其の三
「……はあ?」
先程、古びた藁葺き屋根の下でも聞いたような間抜けな調子。
しかし、その声には艶があり、決して野太い男の声ではない。
八末は、金華の家に居た。簡素な造りの家であるが、荘一郎の家よりは随分と広く綺麗である。
だが、部屋のあちらこちら所構わず、蜘蛛の巣が張っていた。と言っても、蜘蛛が蔓延っているわけではなく、家主が女郎蜘蛛なのである。
金華は花魁を思わせるように髪を結い、黒地に金の刺繍が施された着物を着ていた。
少し垂れ下がったような黒い瞳には、人を誘い込む色気が宿っている。その目は現在、皿のように丸くなっているが。
「人間に、恋したってぇ?」
「そうじゃ。金華ならわしの話を聞いてくれると思ってな。普段男を食い物にしておるおぬしなら、この気持ち、わかるじゃろう」
「食い物にしてる、は余計だよ」
ビシ、と八末の額を煙管で叩く。八末は「ふぎ」と声を漏らした。
「アンタが何を期待してんのか知らないけどねぇ。アタシゃ別に、人間の男に惚れてるわけじゃあないよ。アタシのしてることと、アンタのしていることとじゃ、話が違うのさ」
「ふぎ、ふぎ、ふぎい。ややや、やめい、金華ぁ」
「ふん、この勘違い猫。人間と妖怪の恋が実るわけなんて、ありゃしないんだよ」
言い捨てると、金華は煙管を口にくわえる。
男の意見と女の意見とでは、やはり八末も態度が違った。特に女郎蜘蛛である金華は、人間の男性との交流が深いと聞いていただけに、八末は戸惑っていた。
おでこを赤く腫らし、おろおろとしている八末の顔に、金華が煙を吐き出す。
「ねーぇ、八末。そりゃ確かに、右目の無い猫と左目の無い男の恋だなんて、風情のある話さ。けど、アンタは猫じゃなくて化け猫なんてよ。その男なんて、あっと言う間によぼよぼのしわくちゃ爺さんになっちまうんだ。アンタは変わらず若い娘の姿のままで……。わかるよねえ」
「…………」
「何で昔話の妖怪たちが、恋した人間の前から姿を消すか、わかるかい」
眉の下がった顔を面白そうに眺めながら、紅を塗った真っ赤な唇がにやりと歪んだ。
「中には、女を孕ます、子を宿す以外の目的を持たない奴も居る」
「……やすけは……」
「やすけはいいのさ、今はお聞きよ。でも、本気で恋をした奴だって居るんだよ。そいつらがどうして姿を消すのかっていったら、そんなの決まっているじゃあないか」
ごくりと八末の喉が鳴った。身体がこわばる。
金華が言おうとしているのは、きっと荘一郎が言おうとしていたことと同じであろう。それが、改めて言葉になるのが、怖い。
「……幸せになれないんだよ。お互いさ」
血の気が引いたのがわかった。足から力が抜けて、うつつがどこか遠くに感じられた。
聞きたくない言葉を、体が必死に拒絶している。
「妖怪の中に、人間は居られない。居れば妖怪になっちまう。それを人間が望むかといえばそうじゃない。人間の中に妖怪は居られない。居れば、殺されちまうからね。そんな話、数え切れないくらい転がっている。お互いが好き合っていても、お天道様がそれを許しちゃあくれないのさ」
――妖怪がお天道様だなんて、笑っちまうね。
金華はそう言って笑ったが、八末は笑うことができなかった。
八末とて、バカではない。金華の言っていることが、最初からわかっていなかったわけではないのだ。頭の片隅で理解はしていても、それを受け入れることはどうしてもできなかった。
人間と妖怪というだけで、どうして好き合うことが許されないのか。
別に、矢助が八末のことを好きというわけではないのだが、だからといって八末が好きになってはならない道理は無い。
それでもし、矢助が振り向いてくれたなら……恋仲になれたのなら。
なれたとしても、この世はそれを無情に引き裂くのだ。
「ま、好きになるんなら人間はやめて……って言っても、無理だよねえ」
「そ、そうじゃ。無理じゃ。わしはやすけを愛してしまった」
一歩引き下がった金華へ、今が好機と言わんばかりに八末が身を乗り出した。
その体はどう見ても、恋に恋する若い女の体だ。長くは生きていても、所詮はまだ若人なのである。
「……わかったわかった。アタシも協力しようじゃないか。妖怪と人間の恋は成就しないといっても、はなからそれを決めつけちまうのはいけないことさ。直接手助けはできやしないけど、アンタの話くらいは聞いてやるよ。どうせ、風神と雷神はつまらないことしか言わないんだしさ」
ああ、これはいけないことだ。
けれども、金華はその言葉を止めることはできない。金華はこの妖怪の里では、一番に面倒見の良い女なのだ。
「本当か、金華。わしは……わしは頑張るぞ!」
言うが早いか、八末は飛び上がって金華の家を出て行った。どこへ行くのかは知れないが、化け猫は酒飲み妖怪たちの中へと消えていく。
何だかんだ、アタシも子供だねえ。
走り去った猫を見送りながら、金華は自身に呆れていた。