第9話 剣なき決闘
その日の朝は、いつもより早く目が覚めた。
窓から差し込む光がいつもより眩しく感じられるのは、今日がデビュタントの日だからだろうか。
「お嬢様、いかがですか? 少しお顔色が優れないようですが」
アンナが心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫よ。ただ、緊張してるだけ」
「それは当然でございます。でも、きっと素晴らしい夜になりますよ」
午後になり、支度をはじめる。
アンナは慣れた手つきでエミリアの髪を整え始めた。普段の貴族令嬢らしくない簡素な三つ編みとは違う、優雅な髪型に仕上げていく。
髪を整え、普段ろくにやらない化粧を施されると、鏡の中に映る自分が見知らぬ令嬢のように見えた。
そして、マダム・シャルロットが仕立てたあのドレス。淡いブルーのシルクが朝日を浴びて真珠のように輝いている。袖を通した瞬間、滑らかな生地が肌に吸い付くように馴染んだ。
「まあ……」
鏡の前に立った自分を見て、思わず息を呑む。
「お嬢様、本当にお美しくて……王都でも一番の美女でいらっしゃいます」
「やめてよ、アンナ。そんな大げさな」
照れ隠しに笑ってみせたけれど、内心では少し嬉しかった。やっぱり綺麗になるのは悪い気がしない。でも、これが私の全てじゃない──そう自分に言い聞かせる。
そこへ、ベルナードが様子を見にやってきた。
「支度はどうだ?」
「はい、お父様。もう準備はできております」
ベルナードは娘の晴れ姿を見て、満足そうにうなずいた。
「うむ、なかなか見栄えがする。今日は家門の名に恥じぬよう、しっかりと振る舞え」
「承知しております」
(今さら急に父親面して……なんなのよ、もう。いや、今日くらいはおとなしくしておこう。せっかくのデビュタントなんだから)
表情はしっかり〝おしとやかな令嬢〟を保った。
夕方、王宮へ向かう馬車の窓から外を眺めていると、王宮が近づくにつれて、同じようにデビュタントに向かう馬車が増えてきた。窓越しに見える令嬢たちは皆、この日のために仕立てた豪華なドレスに身を包み、緊張と期待で頬を紅潮させている。
(みんな、今夜が人生の分かれ道だと思ってるのね)
エミリアも例外ではない。このパーティーでの評判が、今後の縁談や社交界での立場を左右する。大事なスタートなのだ。
やがて、石畳の向こうに王宮の尖塔が見えてきた。近づくにつれて、その荘厳さがはっきりと分かる。
到着して馬車を降りた瞬間、王宮の圧倒的な美しさに息を呑んだ。白い石造りの壁が夕日を受けて金色に輝き、色とりどりのステンドグラスが宝石のように煌めいている。
大広間に足を踏み入れると、エミリアは目を見開いた。天井に輝くのは蝋燭ではなかった。青白く安定した光を放つ、魔導灯のシャンデリアが無数に配置されていた。
「すごい……これが魔導灯なのね」
魔法で作られた照明技術。話には聞いたことがあるが、実際に目にするのは初めてだった。大広間全体が昼間のように明るく照らされ、床の大理石に貴族たちの華やかな衣装が映り込んでいる。
楽団の優雅な調べが響く中、エミリアが会場に入ると、一斉に視線がこちらに向けられた。会場には数十名の令嬢が集まっている。たしかに、王国には大小数百の家門があるが、今年デビューする令嬢だけでもこんなにいるのかと驚いた。
「テルネーゼ侯爵家、エミリア・シル・テルネーゼ様」
司会の声が響く。
エミリアがエスコート役として招かれていた青年と歩を進めると、ざわめきが波のように広がる。きっと『二つ持ち』の噂が既に広まっているのだろう。王と王妃への挨拶を済ませると、王妃は温かな微笑みを向けた。
エスコート役の青年がいったん離れ、パーティーが始まると、エミリアはすぐに違和感を覚えた。
下位の家門の子女は、侯爵家の娘である自分には直接話しかけてこない。それがマナーだ。だが、遠巻きに様子を窺い、ひそひそと囁き合っている。
「あら、あちらがテルネーゼ侯爵家の……」
「一年遅れでのデビューですって。何か訳でもあったのかしら」
「でも『二つ持ち』のお噂が……」
(なんか嫌な感じ。まるで品定めされているみたい)
居心地の悪さに耐えかねて、エミリアは自分から下位の令嬢たちに話しかけてみた。相手も表面的には礼儀正しく応対してくれるが、話題は家門のことや血脈のこと、着ているドレスの話ばかり。正直、退屈だった。
そんな時、会場の隅に一人でいる令嬢に気づいた。他の令嬢たちとは少し離れたところで、居心地が悪そうに佇んでいる。
「こんばんは。お一人でいらっしゃるの?」
