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【Bar風花】第二章 美和さんの博多弁狂騒曲

【Bar風花 閑話】美和さんの博多弁狂騒曲


※本編とは完全に独立した、ゆるふわ狂騒曲です。

※戦闘も恋愛もありません。ただ、完璧バーテンダー・美和さんが突然博多弁を炸裂させた一夜。

※常連客の心臓と理性が次々と溶けていく、甘くて危険なカウンターをお届けします。


【プロローグ:春光に解けた呪文】


 風花町の朝は、いつも澄み切った静寂から始まる。

 櫻庭家のリビングに差し込む光は、磨き上げられたフローリングを琥珀色に染めていた。

 (あまね)が愛用のIWCマークXXを腕に巻き、取材の準備を整えていると、テレビのワイドショーから聞き慣れた響きが流れてきた。


『やっぱり最強! 博多弁女子の萌えゼリフランキング』


 画面の中では、都会に染まったはずのタレントが「~しとーと?」と首を傾げ、司会者が「たまらんばい!」と悶絶している。


「……天ちゃん」


 不意に名を呼ばれ、天が振り返ると、そこにはエプロン姿の美和(みわ)が立っていた。

 彼女の異色瞳が、いたずらっぽく、それでいて真剣な光を湛えて天を射抜く。


「うちが、博多弁で喋ったら……どげん思う?」


 天の喉が鳴った。

 飲もうとしていた八女茶が危うく逆流しかける。

 完璧な妻であり、凛としたバーテンダーである彼女が、自らのルーツである「言葉の鎧」を脱ごうとしている。


 「……それは、その……破壊力がありすぎるんじゃないかな、美和さん……」


 「あ〜ね〜。天ちゃんでも、そう思うっちゃね?」


 ふわりと、リビングに季節外れの桜の香りが舞った。

 それが、風花町の平穏な歴史が終わる合図だった。


 天が警戒の色を強める中、美和のワインレッドとアンバーの瞳が、一瞬だけ神聖な輝きを増した。

 それはまるで、彼女の頭上にひらめきが点灯したかのようだった。


「ふふん♪」


 美和は、完璧に磨き上げられた妻の仮面を脱ぎ捨てると、唇を猫口の形にすぼめてみせた。

 猫が獲物を追い詰めた時のような、可愛らしくも恐ろしい、小悪魔的な表情。


 天は思わず後ずさりした。

 左腕の腕時計が刻む秒針の音が、自身の心臓の鼓動と重なっていく。


(……美和さんの、あの顔は……僕がこれから、最も翻弄される『いたずら』を思いついた時の顔だ)


「天ちゃん。……今夜のBar風花、……ちかっぱ、楽しみにしちょってね?」


 猫口のまま囁かれたその声は、朝の光の中で、最も甘く、最も危険な予感を孕んでいた。



 

第一章 鉄刀木のカウンターと、最初の犠牲者


 十八時。

 『Bar風花』の重厚なオーク材の扉が開く。

 最初の客は、地元の工務店を営む常連の城島だった。

 彼はこの店の「静」を愛し、オーナーバーテンダー・美和の洗練された標準語の接客に、日々の喧騒を忘れて背筋を伸ばす時間を至福としていた。


「いらっしゃいませ、城島様」


 いつも通りの挨拶……のはずだった。


 城島が鉄刀木の一枚板のカウンターに座り、「いつもの、ジントニックを」と告げようとした瞬間、美和の口から衝撃の言葉が飛び出した。


「城島さん、お疲れ様。……今日は、なんば飲む?」


 城島の動きが止まった。

 グラスを拭く美和の手元は相変わらず完璧だが、その唇から零れたのは、筑後平野の土の匂いと、中洲の夜の華やかさが混ざり合った、至高の毒だった。


「……えっ?」


「外はちかっぱ寒かったやろう?まずは体の温まるもんから飲まんね? ……それとも、いつもの冷たかシュワっとしたとがよか?」


 美和はバカラのグラスを取り出し、水を注ぐとバースプーンで氷を回す。

 バースプーンがクリスタルに触れる「チリン」という音が、いつもより甘く響く。


「あ、あ……あ、ジ、ジントニックを……お願いします……」


 城島の語彙力は、その瞬間に蒸発した。

彼はただ、目の前で「~やん?」「~っちゃん」と微笑む美和の姿に、脳内の平穏を完全に破壊されていた。

 バーテンダーとしての気高い所作と、幼馴染のような親密な距離感を生む方言。

 そのギャップは、アルコールよりも速く、強く、男の理性を心地よく麻痺させていく。



 

