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8杯目 チーズ色々

 「チーズはお好きですか?」


 シャルトリューズのソーダ割りを三分の一ほど飲み進めたところで、美和さんが柔らかい声で訊ねてきた。


 彼が「特にブルーチーズが好きですね」と答えると、彼女の目がぱっと輝いた。


 「チーズがお好きなら、ちょうどいいタイミングです♪ 食べ頃のものが揃ってるんですよ」


 そう言うと美和さんは、カウンターの奥から布をかけた大きな木のまな板を抱えて戻ってきた。


 布をそっとめくると、そこには色とりどりのチーズがブロックのまま、贅沢に並べられている。


 「すごい……! これだけの種類を揃えてる店、街中でもなかなか無いですよ」


 彼が素直に驚きの声を上げると、美和さんは腰に手を当て、胸を張って得意げに笑った。


 「でしょう? 私が自信を持って厳選したチーズですから、どれも美味しいんですよ!」


 その瞬間―― バーコートをきっちり着込んでいるせいで普段は目立たなかったが、胸を張った姿勢で、彼女の豊かなバストがはっきりと強調される。


 (…美和さん、実はかなり胸大きいんだな…)


 彼の視線がチーズではなく、ついその膨らみに吸い寄せられてしまう。


 美和さんはその視線にすぐ気づいたらしい。


 両腕で胸元を軽くガードしながら、ジト目で可愛らしく彼を睨む。


 「…えっちなこと、考えてますね…? 駄目ですよぉ…」


 「っ! す、すみませんでした!」


 慌てて全力で頭を下げると、美和さんはくすっと小さく笑って許してくれた。


 「ふふっ、冗談ですよ。…まぁ、ちょっとだけ本気だったのかもしれませんけど」


 そう呟きながら、彼女はチーズ専用の先端が曲がったナイフを手に取る。


 一つ一つ丁寧に表面を削って味見をし、満足そうに小さく頷くと、萩焼の大きな白い皿に盛り付けを始めた。


 ちょうどその頃、店内にバゲットの焼ける香ばしい匂いがふわりと広がってきた。


 オーブンから取り出したばかりの温かいパンが、チーズの濃厚な香りと混じり合って、なんとも言えない幸福な空気を生み出している。


 テキパキと、でもどこか優雅な手つきで盛り付けを終えると、


 「お待たせしました……どうぞ」


 美和さんはそっと、まるで大切な贈り物でも渡すように大皿を彼の前に置いた。


 四種類のチーズがそれぞれ美しくカットされ、色合いもバランスよく配置されている。


 ブルーチーズの深い青脈、クリーミーな白カビ、熟成したゴーダの黄金色、そして濃厚なウォッシュタイプ……どれも今が最も美味しい瞬間だと訴えているようだった。


 彼は思わず息を呑み、「これ……本当に楽しみです」と呟いた。


 美和さんはカウンター越しに少し身を乗り出し、悪戯っぽく微笑む。


 「全部、ゆっくり味わってくださいね。…私も、一緒に楽しみたいので」


 その言葉と、柔らかく灯るバーの照明に照らされた彼女の横顔に、彼の心臓がまた少しだけ速く鳴り始めた。



 「こちらは左から順に、ブリ・ド・モーとフルムダンベール、ミモレット・フランセーズ……そしてスプーンに乗っているのがエポワス・ド・ブルゴーニュです。

 地元のパン屋さんの焼きたてバゲットと、自家製のドライフルーツも添えました♪」


 美和さんがそう言いながら置いた大皿は、まるで小さな宝石箱のようだった。


 淡いクリーム色のブリ・ド・モー、青脈が美しく走るフルムダンベール、オレンジが鮮やかなミモレット、そしてスプーンにちょこんと乗った、どっしりとしたエポワス。


 それぞれが絶妙な間隔で配置され、ドライフルーツのルビー色がアクセントになっている。


 どれも今が食べ頃だと主張するように、表面が艶やかに光り、微かな香りがカウンターに広がっていた。


 彼は思わず息を呑み、早速大好きなブルーチーズに箸を伸ばした。


 それはフルムダンベールで、オーヴェルニュ地方の山岳地帯で作られる青カビタイプのチーズだ。


 背の高い円筒形の形状が特徴で、内部に均一に青カビが散らばっている。


 一口含むと、しっとりとなめらかな舌触りがまず広がる。


 ヘーゼルナッツを思わせる香ばしさと、穏やかなクリーミーさがゆっくりと口内を満たす。


 青カビはしっかりと入っているのに、辛さや刺激は控えめで、見た目のインパクトとは裏腹に優しい味わいだ。


 塩味も穏やかで、ナッツのようなほのかな甘みが後を引く。


 青カビチーズの中では非常に食べやすい部類で、「高貴な青カビ」と呼ばれる上質さを感じさせる。


 美味しそうに頬を緩める彼を、美和さんはカウンター越しにじっと見つめながら微笑んだ。


 「ロックフォールやスティルトンも置いてるんですけど、今日は比較的癖の少ないフルムダンベールにしてみました♪

 …あ、スプーンに乗ってるのがエポワスです」


