵家の令嬢──マチルダから二通目の手紙が届いたのは、デビュタントの礼状のやり取りが一段落した頃だった。
『我が家で説明のつかないことが起きております。他の方にお話ししても、きっと迷信深い子爵家の戯言と笑われるでしょう。このようなことを笑わずにお聞きいただけるのはエミリア様しかいないと思い、藁にもすがる思いで筆を取っております──』
便箋は一枚きりで筆跡がところどころ乱れていた。マチルダは知的で落ち着いた印象だった。そんな子がここまで書くとは、と眉を寄せた。
「アンナ、出かける支度をして。マチルダのお屋敷へ伺うわ」
「承知いたしました。お供の準備も……」
「いえ、一人でいいわ。人に聞かれたくない話でしょうから」
文面から察するに、あまり人に聞かれたくない話のようだ。
◇ ◇ ◇
子爵邸は王都の郊外、古い住宅街の奥にあった。蔦に覆われた石壁と尖った屋根。歴史を感じさせるが、お世辞にも手入れが行き届いているとは言いがたい。だが、それがかえって神秘的な雰囲気を醸し出していた。
初老の執事に迎えられていると、階段からマチルダが駆け下りてきた。
「エミリア様! お忙しい中、本当にありがとうございます。まさか本当に来てくださるなんて……」
嬉しそうな声のマチルダだったが、近くで見ると目の下に薄いクマができている。よほど眠れない日が続いているのか。
「突然押しかけてごめんなさいね。お手紙を読んで、放っておけなくて。お返事を出す前に来ちゃったわ。それで、一体どんなご相談なの?」
「……では、こちらへ」
通された応接室は華美ではないが落ち着いた調度で整えられていた。ただ、人の気配が少ない。廊下ですれ違った使用人は二人だけだった。
「二週間ほど前からなんです」
マチルダの紅茶を注ぐ手が微かに震えている。
「夜中、二時ごろになると……泣き声が聞こえるようになりました」
「泣き声?」
「はい。女の人が、深く沈んで泣いているような。でも、どこから聞こえるのか分からないのです。壁の中なのか、天井なのか」
最初は微かだったものが、日を追うごとに大きくなった。最近では屋敷中の者が目を覚ますほどになっていたという。
「使用人が半分辞めました。屋敷の精霊が苦しんでいる、と言って」
「精霊?」
「我が家には昔から、屋敷を守る精霊が棲んでいるという言い伝えがありまして。ごくたまに、コトッ、と音がすることがあったのです。代々、精霊の気配として敬ってきました」
カップに口をつけないまま、マチルダは続けた。
「その精霊が泣いているのだと、皆が……」
しばしの沈黙の後、マチルダから「説明のつかない現象があると思うか」と訊かれた。
自分たちの知っていることなど、実はほんの少しだけだと思う。オルフェン先生もそう言っている。知らないことに遭遇した時、人は「説明がつかない」と感じるのではないか。
「古代史を読んでいると、理屈の通らない記録にいくらでも出会うわ。だから、頭から否定はしない」
そう答えるとマチルダは息を吐いた。強張っていた肩がわずかに下りる。
「ありがとうございます。……でも本当に恐ろしいのは、泣き声ではないのです」
数日前の夜、泣き声がひときわ激しく響いた。翌朝、父が屋敷を検めると、宝物庫から家宝が消えていたという。
「『星詠みの懐中時計』と申します」
「懐中時計……」
「時計と呼んでおりますが、時を刻みません。蓋を開けると、内側に星座のような光の模様がございます。古い記録には『天の導きを示す聖なる品』と」
聞くからに不思議な宝物だ。
「触ると、時折わずかに温かくなるのです」
──あの日、鉄巨人の胸の文様に触れた指先。じわりと伝わってきた、金属でも陶器でもない感触。
鉄巨人は、強引ではあるが聖遺物と認定された。その懐中時計も聖遺物の類なのだろうか。だとしたらこれまで教会がよく没収しなかったものだ、と思った。
「見せてもらえるかしら。宝物庫を」
「はい。父も、エミリア様にはぜひお会いしたいと申しておりました」
マチルダが使用人を呼び、耳打ちすると、使用人は一礼して応接室を後にした。
「父にお願いしました。こちらへどうぞ」
マチルダに連れられて宝物庫へ向かうと、扉の前で髪に白いものの混じった紳士が待っていた。この温厚そうな人物がマチルダの父──子爵だった。
「テルネーゼ侯爵家のご令嬢に、このような話でお越しいただくとは」
子爵は深く頭を下げた。侯爵家の者に対する礼節を保とうとしているが、その顔には疲れが見て取れ、娘と同じようにクマが浮いている。
「いえ、お気になさらず。わたくしが好きでやっていることですから」
