『どうせ、医者狙ってんでしょ』
出版記念です。楽しんでいただけますように(*´ω`)
『どうせ、医者狙ってんでしょ』
今日に限って、私は酔っ払ってしまったんですかね。
幻聴が聞こえます。
ちょっとした、被害妄想なんでしょうか。
目の前に座っている女は、ふぅとアルコールの匂うため息を吐き、頬肘をついたまま、店一番のオススメという、やたらと大きい唐揚げを突いている。
たいして美味しくないうえに、安くもない。にもかかわらず、いつもなぜか込み合っている駅前の居酒屋。その騒めきが少し遠のいた。
「医者、捕まえたら、遊んで暮らせるよね~」
その言葉は、私の耳に飛び込んできて、大きく響く。
お行儀の悪さも、濃いチークもスルーできても、その発言はスルーできません。
誠実でイケメンな医者なんて、幻ですからっ!
ついでに言うと、遊んで暮らせるくらいの収入のある医者なんて少数派ですからっ!
しかし、私は思いを言葉にすることなく、焼酎のお湯割りともに、喉の奥に流していく。
目の前の女は、兄の彼女なのだから、無駄な争いは無用。
兄が席を立ったタイミングであの発言を口にする女を選ぶ、兄のセンス……。
それは、個人の自由ですから、私がとやかく言うことではありません。
こぼれ落ちそうな言葉をお湯割りとともに飲み込んでいると、
いつものペースを大きくオーバーした。
それでも、私が酔うことはなかった。
日、早、準、準、休、日、深……
なんてことない勤務、ごくありふれた勤務だ。
しかし、私が勤務するのは市民病院の外科病棟。
年間に千件以上の手術件数がある。
準夜勤務の恐ろしさは、外科病棟勤務だけでなく、外科系の病棟の看護師であれば、わかってもらえるだろう。
朝一番の手術はたいてい、九時に始まる。そして、終わり次第次の手術が行われる。
その日の予定手術が日勤中にすべて終わることなどめったになく、そして、九時間以上かかる手術は勤務者が四名しかいない準夜帯の病棟に帰ってくる。
勤務者の少ない時間帯に、手術室と病棟を行き来しなければならい。
どんな手術でも手術の直後は急変の危険が高く、きめ細かい観察が必要となる。また、難易度の高い、患者さんの負担の多い手術の場合、特に注意が必要であるのだ。
もちろん、遅番勤務者が手術後の患者さんを担当するのだけれど、患者さんはひとりではない、遅番さんだけに任せることはなく、フォローは必要である。
準夜勤務の精神的、身体的負担は小さくはない。
「すみません、手術の迎えを一緒にいってもらってもいいですか?」
遅番さんの声に、検温に回っていた私は手を止める。時刻は一八時半。
他の勤務者に声をかけて、私の不在を伝えておく。そうでないと私の担当のナースコールに対応してもらえないからだ。
温められた空のベッドを押して、手術室に向かう。
手術室は三階の南病棟にあり、全部で13部屋ある。
曜日別に外科や整形外科、胸部外科、脳神経外科、呼吸器外科、眼科、耳鼻科と様々な手術が行われる。
二重の自動ドアのむこうにある窓口で声をかけ、目的の手術室に向かう。
患者さんは麻酔の覚醒状態も良く、呼吸は安定しているようだ。
手術室の看護師から申し送りをもらうのは、遅番の看護師の仕事である。
手術台からベッドに患者さんを移動し、素早く寝衣を着せていく。その間も状態の変化がないか十分注意する。そして、ガラガラとベッドを押して、足早に主治医や執刀医とともに患者さんと病棟へ戻る。搬送中にも患者さんの容態には十分に注意が必要なのだ。
主治医は緑の手術着を着ている。
テレビドラマなどで俳優さんが来ている半袖の丈の短い、Vネックのアレである。この頃は様々なカラーバリエーションがある。あくまでもテレビでの話だ。実際に見たことはない、万事クラシカルな当病院は、緑だ。今も昔も、深い緑だ。
この手術着は共用であり、上からデイズポータブルの清潔ガウンを着て、丁寧な手洗いの後、手袋をはめて、手術を行う。手術の後、医師はガウンと手袋を取り、たいてい、緑の手術着のまま、病棟内を歩いている。
スタイリッシュとは言えない緑の手術着、長期間、洗濯と感想を繰り返し、ナチュラルにダメージを受けている。このくたびれた手術着を着て、何時間も手術した(実際は助手)主治医、黒川はヘロヘロである。
なかなかやってこないエレベーターのモニターを眺めているようで、立ったまま寝ていることに、その場にいる誰もが気が付いていることに、本人は気が付いていない。
外科病棟に勤務する医師は、関連病院である都市の大学病院の医師である。
