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5杯目 マンハッタンと、終わらない夜の続き

『Bar風花-kazahana-』

マンハッタンと、終わらない夜の続き


※独立した短編エピソードです

※バー・カクテル・音楽・本・パイプタバコ・静かな会話が好きな方向け

※激しい展開やドラマチックな告白はありません


開店したばかりの小さなバーで、時間はあっという間に溶けていく。


ジントニックからブルーマティーニ、ミモザ、そしてマンハッタンへ。

話題はカクテルから音楽、アニメ、本、パイプタバコまで尽きることがない。


美和さんは時折いたずらっぽく笑い、時折無邪気にはしゃぎ、時折プロの顔を見せる。


そして気づけば、時計の針はかなり進んでいるのに、「まだいてもいいんですよ……?」という柔らかい声が残る。


カウンター越しに交わされる、何気ないのにどこか特別な会話と一杯。


Bar風花へ、ようこそ。

今夜は、終わってほしくないような夜を。

第1章:年齢という名の秘め事

 楽しい時間は、本当にあっという間に過ぎていく。

 彼は二杯目のスパークリング・ブルー・マティーニを、美和は三杯目のミモザへ移りながら、二人の話題は尽きることなく続いていた。

 カクテルの技術的な話からBar業界の裏話、音楽の好みから好きなアーティストの思い出まで。会話のキャッチボールは、まるで長年の友人のように心地よいリズムで弾んでいく。

 その流れの中で、少しだけ彼女自身のことも聞き出すことができた。

 修業先は「全国のいくつものBar」とだけ。肝心な店名や修業の期間は、柔らかな微笑みとともにさらりとぼかされてしまった。だが、あの無駄のない所作と圧倒的な知識量を見れば、どれほど厳しい修業を積んできたかは一目瞭然だった。

(……この人、一体いくつなんだろう?)

 彼は純白のバーコートに身を包んだ彼女を見つめながら、遠回しに年齢を探ってみた。

 すると美和はグラスを傾けながら、いたずらっぽくヘテロクロミアの瞳を細めて見せた。

「女性に歳を聞くなんて、ダメですよぉ」

 ふんわりと柔らかい声で笑われながらも、きっぱりと、そしてやんわりとシャットアウトされた。

 ……完全に負けた。

 その見事なかわし方に、彼は苦笑するしかなかった。



 

第2章:紫煙とアニメーション

「私もパイプ、始めてみたいんです」

 美和がぽつりと言った瞬間、彼の脳裏に、自宅のキャビネットで死蔵している細身のピーターソン社製ベルジック型のパイプが思い浮かんだ。女性が初めて手にするには、ちょうどいいサイズ感と美しさを持っている。

「じゃあ、今度それ、プレゼントしますよ。必要な道具一式と、吸いやすい軽めの煙草の葉も一緒に」

 その言葉を聞いた途端、彼女の瞳がきらきらと輝いた。

「本当ですか!? やったー! 嬉しい!」

 カウンターの向こうで子供のようにはしゃぐ姿があまりにも可愛らしくて、こっちまでつられて笑ってしまった。

(よし、きちんとメンテナンスして、初めての人でも扱いやすいように準備しておこう)

 彼は密かに決意する。

 先ほどまで流れていたジャズアレンジの『ルパン三世のテーマ』が終わり、今は少しスローでムーディーな『FLY ME TO THE MOON』が店内に漂っている。

「私、実はアニメが大好きなんです」

 美和はミモザの入ったロブマイヤーのグラスを片手に、曲に合わせて小さく口ずさみ始めた。

 ……上手すぎる。

 音程は完璧に安定しており、声には甘い艶がある。プロの歌手かと錯覚するレベルの歌唱力だった。

「美和さん、アニメ好きだったんですね。……今度、一緒にカラオケ行きたいです」

 思わず口から出てしまった本音に、彼女はくすっと笑った。

「いいですよ。でも、私が歌いすぎて迷惑かけちゃうかも?」

 悪戯っぽく返してくるその表情に、彼はまたしても心を掴まれるのを感じていた。



 

第3章:エルフと女王様

 本の話になると、彼女の瞳はさらに輝きを増した。

 古典文学から現代小説、ライトノベルに至るまで、暇さえあれば活字を追っているらしい。彼もBarでパイプを燻らせながら読書をするのが好きだと伝えると、逆に質問が飛んできた。

「今、何を読んでるんですか?」

「実は今日、最新刊を持ってきているんですよね。異世界から日本に迷い込んだエルフの女の子と、青年の話の……」

 言い終わる前に、美和がカウンターから身を乗り出してきた。

「えっ、それ! 私、発売日に買いそびれてまだ読めてないんです! 貸してください! お願いします!」

 こんな超絶美人に懇願されて、断れる男がこの世にいるだろうか。

「もちろん。すぐ貸しますよ」

 そこで彼はハッと気づいた。

「……あ、でも僕、まだ読んでないけど……ま、いいか。櫻庭さんいいですか?」

「全然いいです! むしろ一緒に読みながら、感想を言い合いたいくらいです」

 彼女は目を細めて、心底嬉しそうに笑った。

「ヒロインのエルフの子、本当に可愛いですよね……。カツ丼食べちゃうシーンなんて、私も次の日、我慢できなくてカツ丼食べちゃいましたもん」

「……めっちゃ好きなんですね」

「大好きです!」

 その無邪気な笑顔を見ていると、なんだかこちらまでどうしようもなく幸せな気分になってくる。時計の針は容赦なく進んでいるのに、時間が止まってほしいと本気で願ってしまう夜だった。



