其の二
真夜中の妖怪の里は、昼間よりも賑やかである。そもそも、妖怪というのは逢魔ヶ刻より活発となり、夜になればそれこそ最盛を迎える。
この江戸の時代では、夜に人はほとんど出歩かない。
それは妖怪がおとぎ話の世界になった時代であっても、夜が妖怪のものであることを約束しているのであった。
とはいえ、この里の者は滅多に外へ出ない。
すっかり平和に惚けてしまった者達が、あちらこちらで好き勝手自前の酒を飲んでいる。
そんな賑わいに満ちた、小さな藁葺き屋根が立ち並ぶ里に、一際古い家があった。他の家とは違い、古参の者が建てたものらしい。
古びているが、あばら屋というわけではなく、それがその家にまだ住人が居ることを知らせていた。
その、家の中。
「……はあ?」
淡い光の行燈に照らされ、素っ頓狂な声を上げる男が居た。立派な筋肉を持ち、愛想の無い顔をした――風神、荘一郎である。
彼はいつでも堂々としており、何事にも動じない。風神と言えども、心と肉体は岩の如くと恐れられる。そんな男は今、裏返った声を出して口をあんぐりと開けていた。
「へへへ……。まあ、よりにもよっての人間なんじゃがのう! しかし、やすけはこれまた見目が良いのじゃよ。おぬしと違ってあの無駄のない筋肉。どこか憂いを帯びた瞳。それにそれに、わしとは名前が一文字違いなのじゃ! これは運命以外の何ものでも無かろう? ああ、やすけ! わしはおぬしとの強い縁を感じたぞ! それでなあ、程なくして……」
荘一郎の前には、熱弁をふるう化け猫が居た。
祭りから帰っても興奮収まらず、耳が猫のものに戻ってしまっているし尻尾が生えていた。
中途半端な姿にも気づかずに、八末は荘一郎に対して、やすけとやらがいかに素晴らしいかを語り続けていた。
その熱弁たるや、先程の荘一郎の声など全く耳に届いていないようである。
「ま、ま、待て。おめぇ、今」
「うん? やすけが花火の途中で、わしを盗み見たことか」
「いや、そうじゃなくて」
「じゃあ何じゃ。今、良いところを語っておるのだぞ」
そう言ってはいるが、きっとどこで口を挟んでも、全部が良いところなのだろう。
「おめぇ、今……『人間を好きになった』と言った……よなあ」
おそるおそる荘一郎は尋ねる。
その顔からは、威厳も何もかもが消え失せ唇は震え、さながら幽霊のようであった。
すると、八末はムッとした顔で荘一郎を睨んだ。
「違う! 荘一郎は全然話を聞いておらぬな? わしは『一人の人間を愛することになった』と言ったのじゃ」
余計たちが悪い――。荘一郎は頭が痛くなった。
好きと愛をちょっと間違えた程度で、毛を逆立ててまで怒るだろうか?
ぐるりと首を回し、荘一郎は朝納を見る。
そもそも、朝納が八末を祭りへ連れて行ったのが良くなかったのだ。
以前から無責任な男だと思っていたが、今回ばかりはそれが過ぎている。
いつもは荘一郎に怒られてもどこ吹く風の朝納であったが、今回ばかりは部屋の隅で申し訳無いといった顔をしていた。
「あーさーなー」
「ほんまに、ほんまに申し訳無ぇと思っとる。まさかこねーなことになるたぁ……」
長楊枝も心なしかしょんぼりとしている。
こんな朝納を見るのは初めてで、荘一郎は事の重大さを改めて知った。それだけに、余計に八末に腹が立つ。
「愛するだなんて言うても、おめぇ、人間と妖怪の恋が実るわけねぇじゃろうが!」
太い声で一喝。その声といったら、外の妖怪たちまでたまげたくらいであった。
しかし、目の前の化け猫は動じず、むしろ落ち着いている。
その態度に、とうとう荘一郎の堪忍袋の緒がブツリと切れてしまった。
「おめぇがその身に喰ろうた仕打ち、忘れたか!」
「荘一郎……!」
つい、荘一郎は言ってしまった。普段、言ってはいけないと思っているのに、頭に血が上って理性が吹き飛んだ。
朝納が止めに入っても、化け猫はじっとそれを見ているだけであった。
「やすけは違う。この目は、やすけがしたものではない」
冷静に、八末は言う。正論であるが、しかしそれ故に、火に油を注ぐようなものだと朝納ははらはらした。
けれども、荘一郎も八末も、朝納の心境など知る由もない。
「やかましい! 人間なんぞどいつもこいつも皆同じじゃ」
「やすけは違う」
「違う? どこに証拠がある。おめぇが妖怪じゃと知りゃあ〝やすけ〟とやらも……」
「やすけは、違う!」
しん、と辺りが静まり返る。
八末は肩で息をしながら、今にも泣き出しそうな顔で荘一郎を睨んでいる。
流石に荘一郎も、少しは頭が冷めたのか。言葉を詰まらせた。
「……ほんなら好きにせぇ。俺はもう知らん」
しっしっと化け猫を手で追い出す。
その手に噛みつくことなく、猫はゆっくりとその場を去った。
「……荘一郎」
「くそが」
妖怪が人間と恋をして、どちらも幸せになる結末など、荘一郎は生まれて一度として聞いたことが無かった。
どんなおとぎ話の中でも、結局妖怪か人間のどちらかが不幸になった。
辛い思いを、里の仲間である八末にさせたくないのは、皆同じである。
もちろん、八末のわがままをきいてやりたい気持ちもあるのだ。
だがそれは、例え相手を恋に惑わせる摩訶不思議な力を持った妖怪であっても、叶えさせてはやれないのである。
揺れる行燈の火を眺めながら、風神と雷神は黙りこんでいた。