外科部長などのベテランの医師(ベテランというより偉い人)は病院勤務であるが、ほかの若い医師は大学病院の医局に属し、当病院に配属されるのだ。
医師になるには、大学の医学部を六年で卒業し、医師国家試験に合格。二年間の研修医を経て、希望の診療科に進む。
目の前の緑の手術着を着て、ヘロヘロの医師、黒川せんせーは、まだ外科医として一年生である。彼は27歳。余裕で年下である。手術中に着用した帽子とマスクの影響で髪は乱れ、しばらく鋏を入れていないことが丸わかり髪は一目で彼の疲労度が分かる仕様になっている。それに加え、一日の終わりというには濃すぎる顎髭。正直なところ、清潔感とは無縁の存在だ。
ちなみにⅤネックの襟元から胸毛が見えている(ありえない)
巷で言う、高学歴、高身長、高収入であるが、
それがどうした。
だからなんだ。
である。
私は看護師歴は十年を何年か超え、外科に勤務して早くも五年、わからないことも判断に困ることも少なくなった。
気か付けば、中堅と呼ばれるに相応しい立場だ。
エレベーターを待つ間、患者さんの様子に目を離すことなく、私はそっと主治医の黒川せんせーに声をかける。
「せんせー、術後の指示、諸々出しておいてくださいね」
「……」
「せんせー?」
「……は?なに?」
「術後の指示です。あと、輸液の速度はいくつにします?抗生剤の時間は?」
「あ、はい……」
「……」
「は、え、いや、」
そのやり取りを見かねた指導医の白田は失笑を漏らし、そしてヘロヘロの主治医に代わって的確な指示をだす。
黒川先生と呼べる日が待ち遠しい。
少々顔の造作の整っている、失笑とともに的確な指示を出した指導医、白田先生。三十路半ばの余裕をにじませている。やわらかな雰囲気があり、気さくで話し上手な先生である。
朝から一日、手術室にいたとは思えないサラサラな髪、永久脱毛したと噂のある、滑らかな頬。イケメンと言っても差し支えはないだろう。
少々、気になるのは、自分の顔面偏差値が高値であることを前面に出して、はばからないところと、もう一つ、誠実という言葉をどこかに忘れてきてしまっているところだ。
今も、すでに残業突入中の日勤看護師を捕まえて、話しかけている。
「今度、ご飯でも食べに行こうよ」
「ええ?先生って彼女さん、いるんでしょう?」
「大丈夫、ご飯たべるくらい。俺、気にしないよ」
いやいや、気にしてください。
そして、気にしてるのは彼女さんなのでは?
彼の毒牙にかかった看護師は数え切れない。
若く可愛らしい看護師の貞操の危機を感じつつ、私は速やかに業務に戻る。
担当の患者さんをひとりひとり回り、熱を測り、ドレーンの状態、腹部の張り、尿量、点滴のルートの確認、必要な観察をしていく。
そのとき痛みや吐き気などがあれば、医師の指示を指示書にて確認し、指示に沿って、投薬する。
指示書に記入がなければ、直接、主治医に確認する。
そう、それが何時であろうとも。
順調に業務をこなし、消灯を迎え静かな病棟。
もくもくと、パソコンに向かい、記録をしていく。
不穏な患者さんも、状態の落ち着かない患者さんもいない。
――定時に帰れるかもしれない。
そんな思いがよぎったとき、
「今日は落ち着いてますね、時間通りに終わりそうですね。わたし、明日は朝から用事があるから助かります」
一緒に準夜勤務しているスタッフのつぶやきが聞こえた。
これは、看護師の間ではよく知られたことである。
そんなことを言ったら、急変か緊急があるのだ。
私はこっそりと、このジンクスが外れることを祈った。
その祈りは、案の定、届かない。
「す、すいませんっ!」
申し送り前に確認しておきたいことがあるから、そう言って手術後の患者さんを見に行った遅番看護師が走って詰め所に戻ってきた。
――あぁ、何かあったな
遅番の看護師とともに、半分照明の落ちた薄暗い廊下を走り、部屋に入る。
術後の患者さんの傷口から伸びるドレーンが真っ赤に染まっている。
みるみる、ドレーンバッグに鮮血が溜まっていく。
術後に出血することはあるが、これは明らかに異常である。
「誰か詰め所に先生いた?いなかったら当直医呼んで、主治医にも連絡して。大丈夫ですか、わかりますか?」
患者さんは不安げに眉を寄せてはいるが、しっかりと答えてくれる。意識には問題はないようだ。
素早く、救急カートがベッドサイドに用意され、詰め所にたまたま居合わせた西口先生も駆け付けた。
スタイルがいいとは言えない体格は安心感があり、その穏やかな表情と温厚な性格、イケメンとはいいがたい彼ではあるが、看護師の人気は高い。
