【Bar風花】第二章 イエローバード~この世の明るさを一杯に〜
【Bar風花】第二章 イエローバード~この世の明るさを一杯に〜
※本編とは完全に独立した、静かな一夜の話です。
※戦闘も恋愛もありません。ただ、冬の夜に訪れたお祖母様と、一杯の黄金のカクテルだけ。
凍てつく風花町の夜。
Bar風花のカウンターに現れたのは、天照大御神その人。
「この世の明るさを、一杯に」と微笑むお祖母様に、美和が振る舞うのは太陽を閉じ込めた『イエローバード』。
最高神が残す、温かな光の余韻をお届けします。
風花町の夜は、深く、静かだ。
季節外れの街灯の橙色の光さえ凍てつくような肌寒さの中、路地の奥に佇む『Bar風花』の重厚なオーク材の扉だけが、微かな暖かさを外へと漏らしていた。
店内では、櫻庭天がカウンターの端に座り、妻である美和がグラスを磨く音を心地よく聞きながら、手元の原稿に目を通していた。
鉄刀木の一枚板カウンターの上には、一本のバースプーンが入った大きなブランデーグラスが置かれ、そこには澄み切った水が満たされている。
その時、店内の空気が一変した。
それは嵐の前の静けさとは異なる。
重力が増したような密度の濃さと、それでいて全身の細胞が歓喜するような、圧倒的な「陽」の気配。窓に張り付いていた薄い霜が、内側から溶け出すように消えていく。
「……来たね」
天が呟き、姿勢を正した。
彼の手首で時を刻むIWCマークXXの秒針が、まるで磁場に捕らえられたかのように、一瞬だけその歩みを緩めたように見えた。
扉が静かに開いた。
先導するのは、完璧な秘書官の佇まいを見せる天野里美。そしてその後ろから、音もなく「お祖母様」が足を踏み入れた。
彼女が歩くたびに、冬の寒気は春の陽だまりへと書き換えられていく。
皇グループの頂点、そして天照大御神としての現身。
お祖母様が纏うのは、装飾を排した極上の白真珠色の絹衣だが、それが放つ輝きは店内の間接照明をすべて無力化させるほどに神々しい。
「お祖母様……」
天の声が、畏怖と親愛の入り混じった微かな震えを帯びる。彼は立ち上がり、深く頭を下げた。
カウンターの奥では、櫻庭美和が背筋を伸ばし、凛とした空気を纏って立っている。
その右目のワインレッドと左目のアンバーが、祖母の無限の慈愛を湛えた瞳を正面から受け止めた。
孫娘としてではなく、一人のバーテンダーとして。
ここが自分の選んだ「聖域」であることを示すように。
「……美和、天。息災なようですね」
お祖母様の声は、老齢を感じさせない透明感と、すべてを許容する温かさに満ちていた。
彼女がカウンターの中央、鉄刀木の最も美しい木目の前に腰を下ろすと、店内に漂う桜の香りが、一際強く、甘く波打った。
「お祖母様、今夜はいかがなさいましたか?」
美和が静かに問いかける。
「そうね……外は少し冷え込みすぎているわ。美和、わたくしに『この世の明るさ』を一杯、いただけますか? あなたがここで見つけた、かけがえのない光を」
美和は一瞬、瞳を伏せて思考の海に潜った。
最高神への供物。
冬の静寂を打ち破る、太陽の化身。
彼女がバックバーから手に取ったのは、背の高い、細長いボトルだった。
美和が選んだのは、イタリアの黄金、『ガリアーノ・オーセンティコ』。
バニラとハーブが複雑に絡み合うその香りは、神域に捧げる薫香にも似ている。
シェイカーに、バカルディ・スペリオールを注ぐ。
清冽なホワイトラムは、天から降り注ぐ光を反射する水鏡のようだ。
そこに最高級のトリプルセック、そして、たった今手絞りされたばかりのライムジュースを加える。
シトラスの鋭い酸味は、夜を切り裂く夜明けの象徴だ。
美和の手が動く。
シェイキングの音は、氷がぶつかり合う雑音ではなく、澄んだ打楽器の調べ。
彼女は光を編んでいた。
液体の中に微細な気泡を閉じ込め、氷の粒を踊らせる。