声をかけると、相手は驚いたように振り返った。
「あ、エミリア様! マチルダと申します。お声をかけていただいて光栄です」
マチルダは慌てて礼をとった。
話してみると、マチルダは歴史や古い物語が好きな、知的な雰囲気の子爵家令嬢だった。
「古代王朝の遺跡にご興味がおありなんですね?」
「はい! でも、なかなかそういうお話ができる方がいらっしゃらなくて……」
久しぶりに楽しい会話だった。人のことは言えないけれど、こんな子だったら、たしかにこの場は居心地が悪いだろうなと内心で共感していた。
やがて音楽が変わり、ダンスの時間が訪れた。エスコート役として招かれた青年たちが、次々と令嬢たちのもとへ歩み寄っていく。爵位の上下は問われず、誰もが自由に誘いの手を差し出した。
案の定、エミリアのまわりにはあっという間に人だかりができる。だが、向けられる関心は彼女そのものではなく──侯爵家の名と〝二つ持ち〟の血だった。胸の奥で、小さく息をついた。
「我が領地では優秀な魔導士が不足しておりまして……」
「侯爵家とは、今後も良い関係を……」
「『二つ持ち』の血脈でいらっしゃれば……」
ダンスを交わしながら、エミリアは心の中で比較していた。書店のあの人──ジルは、こんなことは言わなかった。血脈も家格も持ち出さず、純粋に古代史について語り合えた。ここにいる人たちとは、まるで違う。
「ご領地のご発展は、適切な政策と住民への配慮が一番大切かと存じます」
「もちろん家門も大事ですが、やはり夫となる方には、わたくし自身を大切にしていただきたいですわ。そういう関係に憧れてますの」
エミリアは優雅にいなしていく。相手が困ったような笑みを浮かべるのを見ながら、心の奥でそっと舌を出した。
ダンスに疲れて涼を求め、庭園のテラスに出た。夏の終わり。日中はまだまだ暑いが、夜になると風が頬に心地よい。テラスには同じように、夜風を楽しみながらグラスを交わしている者たちがいた。
ふと、テラスの端で、一人の令嬢が数人の令嬢たちに囲まれているのに気づいた。──あれは……マチルダ? エミリアは横目で見ながら聞き耳を立てた。
「マチルダ様のお家って、血脈がお薄いんですってね」
令嬢の一人が、嫌味たっぷりに口を開いた。
「子爵になれたのは、上の方々にお取り入りするのがお上手だから、だとか?」
「先ほどもエミリア様と仲良くされてましたわねぇ……まあ、お上手なこと」
取り巻きたちがクスクスと笑う。
マチルダは涙目になりながらも、必死に微笑みを保とうとしていた。
エミリアは小さく息を吸い、胸の奥で何かが静かに切り替わるのを感じた。
(血脈で誰かを縛りつける空気……一番嫌いよ)
「あら、随分と狭いお考えですのね」
エミリアは微笑みを浮かべて歩み寄った。令嬢たちはぴくりと肩を震わせ、一斉に振り向く。
「血脈の強弱で人の価値が決まるなんて」
エミリアの顔を見て、令嬢たちは慌てて畏まった。だが、リーダー格の令嬢は目を細める──たしか、侯爵家の令嬢だ。
「あら、エミリア様。でも現実問題として……」
言い返そうとした彼女を、エミリアはゆっくりとした一言で制した。
「わたくしは、マチルダ様のお人柄や、歴史に対する造詣の深さに感心しておりますの」
侯爵令嬢はうっすらと口角を上げた。歴史が何の役に立つ、とでも言いたげな表情だ。
「お言葉ですが、歴史だけでは家門の繁栄にはつながらないですわ。あなたこそ『二つ持ち』でいらっしゃるのでしょう? 血脈の価値をご存じのはず」
(みんな、口を開けば二つ持ち、二つ持ちって……)
エミリアは胸の内に湧き上がった炎を秘め、ひとつ息をついた。
「あら、わたくしが『二つ持ち』だなんて──よくご存じですこと」
令嬢たちの表情がぴたりと固まる。
「案外、父が見栄を張っているだけかもしれませんわ」
手に持っていた扇をパシッと閉じ、侯爵令嬢へ剣のように向けた。
「もし、気になるようでしたら──我がテルネーゼ侯爵家に〝正式に〟問い合わせなさいますか?」
瞬間、夏の夜のテラスが凍りついた。周囲の者も息を呑み、エミリアたちを凝視している。
血脈の詳細は家門の秘密──たとえ建前であったとしても、それが不文律だ。侯爵令嬢は、言ってはいけない相手に口を滑らせたことに気づいたのか、顔を引きつらせ、握りしめた扇を震わせた。
「それに、古代からの歴史の積み重ねで、今の王国や、わたくしたちの家門があるのでは? わたくしも、もっと学びたいと思っておりますのよ」
他の令嬢たちもバツが悪そうにうつむいた。
(この人たちの偏見、本当に腹が立つ……!)