西口先生は少々混乱気味の遅番看護師の手際の悪さにもいらだつことなく、指示を出していく。
声も表情も、いつもと変わらない。
一日中、手術に外来、病棟と働き、帰ろうとしたところを、タイミング悪く(私たち看護師にとってはタイミング良く)つかまってしまったはずなのに、それを微塵もみせることはない。
汚れのない眼鏡、清潔な白衣、的確な指示、西口先生によって、速やかな処置が施されていく。
患者さんは、主治医と当直医、たまたま居合わせた西口先生と止血目的で再手術となった。
「すみません。痛いって言ってみえるんですけど、疼痛時の指示が出てないんです」
可愛らしい目元を細めているのは、二年生看護師、安藤ちゃん。
時刻はすでに0時を過ぎようとしている。当直医は手術中であり、ほかに医師は誰も見あたらない。もちろんすでに帰宅している。
しかし、痛みを訴える患者さんに明日の朝まで待ってとは、言えない。
「んじゃ、主治医に電話しよっか」
「……赤井先生なんですけど」
「……」
赤井先生は、赤井大先生である。
市民病院外科部長、トンスーラを思わせるヘアスタイル。
気品にあふれたたたずまい、しわのない真っ白な白衣をなびかせ、ピカピカの革靴で音もなく歩く彼を知らない外科病棟勤務看護師はいない。
話しかけにくさは病棟ナンバーワン、ほかの先生の追随を許さない。
「……」
「……痛いって言ってみえるし、連絡してみます」
安藤ちゃんはきりりと口元を引き締め、手をぐっと握った。
病棟用携帯電話を耳に当て、安藤ちゃんはごくりと唾を飲み込んだ。
長い、長いコール、もう寝てしまったかと思ったとき、電話はつながった。
冷ややかな地を這うような声が漏れ聞こえる。
安藤ちゃんの困惑と恐れを押し込んで、痛みをこらえる患者さんを思う気持ちが彼女の力になる。
「はい、とても痛みが強いようで……、すみません、何度も確認したんですけど、指示簿に疼痛時の指示はないんです。はい、すみません、……、すみません……、緊急手術があって、……すみません。でも、患者さんは痛みが……、すみません。はい、……、はい。はい、わかりました」
通話終了のボタンを押して、はぁと大きく安藤ちゃんは息を吐き、椅子に座り込む。
「お疲れ」
「はい、ロピオン1Aと生食100で、指示もらいました」
「そ、よかったね」
「準備してきます」
安藤ちゃんはニコリと頬をゆるめ、点滴準備のため走っていく。
いつの間にかやってきていた深夜勤務者に申し送りを済ませた時には、やはり定時はすっかり過ぎていた。
動けなくなった体を休憩室のきしむ折り畳み椅子に預けている。
「西口先生がいてくれて、ほんとによかったですよね」
「うん、ほんとだね」
「西口先生ってすごいですよね。指示は的確で、仕事も早いし、点滴の処方が抜けてたことなんてありませんもん」
「たしかに、内服の切れもないね。指示は抜かりないし」
「しかも、優しいですもん、わからないことも聞くと丁寧に教えてくれますよ」
「……へぇ」
安藤ちゃんはこっそりと頬を染めている。
私はそんな安藤ちゃんに一抹の不安を感じずにはいられない。そして、言葉をかけてしまう程度に安藤ちゃんのことを気に入っている。
「安藤ちゃん、西口先生、ダメだからね」
「え?違いますって、彼女さんいるの知ってますって。そんなんじゃありませんから」
一瞬、安藤ちゃんはポカンとしたけれど、私の言ったことに思い当たったようだ。
両手を顔の前で振って、そんなつもりほんとにありませんと、言っている。
「いやいや、ほんとに気をつけなさいね。ほんとに、若い子の、いちばんいい時を妻子ある先生が持ってちゃうの、よくあるからね」
三十半ばの私自身の言葉だ。
同期の誰かが聞いていたら、きっと固まったに違いない。
「そうなんですか?」
何も知らない安藤ちゃんは、やっぱりぽやんとしている。
少し疲労をにじませても、艶を失わない若いその横顔が、とても愛らしい。
可愛らしさも、若さも、私にはないもので、私は目をそらし、言葉を重ねる。
「そうなんだよね。まぁ、気を付けてね。安藤ちゃん、ほんとについうっかり、罠にはまってしまいそうだもん。まあね、いいなって思う男には、すでに奥さんか、彼女がいるんだよね」
だいたい、そんなものである。
安藤ちゃんの無邪気な微笑と、わが身の苦い思い出が、勤務の疲れを倍増させる。
私は大きく息を吐いて、少し瞳を閉じた。
医者は絶対に狙いません。
もう、懲り懲りですから。
楽しんでいただけましたでしょうか。
ちょろっと出てきた西口先生の恋のお話は「離婚の理由」でどうぞ。