子爵は腰から鍵を外した。鍵穴に差し込み、重い鉄扉を引く。ひんやりとした空気が扉の下から這い上がってきた。
「鍵は常に私が持っております。合鍵はございません。だからこそ……何が起きたのか、見当もつかないのです」
困惑する子爵の案内で、中へ足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
宝物庫は思ったより狭かった。
石壁に囲まれ、棚には銀器や巻物、装飾品、武器などがぎっしりと並んでいる。埃の積もり方に乱れはない。ただ、部屋の中央に据えられた台座だけ、丸く埃が抜けていた。おそらく『星詠みの懐中時計』はそこに置かれていたのだろう。
「他のものは一つも手をつけられておりません。あの時計だけが」
子爵の声が沈む。
「それで、泣き声はその後どうなったんでしょうか?」
「不思議なことに、時計が消えた日からぴたりと止まったのです。その代わり、なぜかガサガサという音に変わりました。でも、その音も徐々に小さくなっています」
子爵の言葉に、マチルダが目を潤ませながら続ける。
「精霊が時計を求めていたのかもしれません。きっと、泣きながら探していたのですわ」
精霊の仕業かどうか分からないが、まったく否定もできない。
なにしろ、この密閉された空間から煙のように消えたとは考えにくいのだ。少なくとも、この部屋のどこかに外部と通じる場所があるはずだ。
おもむろにしゃがみ込むと、床に目を凝らした。もし古代の何かが関わっているのなら、あの時のように──
その瞬間だった。
石畳の上に淡く光る線が浮かんで見えた。中央の台座から扉とは反対の壁の隅へ、細くまっすぐに床を這っている。
「この光……」
思わず口にすると、マチルダと子爵が眉を寄せた。
「え、光ですか?」
子爵にもマチルダにも、この光の線は見えていないらしい。二人には自分がただ空の床を眺めているだけに見えているのだろう。
だが、自分には確かに見えている。研究所で鉄巨人の文様が光ったときのように、浮かび上がってくるような光だ。
線を辿って壁へ近づく。光の線は壁で途切れていた。その石に手を当てそっと押してみると、石はわずかに沈んだ。
「……動くわ」
「え?」
子爵が駆け寄る。二人がかりで押し込むと、石ひとつ分の隙間の奥に拳ほどの穴が現れた。奥は暗く、何も見えない。
「こ、これは……」
子爵が覗き込み、顔色を変えた。
「この奥はどこかへ通じているのでしょうか?」
「い、いえ。存じません。奥にこんな空間があるとは……」
尋ねると子爵は首を振った。彼も知らなかったらしい。
子爵が呻いた。
「まさか、精霊が本当に……ここを通って……?」
「……まだ、分かりません。ですが見るかぎり、扉以外ではここしか外へ通じていないようですね」
(この奥を調べられたら良いのだけど)
「マチルダ、これは……とても興味深いわね」
立ち上がりバッと振り返ると、マチルダが目を丸くした。
「興味深いだなんて……怖くありませんの?」
「怖い? むしろ、謎めいていて魅力的だわ」
マチルダは怪訝な表情を浮かべた。
「……魅力的、ですの?」
(ごめん、今のはちょっと不謹慎だったかも)
さすがに頬を引き締めた。だが、湧き出た好奇心はどうにも抑えられない。
「ええ。でも放ってはおけないわね。精霊なのか、それとも別の何かなのか──私が確かめてみるわ」
「え……でも、危険かもしれませんわ」
「危険だからこそ、放ってはおけないのよ。友達でしょう?」
マチルダの瞳が潤んだ。
「本当に……調べてくださるの?」
「もちろん! この奥がどこへつながっているか調べないといけないし。ああ……そういえば、もう泣き声は止んだのよね? また、泣き声が聞けないかしら。それでもガサガサという音が気になるわね。精霊がどこへ向かったのか分かるかも。──そうね、今夜から調査開始よ!」
ここまで一気にまくし立てたところで、マチルダが唖然とした表情になっていることに気づいた。一人先走ってしまったことに恥ずかしくなる。
「ご、ごめんなさい。少し興奮しちゃったわ」
マチルダは慌てて首を振った。
「いえ、ありがとうございます。でも、今夜から……?」
「ええ。それと、私の友人を一人呼ばせていただくわ。ラウルというんだけど、魔法に詳しいから頼りになると思うの」
「本当に……大丈夫なんでしょうか?」
心配するマチルダに、ニヤリと口角を上げた。
「ええ、きっと。その精霊とやら、一体何者なのか調べましょう!」
使用人に、ラウルに屋敷へ来てもらうよう伝言をお願いした。
謎めいた現象、必ず正体を突き止める。
──あの穴の奥から、ひやりとした空気が流れてきた気がした。ただの隙間風だろうか。




