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6杯目 濁り酒〜桜吹雪の下での再会〜

『Bar風花-kazahana-』

桜の下の濁り酒


※独立した短編エピソードです

※春の桜・和の情景・静かな会話・心の疲れと優しい救いが好きな方向け

※激しい展開や大きな事件は一切ありません


とある日曜日の午後。

夫婦仲は最悪に近く、家に居場所のない彼は、ただ一服しようと外へ出た。


桜の満開の小道を歩き、懐かしい天満宮に足を運ぶうち、今まで気づかなかった小さな祠と、白い子狐に導かれるようにして、古い平屋の庭にたどり着く。


そこには満開の桜吹雪と、和服姿で静かに佇む美和さんがいた。


縁側で淹れられた八女のお茶と手作りの桜餅。

そして、宮下酒造「極聖」の純米大吟醸にごり酒を、江戸切子のぐい呑みで静かに酌み交わす。


言葉は少なく、ただ桜の花びらが舞い、酒の白さがゆっくりと減っていく。


美和さんの柔らかな一言が、彼の凍えていた心にそっと触れる。


Bar風花へ、ようこそ。

今日は、桜の下で、ほんの少しだけ休んでいきませんか。

 とある日曜日の午後、暇を持て余した彼は、近場をぶらついていた。


 子供たちはどこかへ遊びに出かけ、家には妻だけが残っている。

 夫婦仲は最悪に近い。今では必要最低限の言葉しか交わさない。

 元々折り合いが悪かったが、今回のUターン移住が決定打となり、互いに顔を合わせるのも億劫になっていた。


 午前中は何とか我慢していたものの、ギスギスとした空気に耐えきれず、一服がてら家を飛び出したのである。



 桜の満開の小道を歩きながら、彼はパイプに火を点けた。

 今日選んだのは、イギリスのDunhill社のローデシアン・ベント、銀巻きの優美な一本。

 煙草はDAN TOBACCO社のBlue Note。

 上品な甘みと、舌に優しく流れるスムーズな喫い心地が気に入っている。


 この時代、路上喫煙に厳しい視線が集まる都会とは違い、田舎のこのあたりでは誰も咎めない。

 畑では農作業の合間に腰を下ろした老夫婦が、のんびりとお茶を飲んでいる。

 そんな穏やかな風景を横目に、彼は足を進めていた。


 やがて、いつしか足は自然と地元の天満宮へと向かっていた。



 ここは古くから続く天満宮で、境内には樹齢何百年という巨大な楠が聳え立っている。

 子供の頃、彼はこの木の洞や枝を遊び場にしていた。

 懐かしい記憶に浸りながら参拝を済ませ、境内をゆっくり歩いていると、ふと視界の端に小さな別の祠が映った。


 今まで何度も来たはずなのに、なぜか今日初めて気づいたような気がする。

 何かに導かれるように、彼はその小さな神社へと近づいた。


 市の教育委員会が立てた小さな説明板があった。

そこにはこう記されていた。


 ――この社は、宮崎県の都萬神社より分霊されたもので、木花之佐久夜毘売命このはなのさくやびめのみことが祀られている。

 別名を酒解子神さかとけこのかみともいい、安産・子育ての神として信仰され、また酒の神としても知られる。

 古来、彼女は我が子にお乳の代わりに甘酒を醸して飲ませたという伝承があり……――


 彼は静かに手を合わせた。

 桜の花びらがひらひらと舞い落ちる中、どこか不思議な懐かしさと、言い知れぬ温かさが胸に広がった。


 せっかくだからと境内をさらに歩いてみると、神社の裏手に細い道が続いていることに気づく。

 木々に囲まれた、車が一台やっと通れるかどうかの小径。

 好奇心に駆られ、彼はそちらへ足を踏み入れた。


 道の先には狭い空き地があり、その奥に生け垣に囲まれた小さな和風の平屋が見えた。

 古びてはいるが、手入れが行き届いており、庭には大きな桜の木が満開に咲き誇っている。

 カーポートには小さな赤い小型自動車が停まり、春の日差しを浴びて柔らかく輝いていた。


 空き地の片隅には、たんぽぽが一面に咲く中、何か白いコロコロしたものが動いている。

 よく見ると、それはモンシロチョウとじゃれ合う、白い毛並みの小さな生き物だった。

 赤い首輪がアクセントになっている。

 一瞬、子犬かと思ったが――違う。

 それは紛れもなく、白い毛の子狐だった。


 あまりの愛らしさに、彼は思わず息を呑み、そっと近づいた。

 子狐は彼の気配に気づき、ぴたりと動きを止めてこちらを振り向く。

 黒い瞳が、まっすぐに彼を捉えた。


 そして、一声小さく鳴いた。


 「キュウ…」


 その声はどこか寂しげで、けれど優しく響いた。

 子狐はゆっくりと立ち上がり、平屋の方へ歩き出す。

 数歩進んでは振り返り、また彼の方を見て、もう一度鳴く。


 まるで「ついておいで」と言っているかのように。


 彼は一瞬戸惑った。

 理性では「こんなところで子狐に誘われるなんておかしい」とわかっていた。

 けれど、なぜか足が勝手に動き出していた。

 桜の花びらが肩に落ち、パイプの煙が細くたなびく中、彼は子狐の後を追った。


 平屋の玄関が、ゆっくりと近づいてくる――。


 重厚な茅葺きの長屋門を潜り抜けると、ひんやりとした空気が頬を撫で、足元の敷石が小さく音を立てた。

 外の喧騒が遠のき、まるで別の時が流れ始めたような静けさに包まれる。

 子狐は迷わず建物の右手にある庭の方へ歩き出した。 

 彼もまた、子狐の小さな背中を追うように庭へ足を踏み入れる。

  小径を数歩進むと、視界がぱっと開けた。

 そこは、満開の桜に支配された庭だった。

 頭上いっぱいに広がる桜の天蓋は、淡い桃色と白が混じり合い、午後の柔らかな光を受けてほのかに輝いている。

 一本、また一本と、太い幹を持つ古木の桜が庭の中央から奥へと連なり、その枝ぶりはまるで空に墨絵を描いたかのようだ。

 そして、そよ風が吹き抜けた瞬間――ふわり、と桜吹雪が舞い始めた。

 無数の花びらが、音もなく、しかし確かな存在感を持って空中を漂う。

 淡いピンクの小さな渦が庭全体をゆっくりと巡り、敷石の上、池の水面、蹲の縁石、石灯籠の傘に、静かに降り積もっていく。

 一枚の花びらが彼の肩にそっと落ち、すぐにまた風に運ばれて舞い上がる。

 もう一枚が頬をかすめ、冷たくも優しい感触を残した。 池の水面は桜の花びらで薄く覆われ、まるで一面の桃色の絨毯のように揺れている。

 対岸の石橋の上にも花びらが薄く積もり、橋を渡る誰かがいたなら、その足跡だけが一時的に桜色を消すだろう。 遠く母屋の方からは、かすかに三味線の音が聞こえてくるような気がした。

