【Bar風花】第二章 モンキーグランド~天ちゃんの最盛期を呼び覚ます一杯〜
【Bar風花】モンキーグランド ~天ちゃんの最盛期を呼び覚ます一杯〜
※本編とは独立した、夫婦だけの夜のひとときです。
※ちょっと大人な雰囲気ですが、戦闘も事件もありません。ただ、疲れた天ちゃんを優しく(?)奮い立たせる一杯のカクテルだけ。
ルポの締め切りで心も体も重くなった天ちゃん。
「マイルドな一杯を」とこぼす彼に、美和さんが振る舞うのは伝説の霊薬『モンキー・グランド』。
1920年代パリの禁断のカクテルが、今夜の天ちゃんの「最盛期」を静かに呼び覚ます――。
風花町の夜は、静寂さえも一つの酒の肴になるような、深く、澄んだ空気に包まれていた。
『Bar 風花 -kazahana-』の店内。
磨き上げられた鉄刀木の一枚板カウンターの上には、琥珀色のランプが一つ、穏やかな光を投げかけている。
客が引き、最後の一人が扉を閉めた後。
櫻庭天は、カウンターの隅で深く、重い溜息を吐き出した。足元に置いたたカメラバッグが、何故か今日はいつになく重い。
いや、重いのはバッグではなく、彼自身の腰のあたりかもしれない。
「……天ちゃん、そんなに肩を落として、まるで枯れかけた向日葵のようよ」
カウンターの向こう側で、妻の美和が静かにグラスを拭きながら口を開いた。
その異色瞳は、ランプの光を吸い込み、すべてを見透かすような艶やかな輝きを放っている。
「……いや、少しルポの仕事が立て込んでいてね。最近、どうも身体が重いというか……」
天の言葉は、半分は真実で、半分は言い訳だった。
実のところ、彼はここ数日の「夜の戦績」に、密かな焦りを感じていた。
美和という女性は、一人の人間として、そして神話の現身として、枯れることのない生命力の塊だ。
彼女の愛に応えようとするたび、天は自分が「燃え尽きやすい薪」のように思えてならなかった。
昨夜も、そして一昨夜も。
かつては当然のように繰り返された「回数」が、じわり、じわりと、潮が引くように落ちている。
「なんだか……ガソリンが切れたみたいなんだ。美和さん、何か元気が沸くものを。でも、今の僕を優しく包んでくれるような、マイルドな一杯を頼めるかな」
美和はグラスを置くと、一瞬だけ、一人の「妻」としての柔らかな微笑みを浮かべた。
だが、次の瞬間、彼女の背筋はすっと伸び、一人の「バーテンダー」としての峻烈なオーラへと変貌した。
「……マイルド、ですか。いいえ、天ちゃん。今夜のあなたに必要なのは、優しさではありません。眠れる野生を呼び覚ます、強烈な『特効薬』です」
聖域の調製:禁断の霊薬
美和の指先が、迷いなくバックバーのボトルへと伸びた。
彼女が選んだのは、力強いジュニパーベリーの香りが特徴の『ビーフィーター・ジン』。そして、鮮やかな真紅の『グレナデンシロップ』。
美和はまず、氷を満たしたカクテルグラスをバースプーンで静かに回し、極限まで冷却し始めた。
その間に、彼女は小振りなハンドスクイーザーで、庭で採れたてのオレンジを搾り上げる。
飛び散る果汁の飛沫が、ランプの光を浴びて黄金の火花のように舞った。
「天ちゃん、このカクテルの名はね……『モンキー・グランド』といいます」
「サルの……偉大さ?」
「いいえ。グランド(Gland)とは、医学用語で『腺』を意味します。つまり、『サルの生殖腺』。そう呼ばれる一杯です」
天は思わず、身を乗り出した。「生殖腺? それはどういう……」
美和は答えず、シェイカーを取り出した。
ジンの鋭い酒精、オレンジの瑞々しい酸味、グレナデンシロップの深みのある甘み。