 彼女は少し身を乗り出して、楽しげに説明を続ける。


 「フランス、ブルゴーニュ地方のエポワス村で作られている、ウォッシュタイプのチーズの代表格なんですよ。

 普通のウォッシュチーズは塩水だけで表面を洗いながら熟成させるんですけど、エポワスは塩水にマール……つまり地元の蒸留酒を混ぜて洗うのが特徴です。

 それがこの独特なオレンジ〜赤茶色の表皮を生み出してるんです。

 サイズは小さめで、直径9.5〜11.5cm、重さ250〜350gくらいの小型が一般的ですよ。

 熟成が進むと、中身がスプーンですくえるほどトロトロになるんです」


 「だからこんなに強烈な香りがするんですね。

 フランスでは『神様のおみ足』って例えられるくらいですもん…

 神様の足の匂いって、ちょっと失礼じゃないですか! あ、私の足は大丈夫ですからね!」


 「……?」


 美和さんが急にぷりぷりと頰を膨らませて怒り出したので、彼は思わずグラスを止めた。


 (神様に知り合いでもいるの……? なんでそこでキレてるんだ……?)


 一人でむくれている美和さんの様子があまりにも可愛くて、彼はグラスを傾けながらくすくすと笑いを堪える。


 視線に気づいた美和さんは、はっと我に返って頰を赤らめ、軽く咳払いをした。

 「……こほん。でもね、そんな強烈な臭いは表皮だけなんです。

 中身はミルクの優しい甘さと、濃厚でとろけるようなコクが合わさって、本当に素晴らしい味わいになるんですよ。

 ナポレオンが愛したと言われる伝説のチーズで、かつては修道院で作られていたんです。

 塩気と旨味のバランスが絶妙で、臭いとのギャップが魅力なんですよね」


 何事もなかったように説明を再開する彼女の横顔は、照明に照らされて柔らかく輝いている。


 彼は焼いたバゲットにエポワスをたっぷり塗って頬張った。


 スプーンで中身をすくうと、トロリとしたクリーム状の食感がまず心地よい。


 口の中に広がるのは、確かに「神様のおみ足」とは思えないほどの芳醇さ。


 強烈な発酵臭が鼻をくすぐるのに、味わいは深く、まろやかで、牛乳の甘みと濃厚なコクが層になって広がる。


 塩味がアクセントになり、まるで秘密を打ち明けられたような贅沢な気分になる。


 バゲットのサクサクとした食感と混ざり、噛むごとに新しいニュアンスが生まれる。


 次にドライフルーツで口を清め、シャルトリューズのソーダ割りを一口。


 ハーブの清涼感とチーズの余韻が混じり合い、なんとも言えない至福が体を巡る。


 彼の視線が皿の他のチーズに移ると、美和さんがすぐに気づいて続けた。


 「左端のブリ・ド・モーもおすすめですよ。

 イル・ド・フランス地方のブリ地方で作られる白カビタイプで、AOP認定の王道チーズです。

 直径36〜37cmの大きな円盤形が特徴で、表面は白いカビに覆われて、熟成が進むと赤褐色の斑点が出てきます。

 中身は外側からトロトロに溶けていくんです。

 味わいはバターやナッツ、生クリームのような豊かなコクで、上品で丸みがあるんですよ。

 シャルルマーニュが食べた記録がある古いチーズで、ウィーン会議では『チーズの王』に選ばれたとか」


 彼は頷きながら、ブリ・ド・モーをバゲットにのせて一口。


 表面の白カビが柔らかく、中心がクリーミーに溶け出す食感がたまらない。


 洗練された味わいが口いっぱいに広がり、熟成の深みが余韻を残す。


 次にオレンジ色のミモレット・フランセーズに手を伸ばす。


 これはフランス北部、フランドル地方のリール周辺で作られるセミハードタイプで、アナトー色素による鮮やかなオレンジが目を引く。


 表皮は熟成でクレーター状の穴ができ、チーズダニの活動で独特の風味が生まれる。


 若いものはマイルドで弾力があるが、このものは12ヶ月以上の熟成らしく、ナッツの香ばしさとキャラメルのような旨味が強い。


 薄くスライスして噛むと、硬めの食感から濃厚な味わいがじわじわと染み出す。


 ルイ14世時代にオランダのエダムチーズを模倣して生まれた歴史があり、意外と日本酒やウイスキーとも合う。


 目の前には、そんな彼を優しい眼差しで見つめる美和さんがいる。


 グラスを丁寧に拭きながら、嬉しそうに、どこか誇らしげに微笑んでいる。


 「どうですか…? 美味しかったら、私、すごく嬉しいんですけど…」


 彼女の声は少しだけ照れくさそうで、でも心から楽しそうだった。


 彼はグラスを軽く掲げて、静かに答えた。


 「…最高です。この時間、この味、そして美和さん。全部」


 美和さんは一瞬目を丸くして、それからふわりと笑った。


 バーの柔らかな灯りが、二人の間に温かな影を落とす。至福の夜は、まだ始まったばかりだった。



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