 いや、それは風の音と桜の擦れ合う音が織りなす、庭そのものの調べなのかもしれない。

  桜吹雪の中を歩くたび、花びらが肩や髪に降り注ぎ、まるでこの庭が彼を優しく迎え入れ、祝福しているかのようだった。

 一歩進むごとに、満開の桜と舞い散る花びらが視界を埋め尽くし、現実と夢の境界が、ほんの少しだけ溶けていく。


 そして――次の瞬間、息を呑んだ。


 舞い散る桜吹雪のなか、一人の女性が静かに佇んでいる。


 淡い桜色の地に繊細な花模様が浮かぶ、優雅な和服姿。

 長い黒髪が春風に揺れ、頰に落ちる花びらがまるで彼女の一部のように溶け込んでいる。


「え……美和さん……!?」


声が震えた。


 あの日以来、心の奥底に封じ込めていたはずの彼女が、そこにいた。

 現実とは思えないほど美しく、絵画のように完璧な光景。


 足元の白い子狐が、満足げに「キュウ」と一声鳴く。

まるで「お連れしましたよ、ご主人様」とでも言いたげに、得意げに尻尾を振った。


 美和さんはゆっくりとこちらを振り向き、春の陽だまりのような柔らかな笑みを浮かべた。


 「あら、お久しぶりです。本日はお散歩ですか?」


 その声は昔と変わらず、穏やかで優しい。

 彼は言葉に詰まり、夫婦仲の悪さや家に居場所がないことなど、とても口に出せなかった。

 ただもじもじと視線を逸らすばかり。


 彼女はそんな彼の様子を見て、くすりと小さく笑うと、


 「こうしてお会いできたのも、何かのご縁でしょう。せっかくだから、こちらでお茶でもいかがですか?」


 そう言って、縁側の方を優しく指差した。


 断る理由など見つからない。

 いや、むしろ断りたくなかった。

 促されるまま、彼は小さな縁側に腰を下ろした。


 「少しお待ちくださいね♪」


 美和さんは軽やかにそう言い残すと、足音も軽く家の中へ消えていった。

 その後ろ姿に、彼はぼんやりと見惚れる。

 桜の花びらが彼女の肩にそっと落ち、風に舞って消える。


 しばらくして、美和さんがお盆を抱えて戻ってきた。

 萩焼の素朴で美しい煎茶碗のセットと、小皿に盛られた桜餅。

 湯気がふわりと立ち上り、甘い香りが春の空気に混じる。


 慣れた手つきで湯を注ぎながら、彼女は微笑んだ。


「八女の星野村のお茶ですよ。香りが良くて、今日は特に美味しいんです♪」


 そう言って茶碗を差し出す。

 続けて、


 「こちらは私が作った桜餅です。お口に合えばいいのですが……」


 と、少し照れくさそうに小皿を置いた。


 二人はしばらく、桜の木を眺めながら無言でお茶を啜った。

 風が吹くたび、花びらがひらひらと舞い落ち、縁側に淡いピンクの絨毯を敷いていく。


 すると、美和さんがふと思い出したように顔を上げた。


 「あ、そうだ。せっかくだから、貴方にはこちらの方が合うかもしれませんね!」


 そう言うなり、またパタパタと小走りで部屋の奥へ消えてしまった。


 彼は茶碗を持ったまま、ぽかんとする。


 すると、足元の子狐と目が合った。

 子狐は「やれやれ、ご主人様は本当に仕方ないですねぇ……」とでも言いたげに、首をくらくらと振ってため息のような仕草を見せた。


 …妙に人間くさい子狐だな。


 彼は苦笑しながら、改めてお茶を一口。

 続いて桜餅を口に運ぶ。


 塩漬けの桜の葉のほのかな香りと、優しい甘さの餡が舌に広がった。

 手作りの温もりが、じんわりと胸に染みてくる。


 …彼女が作ったと思うと、余計に美味しい。


 もう一口、お茶を啜る。

 桜の花びらが一枚、茶碗の縁にそっと落ちた。


 美和さんが戻ってくる足音が、遠くから聞こえてくる――。


 

