7杯目 エリキシルと、疲れた夜の止まり木
『Bar風花-kazahana-』
エリキシルと、疲れた夜の止まり木
※独立した短編エピソードです
※バー・カクテル・静かな癒し・疲れた心に寄り添う話が好きな方向け
※大きな事件もドラマチックな展開もありません
数日間、魂の芯まで疲れ果てていた。
仕事は倍増し、帰宅は深夜、家族の寝息だけが響く家。
味気ないカレーをひとりで温め直し、ただ黙々と食べる日々。
そんな土曜の夜、ふらりと路地裏の扉を開けた。
『Bar 風花 -kazahana-』
変わらない蔦の外壁、柔らかな灯り、ジャズの調べ。
カウンターの向こうで、美和さんがいつもの笑顔で迎えてくれる。
「お越しになる予感がしていたんです♪」
約束していたパイプのセットを渡し、疲れた体にそっと差し出されたのは、シャルトリューズのエリキシルとヴェールを組み合わせた、まるで回復薬のような一杯。
角砂糖に染み込んだ強いハーブの香り、冷たいソーダ割りが喉を滑り、じんわりと体に染み渡る。
Bar風花へ、ようこそ。
今夜は、疲れた心が少しだけ休める場所です。
この数日、彼はまるで魂の芯まで疲れ果てていた。
あの日以来、一度も『風花』に足を運ぶことができていない。
美咲さん宅で温かなお酒をご馳走になった翌朝、会社に着くなり同僚の急な入院を知らされた。
それからというもの、彼は一人で二倍の仕事を背負い込むことになった。
残業は当たり前、会議は立て続け、書類の山は減るどころか増え続け、頭の中は常に数字と締め切りで埋め尽くされていた。
朝はまだ暗いうちに出社し、帰宅するのは日付が変わる頃。
自宅の玄関を開けると、静まり返った廊下に家族の寝息だけが微かに響く。
冷蔵庫には妻が残してくれた昨夜のカレーが、ひとり分の皿に盛られて待っている。
レンジで温め直したそれを、テレビの音も消したリビングで黙々と口に運ぶ。
味はするのに、どこか味気ない。
そんな日々が、ただ淡々と続いていた。
◆
土曜日の夜。
飲み屋街の喧騒から少し外れた、薄暗く細い路地を進む。
街灯の光が届きにくい場所に、ひっそりと佇むその店は、あの日と何一つ変わっていなかった。
蔦の絡まるレンガ調の外壁。
淡いライトが、ドアと看板だけを優しく浮かび上がらせている。
看板には、静かな筆致で『Bar 風花 -kazahana-』と記されていた。
重厚な木製のドアに手をかけ、ゆっくりと引く。
意外にも軽く開いた扉の向こうから、心地よい温度の空気が頬を撫でた。
ほのかに香るウッドと、微かに漂う花の気配。
空調が絶妙に効いた店内は、まるで外の世界から切り離された別次元のようだった。
カウンターに客の姿はなく、ただ静かにジャズが流れている。
あの日と同じ、穏やかで深い静寂。
カウンターの向こうに、純白のバーコートを完璧に着こなした美和さんが立っていた。
柔らかな照明の下で、彼女の笑顔はいつものように優しく、どこか懐かしい。
「いらっしゃいませ……! 今日は何と無くお越しになる予感がしていたんです。 当たっちゃいましたね♪」
彼女はそう言って、軽く目を細めながら先日と同じ席を勧めた。
勧められるままに座ると、美和さんは腰のポケットから厚手の紙コースターを一枚取り出し、彼の前にそっと置いた。
続いて、温かいおしぼりを差し出す。
ビニール包装などされていない、ふんわりと蒸気立つ布。
開店前に彼女自身が丁寧に温めて用意したものだと、すぐに分かった。
冷え切った指先にじんわりと温もりが広がり、肩の力が少しずつ解けていく。
「あ、そうだ。これを……」
彼は鞄の中から、ジュラルミンケースを思わせる小さなアルミ製のトランクを取り出した。
それを、静かに彼女の方へ差し出す。
「これ、以前お約束していたパイプのセットです。必要な道具一式と、煙草も入れてあります。これ一つで、すぐにパイプを楽しめますよ。」