その時だった──脳裏に、あの無機質な声が響く。
《調査モード──起動》
エミリアの体に緊張が走った。またあの声──!?
その瞬間、広間からざわめきが聞こえてきた。振り返ると、シャンデリアの魔導灯が激しく点滅している。青白い光が不安定に明滅し、会場が騒然となりはじめた。
なんで? どういうこと? もう止めて! ──エミリアが胸の内で叫ぶと、シャンデリアの点滅はぴたりと止まった。まるで彼女の感情に呼応するかのようだった。
官吏たちが慌ただしくやってきた。
「魔導灯に異常が発生したようです。安全のため調査いたします。皆様、隣の間にご移動をお願いいたします」
移動の際、マチルダがエミリアの元に駆け寄ってきた。
「エミリア様、先ほどはありがとうございました。勇気をいただきました」
「とんでもないわ。つい、我慢できなくって。また歴史や伝承のお話をしましょうね」
他の下位貴族の令嬢たちも、エミリアの周りに集まってくる。
「エミリア様、カッコよかったです」
「本当に素敵でした」
令嬢たちはマナーなど忘れてエミリアを取り囲んだ。彼女たちの表情は、まるで劇団の人気役者を見るかのようだった。
そんな喧騒の少し外側で、静かにエミリアを見つめる視線があった。王妃だった。
その気品ある眼差しは、すべてを見通すように落ち着き払っていた。だが、エミリアが見せた気丈な振る舞いに、王妃はふと、ほんのわずかに微笑む。その穏やかな笑みは、彼女が最初から一部始終を見届けていたことを何より雄弁に物語っていた。
やがて王妃は、ひとつ裾を揺らし、ゆるやかに歩み寄ってきた。その気配に気づいた令嬢たちは弾かれたように道を空け、慌てて深々と礼をとる。
王妃殿下が直接いらっしゃるなんて──エミリアも胸が跳ね、急いで身をかがめた。
「エミリアさん、先ほどのテラスでの対応はご立派でしたね」
見られていたのか──エミリアは、頬が微かに熱くなるのを感じた。
「あなたとは、機会があったら、またゆっくりお話ししたいわ」
王妃の声は温かく穏やかだった。思わぬ言葉にエミリアの胸が高鳴った。まわりの令嬢たちからも、「王妃殿下から直接お声をかけられるなんて」「素晴らしいですわ」と羨望の声があがった。
パーティーが終了し、エミリアは馬車に揺られていた。
色々あったな……疲れたけれど、悪くなかった。マチルダという新しい友人もできたし、王妃からもお言葉をいただけた。
窓の外を流れる王都の夜景を眺めながら、ふと思い出す。結局、書店のあの人──ジルはいなかった。意外に結構年上なのか。だとしたら、デビュタントのエスコート役として呼ばれていないのも当然だ。
少し寂しさを感じつつも、今夜は自分らしく過ごせたという達成感があった。
そして何より、あの謎の声と魔導灯の異常。『調査モード』って一体何なのだろう? あの時、確実に自分の感情と連動していた。……この力の正体を、もっと調べたい──星空を眺めながら、エミリアの好奇心は尽きることがなかった。
馬車は静かに夜道を進み、やがて見慣れた屋敷の灯りが見えてきた。