 少しすると、美和さんが一升瓶とお盆を抱えて戻ってきた。


 お盆の上には、繊細な江戸切子の片口酒器と、同じく切子のぐい呑みが二つ。

 そして小さな瑠璃色の小皿には、ほぐした鶏のささ身が彩りよく盛られている。


 彼女は彼のすぐ隣に、ふわりと膝を揃えて腰を下ろした。

 和服の裾が縁側に軽く広がり、桜の花びらがその上にもう一枚、そっと舞い落ちる。


 美和さんは一升瓶をそっと彼の方へ傾けてラベルを見せ、柔らかな声で言った。


 「せっかくですから、花見酒と洒落込みましょう♪

 お酒は宮下酒造の『極聖』純米大吟醸 にごり酒です。

 雄町米を50%まで磨いた、ちょっと珍しい一本ですよ」


 彼はラベルに目を落とし、かすかに頷いた。

 白く霞んだ瓶の中を、淡い光が通り抜けて揺れているのが見える。


 美和さんは子狐の方へ視線をやり、優しく微笑んだ。


 「はい、狐白にはこれね……」


 小皿を縁側にそっと置くと、子狐はきちんと前足を揃えて座り、

 嬉しそうに小さな舌でささ身をぱくぱくと食べ始めた。

 その無邪気で愛らしい仕草に、彼の口元が自然と緩む。


 美和さんは片口を手に取り、まず自分のぐい呑みに静かに注いだ。

 白く濁った液体が、切子の底に落ちるたび、

 小さな泡がふわふわと立ち上がり、すぐに消えていく。

 まるで桜の花びらが水面に落ちては溶けるような、儚い動きだった。


 続けて彼のぐい呑みにも、同じようにゆっくりと注ぐ。

 二つの切子が、淡い春の光を受けてきらきらと輝き、

 濁り酒の白さがより一層柔らかく、温かく見えた。


「――いただきます」


 美和さんが小さく呟き、両手でぐい呑みを包むように持ち上げる。

 彼もまた、無言で同じ仕草をした。


 二人は視線を合わせることなく、

 ただ同じタイミングで、そっと口元へ運んだ。


 最初の一口。


 舌の上に広がるのは、驚くほど柔らかな甘み。

 それでいて、米そのものの芯のある旨味がしっかりと残る。

 そして後から、ほのかな乳酸の酸味と、熟れた果実のような深みが追いかけてくる。

 濁りが喉を通るとき、かすかに温かく、

 まるで春の陽だまりを飲み込んだような感覚が胸の奥まで染みていった。


 美和さんは目を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。

 長い睫毛が一度だけ震え、

 頬に落ちていた桜の花びらが、彼女の吐息にのってふわりと舞い上がる。


 「……美味しい」


 それは誰かに聞かせるためではなく、

 ただ自分自身と、この瞬間とを確認するような小さな呟きだった。


 彼もまた、二口目を口に含んだ。

 今度は少し長く、舌の上で転がすように味わう。

 甘さと酸味と苦味が、ゆっくりと層を成しながら溶け合い、

 最後には米麹の優しい余韻だけが、静かに喉の奥に残った。


 桜吹雪が再び強く舞い、二人の肩と髪と、ぐい呑みの縁に降り注ぐ。

 切子の底で揺れる白い酒に、花びらが一枚、二枚と浮かび、

 まるで小さな桜の池のようになる。


 美和さんがもう一口飲んで、

 今度は小さく首を傾げ、彼の方をちらりと見た。


 「…どうでしょう?」


 彼は少し間を置いて、素直に答えた。


 「すごく……優しい味がする。

 なんだか、懐かしいような、初めてのような……」


 美和さんはくすりと笑い、

 「それがこのお酒のいいところなのかもしれませんね」

 と言って、再び自分のぐい呑みを口に運んだ。


 二人は言葉を少なく、