第二章 琥珀色の沈黙と、伝播する狂気


 二十一時を過ぎる頃には、カウンターの七脚ある黒革のローチェアーは、六脚までが埋まっていた。

 しかし、店内は異様なほど静かだった。

 常連たちは皆、美和が発する一言一言を、一滴の雫も漏らさぬように聞き入り、そして静かに悶絶していた。


「……ですね〜、わかるバイ。……あ〜ね〜、それは大変やったね。……無理したらいかんよ?」


 美和がグラスを差し出すたびに、屈強な男たちが「うっ」と胸を押さえて俯く。

 彼女の放つ「博多弁」という名のビターズは、カクテルの味を何層にも深く、そして危険なほど甘く変質させていた。


「風花のオーナーが、あんな顔で笑うなんて……」


 隣の客が震える声で呟くが、誰もそれに反論しない。

 皆、この「奇跡の夜」の目撃者として、静かに酔いしれるしかなかった。


 ふと、入り口に近い客が、カウンターの最も左奥に目をやった。

 そこだけは、どんなに店が混み合おうとも、決して誰にも冒されない「空白」がある。

 使い込まれた鉄刀木の木目が最も美しく、照明がわずかに絞られたその席には、今日も『Reserved』の小さな真鍮プレートが誇らしげに置かれている。


 常連客は皆、知っている。

 そこが、この店の「太陽」である美和が、最も大切にしている場所であることを。

 そして、そこを埋めることができるのは、世界でたった一人の男だけであることを。



 

第三章 左奥の聖域、天ちゃんの帰還


 二十三時。

 扉の鈴が、いつもより控えめに鳴った。

 天が、冷たい夜気を纏って入ってくる。彼の左腕の腕時計は、正確にその刻を告げていた。


 「美和さん、お疲れ様。……なんだか、今日はお客さんがみんな……幸せそうな顔をして寝てるね」


 天の言葉通り、カウンターには幸せなトランス状態に陥った男たちが、静かにグラスを傾けたまま固まっていた。

 天はいつものように、店内の最深部、左奥の「指定席」へと向かう。


 彼が腰を下ろすと同時に、美和が真鍮のプレートをそっと下げた。

 そこにはもう、言葉は必要ない。


「天ちゃん、遅かったね。……ずっと待っとったっちゃよ」


 天の背筋に電撃が走った。

 カウンター越しに身を乗り出す美和の顔が、いつもより近い。

 ワインレッドとアンバーの瞳が、潤みを帯びて彼を見つめている。


「天ちゃんのために、とっておきのば開けといたとよ。……これ、ちかっぱ美味しかと。……飲むやろ?」


 彼女が差し出したのは、ザ・マッカラン 25年。

 琥珀色の液体がグラスの中で揺れる。


 天は、自身の自制心を総動員して耐えようとするが、美和の攻撃は止まらない。


 「なんね、その顔。……うちの博多弁、おかしか? ……あんまり見つめられると、恥ずかしかぁ……。……ねえ、天ちゃん。……うちのこと、……ちかっぱ好いとう?」


 沈黙が支配した。

 天は、鉄刀木のカウンターを強く握りしめる。


 「……美和さん」

 「……ん?」

 「……降参だ。もう、これ以上は……僕の心臓が持たない」


 天が降伏を宣言した瞬間、店内の常連客たちが、音を立てずに一斉に合掌した。

 彼らにとって、それは風花町の神話が、最も「甘い形」で完成した瞬間だった。



 

【エピローグ:藍の余韻】


 翌朝。

 櫻庭家のキッチンからは、いつも通りの「標準語」の会話が聞こえていた。


 「おはよう、天ちゃん。昨夜の売上、凄かったのよ。みんな何故か、高級な銘柄ばかり注文してくださって」


 エプロンを締め直す美和は、いつもの完璧な、そして凛とした妻に戻っていた。


 天は、少しだけ名残惜しそうに彼女を見つめる。


 「美和さん、今日は……もう博多弁じゃないんだね」


 美和は、天の前に朝食を置き、優しく微笑んだ。


 「ええ。あんなにみんながフラフラになっちゃうなんて、予想外だったわ。……あれは、魔法と一緒。多用すれば、この町の経済も、みんなの心臓も止まってしまうもの」


 美和は天の耳元に顔を寄せ、一瞬だけ、昨日の「余韻」を滑り込ませた。


 「……あれは、天ちゃんだけの特権にしておこうと思って。……ね、分かっとーと?」


 天の顔が、一瞬で茹で上がった。


 美和はケラケラと笑い、いつものように家事を進めていく。

 二人が穿いているカイハラデニムの藍色のように、その方言の余韻は、深く、静かに、櫻庭家の日常に染み込んでいった。


 たった一日だけの「博多弁事変」。

 それは、風花町の住人たちの記憶に、どんなヴィンテージ・ワインよりも芳醇な、そして「危険な」思い出として刻まれたのである。

あとがき


 『美和さんの博多弁狂騒曲』をお読みいただきありがとうございます。

 凛とした美和さんが猫口で「~やん?」「~ばい」と囁くだけで、店内が静かにパニックになる……

そんな破壊力満点のいたずらを、ありのままに書いてみました。  

 天ちゃんの降参と常連さんたちの合掌シーンが、一番好きです(笑)。

 またいつか、別のグラスで。


天照(Bar風花)


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