第4章:琥珀の女王

「本を貸していただいたお礼に、何か一杯ごちそうしますね」

 美和が満面の笑みを浮かべてそう言った瞬間、彼女の瞳が嬉しさでキラキラと輝いているのがわかった。

「じゃあ、せっかくだから……マンハッタンをお願いできますか?」

「おっ、カクテルの王様の次は、女王様ですか! 嬉しいオーダーですね。腕が鳴りますよぉ」

 ウキウキと弾んだ声で、美和はすぐに準備に取り掛かった。

 まず、バーマットの上に二つのボトルを丁寧に並べる。

「ウイスキーはワイルドターキー・ライを、ベルモットはカルパノ・アンティカ・フォーミュラを選ばせていただきました」

 彼女はそれぞれのボトルの特徴を嬉しそうに語り始めた。

「ターキーのライは甘さ控えめなんですけど、しっかりとしたライ麦らしいスパイシーな香りが特徴なんです。そしてカルパノは昔ながらの製法で作られた、ベルモットの王様とも呼ばれる一本です。香りと甘みのバランスが抜群で、コクもあるからマンハッタンにはぴったりだと思います」

 次に、ミキシンググラスとロブマイヤーの美しいカクテルグラスを取り出す。

 マラスキーノ・チェリーにカクテルピンを刺し、小皿にそっと置いた。

 ミキシンググラスに氷をぎっしりと詰め、ミネラルウォーターを少し注いで素早くステアする。グラス全体を極限まで冷やすための、神聖な儀式のような手つきだ。

 十分に冷えたところで水を切り、アロマティックビターズをワンダッシュ振り入れる。そして、メジャーカップは使わず、直感と経験だけでウイスキーとベルモットを注ぎ入れた。

 流れるような滑らかな動きでステアを繰り返す。

 最後に、ストレーナーを通して静かにカクテルグラスへ注ぎ、チェリーを沈めて完成させた。

「お待たせしました。マンハッタンです」

 濃い琥珀色の液体が、薄張りのグラスの中で静かに揺れている。

 一口、含む。

 ……正直、言葉を失うほど美味しかった。

 ライウイスキーの骨太なスパイシーさと、ベルモットの甘苦い重厚なハーモニー。ビターズのアクセントが絶妙に絡み合い、喉を通るたびに胸の奥がじんわりと温かくなる。

 揺るぎない、完璧な女王の風格だった。



 

第5章:春の夜風と再会の約束

 ふと腕時計を見ると、かなり長居してしまっていた。

 名残惜しいが、そろそろお開きにしようと会計をお願いする。

「まだ、いてもいいんですよ……?」

 美和が少し寂しそうに、引き留めるような柔らかい声で言ってくれた。

 でも、これ以上居座るのは無粋というものだろう。彼が笑顔で首を振ると、彼女はすぐに小さな伝票を持って戻ってきた。

 財布を開いて金額を見た瞬間、彼は思わず固まった。

 ……え? 安すぎないか?

 あの酒のラインナップとアンティークグラスの数々だ。少なくとも一万円札は軽く飛ぶ覚悟をしていたのに、まさかお釣りが来るなんて。

「これ……安くないですか?」

 そう言うと、美和はあっさりと笑った。

「いいんですよ。じゃあ、また来てくださいね。……大歓迎しますから」

 お釣りを差し出しながら、彼女は悪戯っぽく右目でウィンクした。

「ありがとうございましたぁ」

 店の外まで見送りに出てくれた美和に、軽く手を振る。

 彼女は最後まで笑顔で、彼の姿が角を曲がり見えなくなるまで、路地の奥でずっと見送ってくれていた。

 ほろ酔いの身体に、桜の香りをかすかに含んだ春の夜風が心地よく頰を撫でていく。

 ……ふと、財布に残ったお釣りの重みを指先で感じた。

 あのクオリティでこの値段は、商売としては明らかに間違っている。

 だが、彼女が浮かべたあの悪戯っぽい笑みを思い出すと、それが彼女なりの『また来てください』という切実な願いのようにも思えて、彼は夜の闇の中で一人、小さく苦笑した。

 ……ああ、今日は本当に素晴らしい夜だった。

 素晴らしいカクテルと、素晴らしいバーテンダーに出会えた。

 あの鉄刀木のカウンターの向こうで微笑む美和の姿が、どうしても頭から離れない。

 この出会いが、これからもずっと続いていくことを、心から願いながら。

 彼はゆっくりと、星の瞬く夜道を家路についた。

読んでくださってありがとうございます。


この話は、「ただただ心地よい時間が過ぎていく夜」をそのまま切り取ってみたかっただけの一場面です。


カクテルが一杯ずつ変わっていくように、会話も少しずつ深まって、笑ったり、照れたり、ときどき本気で驚いたり。


美和さんの無邪気な笑顔と、さりげないプロの技と、

「また来てくださいね♪」という言葉が、この夜の全部を象徴している気がします。


読んだ後に、誰かのカウンターにふらっと行きたくなるような、そんな余韻が少しでも残っていたら嬉しいです。


またいつか、このバーに寄ってくださいね。

次はどんな一杯と、どんな会話が待っているのか——私にもまだわかりません。


それでは、今夜も良い夜を。


天照(Bar風花)

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