第6章:搾取される日々と思い上がり。私はもう、振り返らない
あの息の詰まるような地獄の結婚生活にピリオドを打ってから、早いものでもう数年の月日が流れた。
「ママ、みてー! ブロックできたよ!」
「わあ、すごい! お城みたいに大きくなったね」
リビングの柔らかな絨毯の上で、三歳になる長男が嬉しそうにおもちゃを掲げている。その横では、生後半年になる長女がベビーベッドでスヤスヤと穏やかな寝息を立てていた。
休日の昼下がり、日差しの差し込む明るいリビング。
今の私を包んでいるのは、かつての殺伐とした空気とは無縁の、温かで穏やかな時間だ。
私は離婚後、実家で少し休養を取ったあと、すぐに事務のパートから正社員へと復帰を果たした。そこで出会った誠実で優しい今の夫と再婚し、奇跡的にも二人の子供に恵まれたのだ。
私を「不良品」と罵ったあの人たちが聞いたら、さぞかし驚くことだろう。
そんなことをぼんやりと考えていると、ふいにスマートフォンが鳴った。実家の母からだった。
『あ、美咲? 今ちょっと時間ある?』
「うん、大丈夫よ。どうしたの?」
電話越しの母の声は、どこか呆れたような、ひどく疲れたような響きを含んでいた。
『実はね……昨日、和子さんがウチに来たのよ。ボロボロの服を着て、泣きながら土下座してきてね』
「え……お義母さんが?」
予想外の名前に、私は思わず眉をひそめた。
『もう信じられないくらい窶れててね。“私が間違っていた、美咲さんに帰ってきてほしい”って泣き喚くのよ。なんでも、麗奈さんにこき使われて、タダ働きの家政婦状態なんですって。少しでも文句を言おうものなら、“一番安い劣悪な介護施設に放り込む”って脅されているらしくて、毎日ビクビクして生きてるそうよ』
「……そうなんだ」
かつて私をゴミのように見下し、息子を溺愛していたあの義母が。
私は同情するどころか、まるで遠い国のニュースでも聞いているかのような、不思議なほど冷めた感情を抱いていた。
「健太は? 何も言わないの?」
『それがね……』
母はさらに深いため息をついた。
『健太さん、麗奈さんに給料もキャッシュカードも全部没収されてるらしいんだけど、完全に頭がおかしくなっちゃってるみたいなのよ。“俺はエリート妻を支える重要な役割なんだ。無能な男にはできない高度な任務だ”って、ブツブツ呟きながら毎日麗奈さんの靴を磨いてるんですって』
その言葉を聞いて、私は思わず乾いた笑いをこぼしてしまった。
どこまでもプライドが高く、見栄っ張りだった健太。
無精子症という現実から目を背け続けた彼は、ついにそのプライドを守るため、都合の良い妄想の世界へと完全に逃げ込んでしまったのだ。
奴隷のように搾取され続ける日々を、「エリート妻を支える重要な役割」だと思い込むことでしか、自我を保てなくなってしまった哀れな男。それが、私を裏切った元夫の末路だった。
「へえ……大変だね」
私は心底どうでもいいというトーンで、それだけを返した。
怒りも、恨みも、ましてや同情も湧かない。ただただ「無関係な他人」の哀れな話として、私の心を素通りしていった。
『もちろん、塩を撒いて追い返してやったわよ。二度と関わりたくないわね』
「ありがとう、お母さん。もう私の耳には入れなくていいからね。私には、今がすべてだから」
電話を切り、私は大きく伸びをした。
窓の外を見ると、買い出しに行ってくれていた夫の車が駐車場に入ってくるのが見えた。
「あ、パパ帰ってきたよ!」
長男が弾かれたように立ち上がり、パタパタと玄関へ走っていく。
ガチャリとドアが開く音と、「ただいまー!」という夫の明るい声が響いた。
ベビーベッドの長女も目を覚まし、ふにゃふにゃと嬉しそうに手足をバタつかせている。
愛する夫と、可愛い二人の子供。
もう、誰も私を傷つけない。誰も私を理不尽に責め立てない。
「可哀想な人たち……。でも、もう私には一生関係ない世界の話ね」
私は窓越しの遠い空にむかってぽつりと呟くと、愛しい家族が待つ玄関へと振り返った。
「さあ、パパが帰ってきたからご飯にしようか」
私の人生は、もう二度と過去を振り返らない。
この温かく輝く未来へ向かって、ただ前だけを見て歩いていくのだ。
【完】




