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【Bar風花】第二章 美和さんの手づくりマーマレード ~琥珀の残り香 桜印のマーマレード~

【Bar風花】第二章 美和さんの手づくりマーマレード ~琥珀の残り香 桜印のマーマレード~


※本編とは完全に独立した、ほっこり日常回です。

※戦闘も恋愛もありません。ただ、美和さんの手づくりマーマレードが、家族と町の人々を優しく繋ぐだけの話。


櫻庭家の庭で一年中実る柑橘たち。

美和さんが煮詰める琥珀色のマーマレードに、ほのかな桜の香りとボタニカル・ジンの魔法を閉じ込めて。

ベーカリー持名では開店十分で完売。

皇グループのお祖母様の執務室にも届く、甘く優しい架け橋。


Bar風花らしい、温かな朝の物語をお届けします。

 風花町の高台にある櫻庭家の庭には、理を超えた時間が流れている。


 一年中、どこかの枝で桜が淡い花を散らし、別の枝では黄金色の柑橘が重そうに首を垂らしている。オレンジの陽気な色、レモンの潔い黄色、ライムの深い緑、そして日向夏の高貴な白。


「今年も、賑やかすぎるわね」


 美和が籠を片手に、たわわに実った果実を見上げて苦笑した。隣では、ルポライターとしての顔を脱ぎ捨て、エプロンを締めたあまねが、手際よく枝を剪定しながら果実を受け取っている。


「これだけあると、もう『お裾分け』の域を超えちゃうね。美和さん、今度は僕たちがこの子たちの命を預かろうか」


「ええ。この輝きを、瓶の中に閉じ込めてあげましょう」


 キッチンに場所を移すと、そこは静かな聖域へと変わった。


 天が果実を洗い、皮を剥き、白い綿の部分を丁寧に取り除く。それは地味で根気のいる作業だが、天の指先は慈しむように動く。美和は、その傍らで「味の設計図」を引いていた。


 オレンジの甘みをベースに、レモンとライムの鋭い酸味を走らせる。そして日向夏の白い綿をわずかに残し、高貴な苦味を奥行きとして加える。


「ジャムじゃない。これは、火を通した『ノンアルコール・カクテル』よ」


 美和が木べらを回すたび、部屋中にシトラスのエッセンシャルオイルが爆発するように広がった。仕上げに落としたのは、ボタニカル・ジン『ジン・マーレ』をひと匙。ジュニパーとタイムの香りが、煮詰まった琥珀色の液体に「夜の静寂」を連れてくる。


 瓶に詰められたそれは、朝日を浴びて宝石のように透き通っていた。


 数日後の午前十時。


『ベーカリー持名もちな』の開店と同時に、静かな熱狂が店を包んだ。


「……あったわ、桜印のマーマレード」


 レジ横の特等席に並んだ、桜の花印の封蝋が施された小さな瓶。お一人様一点限り。告知もなしに、月に二、三度だけ並ぶその「琥珀」を求め、町の人々は静かに、けれど必死に手を伸ばす。


 わずか十分。


 悟が丹精込めて焼いたカンパーニュの隣から、マーマレードの姿が消えた。


「櫻庭さん。これ、やっぱり魔法ですよ」


 悟が空になった棚を見つめ、溜息を漏らす。


「うちのパンが、このマーマレードを塗った瞬間に別の生き物に変わるんです。小麦の香ばしさが、柑橘の苦味に抱きしめられるというか……。もう、これなしのパンは考えられない」


 悟の懇願を受け、美和は少しだけ困ったように微笑んだ。


「お酒以外で、こんなに求められるなんて思わなかったわ。でも、あなたのパンがこの子たちの居場所を作ってくれたのよ、持名さん」


 この「十分間の奇跡」は、やがて町を越え、遠く離れた場所へと運ばれていく。


 都心の喧騒を眼下に見下ろす、皇グループ本社ビル。


 その最上階、重厚な沈黙が支配する執務室に、一人の男が足音もなく現れた。


「……フフフ。会長、風花町より『届きもの』でございます」


 漆黒の燕尾服を纏った烏丸からすまが、恭しくトレイを差し出す。その所作は完璧すぎて、どこか非人間的な冷徹さを孕んでいた。


 お祖母様——皇グループの頂点に君臨する婦人が、デスクの上の書類から顔を上げた。


「……また、あの子たちが余計な手間をかけたのね」


 烏丸が用意したのは、ヌワラエリヤの最高級セイロンティー。彼は影から魔力を通わせるかのように、コンマ一度の狂いもなく温度を制御し、茶葉のポテンシャルを極限まで引き出していく。


