第1話 月国の第二王女は、太陽国へ嫁ぐ
第二王女として育てられたセレネは、わかっていた。
これは契約だ。
政略結婚だ。
甘くてふわふわした恋愛を望んでいたわけではない。
初対面の夫に一目で愛されるなどと、夢見ていたわけでもない。
ただ、これが神話婚の現実なのだと理解しただけだった。
創世神話では、太陽神リザーブは月神ティアを愛し、その光を昼と夜に分け与えたという。
太陽神は黄金の瞳で世界を照らし、月神は青銀の髪を夜に垂らして眠る人々の夢を守った。
二柱の神はひとつの天を分け合い、決して同じ空を奪い合わなかった。
昼には太陽が地上を導き、夜には月が海と旅人を導く。
どちらか一方だけでは、世界は満ちない。
だから、二柱の神から生まれた双つ月は、夫婦仲をあらわすように片時も離れることなく、星空に浮かぶのだと伝えられている。
太陽国ソンツェリアと、月国ミーシャリア。
大陸に十二ある王国の中で、どちらも決して大国ではない。
豊かな穀倉も、強大な軍事力も、古い魔術の威もない。
それでも二国が長く王国として保たれてきたのは、自国にも他国にも、神話の加護を受けた国であると示し続けてきたからだった。
太陽国では、金髪か金眼の男子に、太陽神の面影が宿るとされる。
月国では、青銀の髪、あるいは銀の髪と青い瞳を持つ女子に、月神の面影が宿るとされる。
象徴色が濃いほど神に近く、神に近い者ほど王位に近い。
それが二国の王権を支える、古く、都合のよい理屈だった。
セレネ・ミーシャリアは、その理屈の中で育った。
月国の第二王女。
銀に近い淡い髪の先だけが、夜明け前の空のように青みを帯びている。
瞳もまた、薄青い月光をすくったようだと褒められてきた。
ただし、月神ティアの面影がもっとも強いのは、姉だった。
姉は完全な青銀髪に、冴えた青の瞳を持って生まれた。
幼い頃から、いずれ月国の女王となる方だと誰もが疑わなかった。
だから、セレネの役目は最初から別にあった。
月国を守るために、太陽国へ嫁ぐこと。
太陽神と月神の和合を、二つの王国の婚姻によって再び示すこと。
その役目を、不幸だと思ったことはない。
王女として生まれた以上、自分の結婚が自分だけのものではないことくらい、物心ついた頃から理解していた。
国と国。
家と家。
神話と王権。
その間に置かれるのが王女の婚姻であり、そこで泣き崩れるほど、セレネは幼く育てられてはいなかった。
ただ、それでも。
花嫁衣装に袖を通した朝、胸の奥に沈むものが何もなかったと言えば、嘘になる。
窓の外には、太陽国の王都が広がっていた。
白い石壁、赤い屋根、黄金の円盤を掲げた塔。
朝日はその円盤に反射し、街そのものが太陽神の目のように光っている。
月国の光は、もっと淡い。
湖に落ちる月影のように、夜道を照らす灯のように、静かで優しい。
「王女殿下」
背後から、侍女の声がした。
太陽国王家から遣わされた侍女だった。
所作に不備はない。
むしろ丁寧すぎるほど丁寧で、だからこそ距離がある。
セレネは振り返った。
「いいえ」
自分で言ってから、ほんの少しだけ間を置く。
「今日からは、王太子妃ですね」
侍女は一瞬だけ目を伏せ、深く礼を取った。
「失礼いたしました。王太子妃殿下」
その呼び名は、まだ耳に馴染まなかった。
太陽国の王太子妃。
セレネという名も。
セレネとアレクシスは、婚姻にあたり名を改めた。
出生時の名は、今も胸の奥にある。
けれど、より神話にふさわしい名が必要だと、両国の神官たちは言った。
与えられた「セレネ」という名は、月を意味する名。
月神ティアの面影を背負う者として、ふさわしい名。
ふさわしい、という言葉は便利だ。
人の人生を変える時にも、まるで祝福のような顔をして使うことができる。
鏡の中の自分を、セレネは見つめた。
白に近い銀の婚礼衣装。
胸元には月国の真珠。
腰には太陽国の黄金飾り。
髪には月をかたどった銀細工と、太陽をあらわす金の小冠。
まるで、一人の身体に二つの国を縫い合わせたようだった。
「お苦しくはありませんか」
侍女に問われ、セレネは微笑んだ。
「大丈夫です」
実際、衣装は少し重かった。
だが、この程度で苦しいと言うわけにはいかない。
今日、自分の背に乗っているものは、衣装の重さだけではないのだから。
扉の外から、低い鐘の音が響いた。
婚礼の儀が始まる合図だった。
※
ソンツェリア大聖堂は、太陽神のために造られた場所だった。
高い天井には金の紋様が描かれ、白大理石の床には大窓から差す光が黄金の道を作っている。
祭壇の上では、太陽神の円環と月神の弓月を組み合わせた紋章が輝いていた。