極薄のクリスタルグラス——木村硝子のサヴァ——に注がれる液体は、南国の太陽を煮詰めたような、淀みのない鮮烈な黄金色だった。
「お待たせいたしました。『イエロー・バード』でございます」
差し出されたグラスは、薄暗いバーのカウンターの上で、自ら発光しているかのように見えた。
お祖母様は、その「小さな太陽」を細い指先で持ち上げた。
飾り気のない、しかし究極まで洗練された黄金の液体。
彼女がゆっくりと口に含む。
バニラの甘やかな香りが鼻腔を抜け、ライムの清涼感が舌の上を走る。
そして、ラムの力強い温もりが喉を通って、心臓へと落ちていく。
「……ふふ。良い味ね、美和」
お祖母様の表情が、ふっと「祖母」のそれへと和らいだ。
「このカクテルの名は『黄色い鳥』……。自由を愛し、光に向かって羽ばたく者の歌。あなたがこの町で、この人の隣で、何を見つけたのか。この一杯がすべてを物語っています」
お祖母様の視線が、天へと向けられた。
天は、そのあまりに眩しい眼差しに、背筋を正す。
「天。……あなた、随分と遠いところから歩いてきたのね」
その言葉の意味を測りかね、天がわずかに首を傾げると、お祖母様は慈しみ深い微笑を深めた。
「泥にまみれ、言葉を紡ぎ、一人の女性を愛し抜く……。今のあなたのその真っ直ぐな瞳は、かつて私が夢に見た、どんな眩い光よりもずっと温かく輝いていますよ」
「……お祖母様?」
「ふふ、年寄りの独り言です。……美和、この『明るさ』をありがとう。あなたの選んだ道に、間違いはなかったようね」
天は深く頭を下げた。
彼が守りたかったのは、この小さなバーの平穏であり、そこに咲く美和という一輪の花の笑顔だった。
最高神にそれを肯定された重みが、彼の胸を熱く焦がす。
お祖母様はグラスを空にすると、名残惜しそうにその縁を指でなぞった。
飲み干された後のグラスには、南国の情熱的な余韻と、日向の匂いが微かに残っている。
「美和。わたくしはもう行きます。この世を照らす太陽は、あまり長く一箇所に留まってはいられませんから」
立ち上がったお祖母様の後ろで、里美が音もなく扉を開ける。
店内を包んでいた黄金色の光が、ゆっくりと収束していく。
しかし、凍てつくような寒さが戻ることはなかった。
彼女が残した温もりは、鉄刀木のカウンターに、そして二人の心に、消えない火を灯していた。
「また来ますね、美和。次は……そう、桜が散る頃にでも」
扉が閉まり、真鍮のランタンの揺らぎが止まる。
店内には、再び静寂が戻った。
しかし、空気の中には微かにバニラの甘い香りと、真夏の太陽を思わせる温かな残り香が漂っている。
天は大きく息を吐き出し、カウンターに突っ伏した。
「……寿命が縮まる思いだったよ、美和さん」
「あら、天ちゃん。お祖母様に『良い顔になった』って褒められたじゃない。光栄に思いなさい?」
美和が、茶目っ気たっぷりに笑いながらお祖母様の使ったグラスを手に取った。
異色瞳が、満足げな光を湛えている。
「そうだね。……でも、やっぱり僕は、ここでお祖母様を迎えるより、君と二人でプレベを弾いている方が性に合っているよ」
天は手首の時計を見やった。
止まっていたように感じられた針は、再び正確に、日常という名の時間を刻んでいる。
「ふふ、それもそうね」
美和は、空になったグラスを丁寧に、慈しむように磨き始めた。
外では季節外れの雪が舞い始めていたが、Bar風花の店内だけは、どこまでも温かく、優しい光に満ちていた。
一羽の黄色い鳥が、夜明けの光の中へ羽ばたいていくような、そんな爽やかな希望の余韻を伴って。
あとがき
『イエローバード』をお読みいただきありがとうございます。
冷えた夜に、最高神が運んでくださる「この世の明るさ」。
美和のカクテルと、天の想い、そしてお祖母様の微笑み――
そんな神々しくも優しい一夜を書きました。
Bar風花のカウンターは、今日も少しだけ、太陽に照らされています。
またいつか、別のグラスで。
天照(Bar風花)




