第二百十九話 黒い岩の水筋
ペペは梯子の四段目を朝までに作り直したわけではない。そんな速さで鉄は打てない、と鍛冶場の親方に追い返された。代わりに持って来たのは、幅の狭い木の踏み板だ。腐った段へ体重を預けず、両脇の硬い岩へ木を渡して足を置く。
「昨日は飛ばしただろ。今日は飛ばさなくていい」
「よく寸法が合ったな」
尽が言うと、ペペは自分の靴を板に載せた。朝から三度削り直した跡がある。リゼッタは板の裏に小さく記された「上」を見つけ、「反対に付けないようにね」と言った。ペペはその字を指で隠した。
石工は木の板を仮の足場と認めたが、梯子そのものの修理とは呼ばなかった。今日も二人ずつ下り、上には引き上げる人を残す。北の空が明るいこと、東路と西口が普段の向きであることを確かめてから、ナディアが石切場の閉鎖線を開けた。
格子の右肩を押さえる木組みは動いていない。通路の三枚目を持ち上げ、銅の蓋を開く。リュオは杉の下の風井から白糸を下ろし、下の踊り場と同じ位置で止めた。昨日の目印だ。
石工が先に下り、踏み板を四段目の高さへ渡した。両端が岩のくぼみへ納まってから、尽とリゼッタが一人ずつ続く。ユーノとペペは上で縄を持つ。ナディアは格子の外側で伝声を受け、入口までの道を空けていた。
踊り場は昨日と変わらず乾いている。石工は手すりの三本の擦り跡を写し、正面の黒い岩へ灯を向けた。人工の縁石が終わる所から、床は少し下る。棒で打つと、一歩目は硬い。二歩目には細い水音が混じった。
「ここまで」
石工が止めたのは四歩目だった。岩の割れ目を水が一本、斜めに横切っている。指を浸せるほどの量はない。けれど割れ目の両側には、濡れて乾いた筋が何段も残っていた。一番高い筋は、尽の膝より上にある。
リゼッタは灯を受け取り、壁を照らした。高い筋のところに小さな横線が刻まれ、その横へ古い字が二つ並ぶ。〈退避〉。もっと下には日付らしい刻みが三つあり、最も新しいものでも長い年月が経っている。水がここまで来た時、番人は戻る線として使ったのだろう。深い方へ入る印ではない。
高い筋の内側には、黒い砂が薄く貼り付いていた。尽が灯を動かすと、濡れた時だけ光る粒が混じっている。石工は木のへらでほんの少し取り、紙へ包んだ。乾いた床にも同じ粒があるが、高い線まで水が押し上げたものか、後から風が運んだものかは判別できない。
「雷の日、この水も上がるのかな」
尽が聞く。石工は足元を見た。昨日の雷から一晩以上経ち、今の水は細いままだ。高い筋が雷の日にできた証拠はない。雨の季節か、もっと別の時期かもしれない。ただ、足場に水が掛かることはあった。そのために梯子と手すりが残された。
尽の指輪が温かくなり、彼は三歩戻った。踊り場では熱が薄い。もう一度、水筋に近づくと手の中ではっきり温まる。首紐は同じ位置に通している。リゼッタが受け取り、布の上へ置いても温かさは残った。彼女は岩の割れ目から離れた所へ布を移し、ユーノへ時刻を伝える。
「石が温かいわけじゃない」
リゼッタは濡れた岩へ指を触れ、すぐ離した。冷たい。指輪の熱が水に応じたか、ここを通る風に応じたかは、この場では分けられない。尽は布ごと指輪を受け取り、首に戻した。地球で雷に遭った記憶が浮かんだが、目の前には水と岩しかない。
石工は細い糸を割れ目の上へ垂らした。糸は踊り場から黒い岩の奥へなびく。水も斜面を下り、さらに奥へ消えた。石工が手すりの下でも糸を試すと、そちらは左の格子へ向いた。空気はここで二つに分かれている。奥で再び風井へ入る道があるのかは、今の位置から見えなかった。
黒い岩の曲がりから、ぽつりと水の音が返った。間を置いてもう一つ。尽は数を追うのをやめる。水音の位置が毎回少し違い、割れ目の先にはひとつの水たまりではなく、段差が続いているらしい。石工は灯をそこへ向けたまま、退避の横線を指で示した。
尽は奥へ灯を伸ばした。岩は五歩ほど先で曲がり、その先の形は見えない。先へ進みたくて靴をずらすと、リゼッタが持った布の端が首紐を軽く引いた。
「退避の線、見たでしょう」
「見た」
彼は灯を戻した。高い水筋が腰まで来れば、梯子へ走る余裕はない。石工は取って来た砂の小袋を水筋の横へ置き、今の高さを外から比べられるよう印を付けた。次に入る時、袋が流れていたらその日は進まない。
*
地上へ戻ると、ペペが尽の靴底を見た。黒い粉が細かく付いている。白い布で拭くと、水を含んだ粒だけが布へ残った。石切場の上の白い石屑とは違う。ユーノは袋へ少量を取り、場所と時刻を書いた。岩の名を当てるためではなく、次に同じ水筋を見た時に比べるためだ。
帰り道、学院の温室の前でミオとすれ違った。彼女は両手で空の水桶を提げている。朝から苗床の水路に黒い粒が詰まり、清掃に駆り出されたという。ペペが靴の布を見せると、ミオは顔を近づけた。
「似てる。でも温室のは、もっと細かいよ」
水路は森の北の湧き口から引いている。石切場の地底と同じ水が来ると決まったわけではない。ナディアは現物を混ぜずに残し、温室の取水口を翌朝見せてもらうことにした。水路を止めれば苗が困る。洗った粒を取るだけなら、授業の邪魔にはならない。
ミオは「昨日の朝はなかった」と言った。水をやる当番は毎朝網を外して洗う。雷のあとに詰まったとすれば時刻は合うが、雨に流された森の土でも同じことは起きる。彼女は自分の桶を覗き、「とにかく今は、苗を先に飲ませる」と言って走った。ペペがもう一つの桶を取り、二人で温室へ戻る。
尽は靴を洗い、濡れた布を干した。窓の外ではペペが水桶を抱えたまま温室へ入ろうとし、ミオに呼び止められている。靴の裏に黒い砂がまだ付いていた。ペペは桶を置き、片足で立って踵を拭いた。