 ただ同じものを、同じ速度で味わい続けた。


 桜の木々が風に揺れるたび、花びらが音もなく降り、

 縁側の板に淡いピンクの模様を描いていく。


 狐白はささ身を少し残して、満足そうに丸くなって眠り始めた。


 ぐい呑みの中の濁り酒が、少しずつ減っていく。


 その白さが減るたびに、二人の間に流れる静かな時間がより濃く、より温かく感じられた。


 彼は心の中で、ただ一言だけ繰り返していた。


 ――この時間が、ずっと続けばいい…。ーー


 桜吹雪が止むことはなく、春の午後は、まだゆっくりと続いていく――。


 ふと目が合うと、美和さんは優しく、けれど少し悲しげに微笑んだ。


 「お辛そうですね…。お顔は笑っていても、心は泣いていらっしゃる…」


 彼は言葉を失った。


 「どうか、辛い時にはいつでも『風花』に来てください。

 バーは港。

 旅に疲れた船が体を休め、一時の安らぎを得て、次の旅へ出発する場所です。

  そしてバーテンダーは止まり木……『優しい止まり木』。

 ただの板じゃ、お酒を置く場所に過ぎない。

 でも、そこにバーテンダーがいるから、優しさが生まれるんです。」


 「私は、風花に来てくださった方が、少しでも元気になって帰ってほしいのです。

 酒は百薬の長……適量なら、どんな薬よりも効くと言われていますから……」


 静寂が辺りを包む。


 桜の花びらがひらひらと舞い落ち、ぐい呑みの縁にそっと乗る。


 彼の胸に、じんわりと温かいものが広がっていった。


 美和さんが空いた盃にそっと酒を注ぐ。

 

 彼はそれをグッと煽り、ようやく口を開いた。

 

 「…ありがとうございます。 貴女の言葉で、何だか少し救われた気がします。 また近い内に、元気を貰いに寄らせてもらいますよ……」


 美和さんはにっこりと笑い、悪戯っぽく目を細めた。


 「それは良かったです。でも、いくら百薬の長でも、飲み過ぎたら毒になりますからね♪」


  二人はどちらからともなく笑い出した。


  柔らかな笑い声が、満開の桜の下に優しく響く。


   子狐が食べ終わったささ身の皿をぺろりと舐め、満足げに「キュウ」と一声鳴いた。


  まるで「よかったね」とでも言うように、彼の足元で尻尾を軽く振る。


  彼はぐい呑みを傾けながら、心の中で静かに呟いた。


 …ああ、今はこの素晴らしい時間を、只々ゆっくりと味わおう…。


  家に帰るまでの、ほんの少しの間だけでも。


  桜の花びらが一枚、酒の表面に浮かび、ゆっくりと溶けていく。


   春風が優しく頰を撫で、遠くで鳥のさえずりが聞こえた。


  彼はもう一度盃を傾け、 美和さんの横顔をそっと胸に刻んだ。


  ――風花の扉は、いつでも開いている。

読んでくださってありがとうございます。


この話は、「疲れた人が、ふとした瞬間に優しい場所に辿り着く」そんな一場面を描きたかっただけです。


満開の桜吹雪、濁り酒の柔らかな白さ、子狐の小さな仕草、江戸切子のきらめき、そして美和さんの静かな言葉。


どれも派手ではないけれど、心が少しだけ軽くなるような、温かい瞬間を誰かの胸に残せていたら嬉しいです。


辛いとき、疲れたとき、「風花」の扉はいつでも開いています。


またいつか、桜の季節でも、秋の夜でも、ふらりと寄ってくれたら幸いです。


それでは、今日も良い一日を。


天照(Bar風花)

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