「え……本当に、いいんですか? なんだか、申し訳無いです…」
美和さんは両手でケースを受け取ろうとして、途中で少し躊躇した。
瞳に喜びと遠慮が混じり合っている。
「先日ご馳走になったお礼ですし、もともと死蔵していたものです。美和さんみたいな美しい方に使っていただいた方が、パイプもきっと喜ぶと思います。どうか、遠慮なく受け取ってください。」
彼の言葉に、彼女の頬がほんのり桜色に染まった。
嬉しさが抑えきれず、でもどこか照れくさそうに、そっとケースを受け取る。
ケースを開けると、中には丁寧に収められたパイプが姿を現した。
アイルランドの老舗ピーターソン社製、ベルジック・スムースの銀巻き仕様。
通称「ベルジック型」と呼ばれるこの形は、ボウルが小さく全体がスリムで、女性の手にもしっくり馴染む優雅なシルエットだった。
「煙草は、ピーターソン社の『サンセットブリーズ』を小分けにして入れています。
バージニア、バーレー、ブラックキャベンディッシュをブレンドし、アマレットの優しい香りを纏わせたアロマティックです。
軽やかな吸い心地と、甘く柔らかな香りなので、女性でも心地よく楽しめると思います。」
「それに、中に簡単な吸い方のメモも入れてあります。
初めての方でも、ゆっくり試していただけるように……」
美和さんは細く白い指でパイプをそっと撫でながら、目を輝かせた。
「ありがとうございます……!
帰ったら、縁側に座って、庭のお花を眺めながら、ゆっくり試してみますね♪」
その満面の笑顔を見ていると、先日訪れた彼女の家の記憶が鮮やかに蘇る。
手入れの行き届いた庭、満開の桜の下で静かに佇む美和さんの姿。
風に揺れる花びらと、柔らかな日差し。
あの穏やかな時間が、今も胸の奥に温かく残っている。
…ああ、またあの景色を、ゆっくりと眺めたい。
彼がそんな想いを胸に秘めていると、美和さんはまるで心を読んだかのように、そっと微笑んだ。
カウンター越しに身を寄せ、耳元で囁くように。
「いつでも、遊びに来てくださいね。私も、狐白も、心からお待ちしていますから…♪」
その声は、ジャズのメロディに溶け込むように優しく、
そしてどこか甘く、彼の疲れた心に静かに染み込んでいった。
◆
さて、今日の1杯目は何にしようか……
彼はカウンターに肘を付き、バックバーの棚にずらりと並ぶボトルをぼんやりと眺めながら、そんなことを考えていた。
照明の柔らかな光が瓶のガラスをきらめかせ、琥珀色や深い緑、透明な液体がそれぞれの物語を語っているようだ。
疲れた体に染み入るような、優しいアルコールが恋しい。だが、どれを選べばいいのか、頭がぼうっとする。
そんな彼の様子を見透かしたように、美和さんがカウンター越しに微笑みかけた。
純白のバーコートが彼女の細い体を優雅に包み、動きの一つ一つが洗練されている。
「お飲み物がお決まりでなければ、私にお酒を決めさせて頂いてよろしいですか?」
彼女の声は、静かな店内に優しく響く。穏やかで、どこか遊び心を帯びたトーン。
彼は内心で喜んだ。せっかくの申し出だ、何を出してくれるのか、非常に楽しみである。
「ええ、ぜひお願いします。」
と、軽く頷く。
美和さんは悪戯っぽく目を細め、彼に言った。
「お疲れの貴方に、今日は回復薬のエリクサーを飲んで、元気になって頂きたいと思います♪」
そう言いながら、彼女はバックバーの奥から、手のひらサイズの小さなボトルを取り出した。
ボトルのラベルは古風で、神秘的な雰囲気を纏っている。
次に、カウンターの下から小さな白い小皿を取り出し、その上に奄美産の黒糖でできた角砂糖を一つ、丁寧に置いた。
彼にボトルのラベルをゆっくりと見せながら、美和さんは説明を始める。
「これは、シャルトリューズ エリキシル ヴェジェタルです。
ヴェール(緑)やジョーヌ(黄)とは異なる、原初の製法に近い処方で作られるお酒で、リキュールですが甘味はかなり控えめ。
