第一話
男は、山の中で暮らしていた。
ある寒い雪の日、男は町へ出かけた帰りに、罠にかかっている一羽の鶴を見つける。
こんなでかい獲物がかかるのは珍しい。
鶴は高級食材だから、このトラバサミを仕掛けたやつはさぞ喜ぶだろう。
「けど、こんな人も通るような道に物騒なもん仕掛けるってのはいただけねえなあ」
動けば動くほど鶴を痛めつけるトラバサミに手をかけてグ、と男は力をかける。
「動くなよ、今取ってやる」
金属音と共にトラバサミの口が開き、鶴が解き放たれる。
鶴はばさりとその場で数回羽ばたいて、男の方に首を向けた。
黒い瞳が男を映し、そのまま見つめあうような数秒間。
鶴はそのまま飛び去った。
男はその後姿をしばらく眺めてから、トラバサミをポイと自分の背負っていた籠に入れ、再び帰路に着いた。
その日からしばらくした吹雪の夜。
とんとんと戸口を叩く音に、男は囲炉裏の近くから立ち上がる。
「誰だい」
「夜分おそくにすみません。芸者を生業としており、町に行くところなのですが、吹雪が酷く、迷ってしまいました」
そりゃ大変、と呟きながら、男は冷気の漏れる戸を開く。
扉の先には、藁傘にすっかり雪を乗せた、美しい青年が立っていた。
半纏から覗く肌は白く、傘の下の髪と目の黒が深く、首巻から覗く口の赤が鮮やかだ。
「ご迷惑だとは思うのですが、せめて吹雪の間の屋根だけでも貸して頂けますか。倉庫でも構いません」
白い息を漏らしながら言う青年に、男は珍しさからおお、と声を漏らした。
「いや、構わない。早く中へおいで」
「ありがとうございます」
青年はほっとした様子でしずしずと家へ上がる。
丁寧に雪を払い、濡れた靴を脱ぎ、持っていた布で足を拭く様子はとても上品で、確かに芸事をしているのだろうと感じさせる動きだった。
「運が悪かったな、お前さん。この辺りは、先にある連山のせいでよく吹雪く」
男は先に上がり、押し入れをゴソゴソと漁る。
「毎年余所者が何人も呑まれて逝く。いや…半ばで行き倒れなかったんだから、寧ろ付いているかな。ほら」
来客者が少ないために埃をまとっている座布団を軽くはたいてから敷いてやる。
青年は顔をほころばせ、「失礼します」と座布団に座った。
「よく火に当たって体を温めていくと良い。どうせ雪も止まないから。芸事をするなら、手足の先は大事だろ?」
「はい、かなり着込んだつもりでしたが、やはり冷えますね。…そうだ、名前も申し上げずに」
青年は居住まいを正し、丁寧に手をつく。
「晶平といいます。少しの間、お世話になります」
男はあぐらをかいたまま背を伸ばして青年を見返す。
「良い名前だな、ご丁寧にどうも」
青年は顔を上げてから瞬きをして、少し頬をあからめ「ありがとうございます」と呟く。
その初々しい様子に、男は笑う。
「そう照れるなよ」
「すみません、慣れなくて」
ふう、と息を吐き、晶平は「お名前を窺っても?」と男に問いかける。
男は「ああ」と思い出したように名乗る。
「オレは京国」
「あつくに様」
「様なんざつけなくていいよ。しがない樵夫だ」
こう書く、と京国は火箸でさくさくと灰に字を残す。
晶平は趣のあるお名前ですねと微笑んだ。
「あらためて、よろしくお願いいたします。京国さん」
「こっちこそ、よろしく。あー、アキ」
瞬きをして無声音で「アキ…」と呟く晶平に、京国はにこりと笑った。
「音が良ければ歯切れも良いしここに残りやすいだろう」
京国は自身の米神をとんとんと指先で示す。
「渾名は苦手か?」
「いえ、そんなふうにあなたの中に僕の名前を残していただけるなら、その名も喜びます」
「そう?」
「はい」
京国は晶平の返答に満足そうに頷いて、晶平の荷物を指さした。
「良けりゃ一曲聞かしてくれねえか。下った先の町にゃあ芸人も来るが、ここはご覧の通り、人より獣の方が多いくらいだからな。楽器もそう見ない。あまり駄賃はやれねえが…」
「勿論です、お礼になるかは分かりませんが」
晶平は「お代は結構ですよ」と三味線を取り出し、正座をして撥を握る。
そうして晶平は、喋る時とはまた違う、よく通る声で歌った。
物語調の唄のようで、京国は興味深そうに聴き入る。
最期の一節が消え、京国は「…上手いな…」と溜息をついた。
「いや、オレは他をあまり知らないから相対評価なんて出来ないが。オレは好きだ」
正直な感想を伝えれば、晶平は嬉しそうに三味線を抱きしめた。
「ありがとうございます。薪にもならない唄ですが。腹ではなく暇を満たすには良いかもしれません。ここに居る間は、いくらでも」
「大盤振る舞いじゃないか。そう言われるとすぐ次を期待してしまうな」
「なら、次は恋の唄でも」
その日の夜、吹雪にきしむ窓には長く明かりが灯っていた。
晶平…瞽女のイメージ
京国…地元から出てきて独り暮らし。少し茶色の艶の無い髪。顔の左から首にかけて肌が少しひきつれている。