二国の和合。
神話の再演。
民と諸侯に示すべき、揺るぎない正統性。
大聖堂には、すでに多くの視線が満ちていた。
太陽国の王族、大神官、諸侯、騎士、外国使節。
月国からの使節団も控えている。
そこに、姉の姿はない。
次代の女王である姉は、国を空けることを許されなかった。
だが、父王の名代として来た叔父が、こちらを見て小さく頷いた。
月国の姫として、恥じるな。
太陽国の妃として、乱れるな。
そう言われた気がした。
やがて、大聖堂の奥から太陽国の王太子が現れた。
アレクシス・ソンツェリア。
今日から、セレネの夫となる人。
彼を見た瞬間、セレネは最初にその瞳を見た。
金の瞳だった。
太陽神の面影、と人々が言うのもわかる。
陽光を受けたその目は、単なる黄色ではなく、内側に火を閉じ込めた金属のように静かに光っていた。
髪は明るい金ではなく、やや淡い栗色に近い。
もし金眼がなければ、彼は王太子として選ばれていなかったのかもしれない。
そんな考えが、ほんの一瞬だけセレネの脳裏をよぎった。
はじめて見るアレクシスは美しい人だった。
けれど華やかではない。
喜びに満ちた花婿というより、儀礼の中心に正しく置かれた剣のようだった。
まっすぐで、冷たく、余計な動きがない。
その顔を見て、セレネは思い出した。
幼い頃、月国の宮廷で対面した太陽国の王太子。
あの時、大人たちはこう言った。
――この方が将来お前の夫となり、太陽国の王になられる方です。
その王子は、アレクシスではなかった。
アレクシスの兄。
王太子、テオドロス。
今日この祭壇の前で、セレネの隣に立つはずだった人。
顔を、はっきりとは覚えていない。
覚えているのは、褪せた金髪に金色の瞳。
差し出された手袋越しの手。
大人たちの安堵した顔。
その未来は、もう失われた。
テオドロスは病で亡くなり、弟であるアレクシスが王太子となった。
セレネの嫁ぐ相手もまた、変わった。
王位継承者が変われば、婚姻相手も変わる。
月国が結ぶのは、ひとりの王子個人との縁ではなく、太陽国の王権との縁なのだから。
理解している。
納得もしている。
ただ、若くして亡くなった王子のことを思うと、胸の奥に静かな痛みが落ちる。
彼を失った太陽国王家のことも。
兄の場所に立つことになったアレクシスのことも。
アレクシスが祭壇の前に立った。
セレネもまた、定められた位置へ進む。
二人の間に、大神官が立った。
「太陽神リザーブは、月神ティアを愛し、その光を昼と夜に分け与えた」
大神官の声が、大聖堂に響いた。
「二柱の神は互いを奪わず、互いを欠かさず、ひとつの天を分かち合った」
セレネは、静かに息を吸った。
その祝詞は、月国で聞いてきたものと少し違う。
月国では、月神ティアは太陽神の光を受けるだけの存在ではない。
夜を統べ、潮を動かし、夢を守る女神として語られる。
だが、ここは太陽国だ。
太陽国の大聖堂で、太陽国の大神官が読む神話なのだから、太陽神の光が強くなるのは当然だった。
当然だ。
そう思っても、何も感じないわけではない。
アレクシスが、セレネへ視線を向けた。
短い一瞥だった。
感情は読めない。
けれど、セレネが祝詞の違いに気づいたことを、彼も気づいたのかもしれなかった。
「ソンツェリア王太子、アレクシス」
大神官が呼ぶ。
「太陽神リザーブの面影を宿す者として、汝は月神の姫を迎え、昼と夜の和合を守ることを誓うか」
「誓います」
アレクシスの声は低く、よく通った。
迷いはなかった。
「ミーシャリア第二王女、セレネ」
次に、セレネの名が呼ばれる。
「月神ティアの面影を宿す者として、汝は太陽神の王子の隣に立ち、二国の和を守ることを誓うか」
「誓います」
セレネもまた、はっきりと答えた。
この声が震えないように、何度も練習してきた。
月国の王女として。
太陽国の王太子妃となる者として。
弱い花嫁の姿を残すわけにはいかなかった。
大神官が、二人の手を取らせる。
アレクシスの手は、手袋越しでも温度がわかった。
温かい。
意外なほど、しっかりしている。
だが、その指先に力は入らなかった。
必要な形だけを満たす、儀礼の手だった。
セレネも、それに合わせた。
強く握り返すことはしない。
離れることもしない。
ただ、神話の夫婦として、誰から見ても正しい距離で手を重ねる。
大聖堂に歓声が満ちた。
金の花弁と、銀の紙片が高い天井から降ってくる。
太陽と月。
昼と夜。
ソンツェリアとミーシャリア。
人々は祝福した。
この婚姻が、二国の和を永く保つのだと。
神話の通り、二人は互いを欠かさぬ夫婦となるのだと。
セレネは微笑んだ。