代わりに、130種類ものハーブの香りが強く、アルコール度数はなんと71度もあります。
カルトジオ会の修道士たちが、古い秘伝のレシピから生み出した、まるで薬のような一本ですよ。」
彼女の声は、まるで物語を語るように柔らかく、聞いているだけで心が落ち着く。
次に、ボトルのキャップをそっと開け、数滴のお酒を角砂糖に振り掛けた。
液体はゆっくりと染み込み、砂糖の表面を微かに輝かせる。
空気に触れた瞬間、強いハーブの香りがふわりと広がり、店内の空気を一瞬で変えた。
薬草の苦みと、ほのかな甘さが混じり合った、複雑で魅力的な匂い。
続いて、美和さんはバックバーから別のボトルを取り出す。
美しい緑色の液体が詰まった、クラシックなデザインの瓶。
「こちらは、シャルトリューズ ヴェール(緑)です。
カルトジオ会に伝えられた薬草系リキュールの銘酒で、『リキュールの女王』とも称されるフランスを代表する一本。
55度のアルコールに、130種類のハーブとスパイスがブレンドされ、深い緑色と独特の風味が特徴です。」
彼女はクリスタルガラス製のタンブラーに、トングを使って大ぶりのキューブアイスを二つ入れ、軽く回す。
氷の音が、静かなジャズに溶け込む。
そこに、シャルトリューズ ヴェールを注ぎ入れる。
緑色の液体が氷に触れ、ゆっくりと広がっていく様子は、まるで森の霧のように幻想的だ。
次に、ソーダをなみなみと注ぎ、バースプーンで優しくステア。
泡立つ炭酸が、グラスの縁まで満ちる。
完成したカクテルを、彼の前のコースターにそっと置いた。
薄い緑色の液体が、ライトに反射してきらめいている。
美和さんは、仕上げの説明を続ける。
「エリキシルはアルコール度数が71度もあるので、オーソドックスですが、角砂糖に染み込ませるレシピにいたしました」
「そしてこちらのコリンズグラスのカクテルは、シャルトリューズ ヴェールを、ソーダとトニックウォーターのどちらで割るか少し悩みましたが、角砂糖を食べながらになるので、よりスッキリするソーダ割りに。
角砂糖を少しずつ齧りながら、お飲みくださいね。
これで、疲れた体にハーブのエッセンスが染み渡るはずです♪」
彼はまず、カクテルから一口。
グラスを傾け、冷たい液体が唇に触れる。
仄かな甘みと、薬草の爽やかな苦味が、炭酸の泡と共に喉を滑り落ちる。
体の中から、じんわりと温かさが広がるような感覚。
次に、角砂糖をそっと齧ってみる。
黒糖の濃厚でコクのある甘みが口に広がり、そこにエリキシルの強いアルコールとハーブの風味が絡みつく。
力強い刺激が、舌を震わせる。
それを、ソーダ割りで追いかけるように流し込むと、すべてが調和して、心地よい余韻を残す。
「美味しい……。本当に、体に薬草の成分が染み渡るみたいです。」
彼が素直に感想を漏らすと、美和さんは優しい笑みを浮かべ、目を細めた。
「それは良かったです♪ でも、今日はもっともっと元気を出してもらいますよ〜♪」
彼女の言葉は、軽やかで温かく、彼の心をさらに解きほぐす。
カウンターの向こうで、彼女の姿が少し輝いて見えた。
この一杯が、長い一週間の疲れを、優しく癒してくれる予感がした。
読んでくださってありがとうございます。
この話は、「本当に疲れ切ったときに、ただ静かに迎えてくれる場所」を描きたかっただけの一場面です。
仕事に追われ、帰宅しても味気ない夜が続く中、ふらりと開けた扉の向こうに、変わらない笑顔と温かいおしぼりと、体に染み入るような一杯が待っていた。
シャルトリューズの強いハーブと、角砂糖の甘さ、そして美和さんの「いつでも来てくださいね」という言葉。
派手さはないけれど、そういう小さな優しさが、疲れた心に一番効くのかもしれません。
狐白も、きっと縁側で待ってると思います。
またいつか、ふらりと寄ってくださいね。
それでは、今夜も良い夜を。
天照(Bar風花)