そして、彼女が最後に一滴、慎重に加えたのは、エメラルド色の禁断のリキュール――『アブサン』だった。
「1920年代のパリ。外科医セルジュ・ヴォロノフという人物がいました。彼は、男性機能の回復と若返りを目的として、サルの睾丸組織を人間に移植する研究を行っていたのです」
美和の口から語られる「医学の狂気」に、天は喉を鳴らした。
「その医師を称えて、伝説のバーテンダー、ハリー・マッケルホーンが考案したのがこの処方箋。今で言うバイアグラのような効果があると、当時の紳士たちはこぞってこの『毒』を煽ったと言われています」
美和がシェイカーを構える。
そのシェイクは、普段よりも鋭く、情熱的だった。
カラン、カシュ、カラン――。
氷と液体がぶつかり合う音は、まるで衰えかけた心臓を叩き起こす、力強い鼓動のように店内に響き渡る。
美和はダブルストレインで、一点の不純物もない液体をグラスへと注ぎ込んだ。
最後の一滴まで注ぎ終えると、彼女はオレンジピールを鮮やかに一閃し、柑橘の香油を霧のように立ち昇らせた。
「……さあ、天ちゃん。一気に召し上がれ。このカクテルの言葉は、『最盛期』。……あなたの盛りは、まだまだこれからですよね?」
核心:野生の覚醒
天の前に置かれたのは、夕焼けのような、あるいは沸き立つ血のような、妖艶なオレンジ色の液体だった。
グラスからは、アブサン特有のアニスの香りが、麻薬的な誘惑を孕んで鼻腔を突く。
天は覚悟を決め、その「霊薬」を一口に含んだ。
「――っ……!」
喉を焼き、肺の奥まで浸透していくような、鋭利な酸味と酒精。
ジンの芯の通った力強さを、オレンジのビタミンが包み込み、そして遅れてやってくるアブサンの薬草的な苦みが、麻痺していた天の神経を一気に覚醒させた。
「……すごいな。胃のあたりから、熱い塊がじわじわと広がってくる……」
「それは、太古から続く『陽』のエネルギーです。科学が神話に追いつこうとした時代の、愛すべき蛮勇の味。……どうかしら、少しは身体が軽くなった?」
美和はカウンター越しに身を乗り出し、天の頬に、白くしなやかな指先を添えた。
その瞳の奥には、バーテンダーとしての冷徹なプロ意識と、一人の女性としての底なしの情愛(欲)が、渦を巻いて溶け合っている。
「……ああ。なんだか、ルポの締め切りなんて、どうでもよくなってきたよ。美和さん、今夜は、なんだか眠れそうにないな」
天の瞳に、再び強い光が宿るのを見て、美和は満足げに目を細めた。
彼女は流れるような所作で、店の入り口の鍵を締め、表の看板の灯りを消した。
「ええ。それでこそ、私の天ちゃん。……今夜は『延長戦』ですよ。お家へ帰って、あなたが本当に『最盛期』かどうか、私がじっくりと検診して差し上げます♪」
「……お手柔らかに、と言いたいところだけど、今夜はそうもいかないみたいだね」
天は最後の一口を飲み干し、力強く立ち上がった。
鉄刀木のカウンターの上、空になったグラスの底に、オレンジ色の残響が小さく光っている。
風花町の夜は、さらに深まっていく。
『Bar 風花』の扉の向こう側。
明日を忘れるほどの熱い情熱が、二人の足取りを、穏やかな自宅へと急がせていた。
神話が、再び熱を帯びて動き出す。
サルの偉大なる力と、愛する妻の峻烈な抱擁が、天の「最盛期」をどこまでも更新し続けていくのであった。
あとがき
『モンキーグランド』をお読みいただきありがとうございます。
疲れきった夫を、妻が一杯のカクテルでそっと奮い立たせる……そんなBar風花らしい、甘くて少しだけ熱い夜を書きました。
天ちゃんと美和さんの、変わらない情熱が少しでも伝われば嬉しいです。
またいつか、別のグラスで。
天照(Bar風花)