王女として教え込まれた、欠点のない笑みだった。
隣で、アレクシスもまた、完璧な王太子として微笑んでいる。
その横顔を見て、セレネは思った。
この人は、私の夫になる。
けれど、この人自身は、いま何を思っているのだろう。
兄の代わりに王太子となったこと。
兄の代わりに神話婚の夫となったこと。
兄の隣に立つはずだった女を、自分の妃として迎えたこと。
彼は、それらをどう受け止めているのだろう。
だが、それを今問うことはできない。
今ここにいるのは、セレネとアレクシスという二人の人間ではない。
月神の姫と、太陽神の王子。
神話婚の花嫁と花婿。
求められているのは、心ではなく形だった。
※
婚礼の儀が終わっても、祝福は続いた。
大聖堂を出ると、王都の広場には人々が詰めかけていた。
花冠を持った子どもたちが歓声を上げ、屋根の上からは金と銀の紙吹雪が舞った。
民の顔に、敵意はない。
むしろ皆、心から祝っているように見える。
それでもセレネは、自分が見られていることを理解していた。
月国から来た姫。
和平の花嫁。
太陽国の王太子妃。
神話を再演するための、銀青の飾り。
そのどれもが間違いではない。
だからこそ、息苦しい。
アレクシスは隣で、民へ手を振っていた。
その動作は自然で、隙がない。
セレネが半歩遅れそうになると、彼はわずかに歩幅を緩めた。
セレネは一瞬、彼を見る。
アレクシスはこちらを見ていなかった。
民に向けた微笑を保ったまま、ただ歩幅だけを合わせている。
優しさ、と呼ぶにはあまりにも無言だった。
だが、無関心ならばできないことでもあった。
「お疲れではありませんか」
馬車に乗り込む直前、アレクシスが低く問うた。
今日、彼がセレネ個人へ向けて発した、初めての言葉だった。
「大丈夫です」
セレネは微笑んで答えた。
「この程度で疲れていては、王太子妃は務まりません」
アレクシスの金の瞳が、わずかに動いた。
驚いたのか、確認したのかはわからない。
「そうですか」
それだけだった。
馬車の扉が閉じられる。
外の歓声が、厚い壁越しに遠くなる。
向かい合って座ったアレクシスは、もう微笑んでいなかった。
先ほどまで民に向けていた王太子の顔は消え、静かな横顔だけがある。
セレネもまた、微笑を少しだけ緩めた。
公の場では、二人は理想の夫婦だった。
太陽と月。
昼と夜。
神話の通りに結ばれた、祝福された王太子夫妻。
だが、この馬車の中には、もう民の視線も、諸侯の拍手も、神官の祝詞もない。
沈黙が落ちた。
アレクシスは、しばらく窓の外を見ていた。
それから、思い出したように口を開く。
「この後、王宮で祝宴があります。終了後、貴女の私室へ案内させます」
「承知いたしました」
「今夜、少しお話しすべきことがあります」
セレネは、指先を膝の上でそろえた。
「婚姻に関することでしょうか」
「ええ」
アレクシスは短く答えた。
その声に、甘さはなかった。
花婿が花嫁へ向けるものではなく、王太子が条約文を確認する時のような声だった。
セレネは、静かに目を伏せる。
わかっていた。
この婚姻が、恋のためではないことくらい。
自分が政略の中でここに来たことくらい。
夫となる人が、国のために自分を迎えたことくらい。
それでも、婚礼の日に交わす最初の私的な会話が、まるで契約の確認であることに、何も感じないわけではなかった。
だが、顔は上げる。
太陽国の王太子妃として。
「わかりました」
セレネは、欠点のない笑みを作った。
「お待ちしております、殿下」
アレクシスは一度だけ、彼女を見た。
その金の瞳に、ほんの僅か、言葉にならない何かが揺れた気がした。
けれど、彼は何も言わなかった。
馬車は、太陽の紋章を掲げた王宮へ向かって進んでいく。
外ではまだ、祝福の鐘が鳴っていた。
神話では、太陽神と月神は互いを愛したという。
けれど、神話と現実は違う。
その違いを、セレネが本当の意味で思い知るのは、もう少し後のことだった。
読んでくださってありがとうございます。
短編版『月国の第二王女ですが、太陽国の王太子とは理想の夫婦を演じるだけの契約結婚のはずでした』
https://ncode.syosetu.com/n5651lx/
の長編化作品です!
12万文字で完結しますので、
短編版の駆け足に比べじっくりと描写ができます。
ぜひ、セレネとアレクシスの恋の行方を応援してあげてください。
さて、長々と書いてしまいましたが、
もしお気に召されたら、
ブックマークや★評価、誤字脱字報告頂けると大変励みになります!
ここまで読んでくださったあなたに、心より御礼申し上げます。