「フフフ……主の愛するヌワラエリヤに、美和様の慈愛を。なんと贅沢な光景でしょうか」


 お祖母様は、リベイクされた持名のパンにたっぷりとマーマレードを乗せ、口に運んだ。


 オレンジの明るさと、日向夏の気高い苦味。それが口の中で解けるたび、鉄の女と呼ばれた彼女の眉間の皺が、春の陽だまりに溶けるように消えていく。


 締めは、残ったマーマレードを紅茶に溶かし込んだロシアンティーだ。


「……ふん。相変わらず、甘さが過ぎるわ。これでは、皇の当主が骨抜きにされてしまうわね」


 その言葉とは裏腹に、お祖母様は最後の一滴まで愛おしそうに飲み干した。


里美さとみ。そんなに指をくわえて見ていては、皇の秘書官としての品格が泣くわよ」


 傍らに直立不動で控えていた天野里美は、びくりと肩を揺らした。


 彼女の視線は、お祖母様のカップの底に残ったマーマレードの一片に釘付けだった。美和様が、あの高貴な指先で煮詰めた琥珀。天ちゃん様が、愛を込めて収穫した果実。それを想像するだけで、里美の理性は暴走機関車のように限界を迎えている。


 内心の叫びを見透かしたように、烏丸が薄く笑った。


「フフフ、里美秘書官。不敬ですよ。……お祖母様の寛大さに感謝しなさい。さもなくば、私が直々に……『ご指導』を差し上げましょうか?」


 里美の脳内のホワイトボードに、赤い文字が書き殴られる。


『この、腹黒カラス……!』


 里美は完璧なポーカーフェイスの下で、烏丸への罵倒を連ねた。主の前では従順な執事の皮を被りながら、自分に対しては悪魔的な愉悦を隠そうともしないこの男が、彼女は心底癪に障る。


「……失礼いたしました。次回の風花町公務の際は、開店一時間前から並ぶ所存ですわ」


 意地を張る里美を、お祖母様は楽しそうに眺めていた。


「烏丸。……このお茶の淹れ方、里美にも覚えさせておきなさい。……もっとも、彼女がマーマレードを一口も盗み食いせずに済むのなら、の話だけれど」


「フフフ。仰せのままに、我が主」


 翌朝。風花町の櫻庭家では、いつもの静かな朝食が始まっていた。


 コーヒーの香りと、トーストが焼ける音。


 天が、自分たちのために取っておいた一番出来の良い瓶を開ける。


「昨日、お祖母様も同じものを食べたかな」


「きっと、『甘すぎる』って文句を言いながら完食しているわよ」


 美和が笑い、天のパンにたっぷりと黄金色を乗せた。


 庭では今日も、桜が舞い、柑橘が実っている。


 十分間で消える魔法の琥珀は、ある人にとっては朝の力に、ある人にとっては孤独な夜の慰めに、そしてある人にとっては、遠い家族を繋ぐ唯一の架け橋となっていた。


「明日の朝食も、楽しみね」


 二人の朝食は、穏やかに、けれど確かな充足と共に、新しい一日へと溶けていった。

あとがき


美和さんの手づくりマーマレード、いかがでしたか。


庭の果実を瓶に閉じ込めた、ほんのり桜の残り香。

十分間で消える奇跡と、遠くのお祖母様の笑顔。

そんな穏やかな日常が、Bar風花の一番の宝物です。


読みに来てくださってありがとうございました。

また、カウンターの片隅でゆるくお待ちしています。


天照(Bar風花)

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