【Bar風花】第二章 天ちゃんと美和さんの1日〜朝〜
【Bar風花】第二章 天ちゃんと美和さんの1日 朝
※本編とは完全に独立した、ほんのり甘い日常回です。
※戦闘も恋愛の進展もありません。ただ、夫婦の穏やかな朝だけ。
神社の裏手にある平屋で始まる、櫻庭天と美和の春の朝。
ふかふかの布団、キッチンの生活音、庭のハーブ摘み――
夜のBar風花では見せない、二人の「ただの人間夫婦」な時間をお届けします。
風花町の澄んだ朝の空気が、神社の裏手にある平屋を優しく包み込んでいる。
寝室に差し込む柔らかな春の陽光が、最近新調されたばかりの、ふかふかのダブルサイズの布団を白く照らしていた。
かつては「お互いの睡眠を邪魔しないように」と別々に敷かれていた布団は、いつの間にか一つに繋がり、今では当然のように二人を包む大きな繭となっている。
先に目を覚ましたのは、美和だった。
彼女は、自分の腰にしっかりと回された櫻庭天の腕の重みを心地よく感じながら、そっと身をよじる。
寝乱れた黒髪の間から覗くワインレッドとアンバーの瞳が、無防備な寝顔を晒す愛しい夫を捉え、柔らかく細められた。
(……本当に、子供みたいな顔をして寝るんだから)
櫻庭美和は、天の額にかかった前髪を指先でそっと払い、その無精髭の生えかけた頬に、そして最後に唇に、小鳥が啄むような優しいキスを落とした。
「……ん。……おはよう、美和さん」
「おはよう、天ちゃん。……朝よ。いつまで私の温もりを独り占めしているつもり?」
微睡みの中で自分を抱き寄せようとする夫の腕を、美和はクスリと笑ってすり抜ける。
一日の中で最も無防備で、最も甘い、櫻庭家の朝の幕開けだ。
十五分後。
リビングのソファには、すっかり「ルポライターの顔」の欠片を取り戻した天が座っていた。
彼の手には、艶消しの黒いiPad Pro。Nano-textureガラスの画面を滑る指先は、世界中のニュースや、風花町周辺の細かな出来事を的確に拾い上げている。
だが、彼の耳の半分は、キッチンから聞こえてくる「心地よい生活音」に向けられていた。
卵を割る音、ベーコンがフライパンで跳ねる微かな破裂音、そして、深煎りのコーヒーがドリップされる芳醇な香り。
美和が刻むリズミカルな包丁の音は、夜のBarで見せる氷を削る冷徹な音とは違う、温かな愛情に満ちた音霊だ。
「天ちゃん、ご飯よ。今日のニュースは何か面白いことあった?」
「いや、世界は今日も相変わらずだよ。……でも、僕の世界は、君が淹れてくれたコーヒーの香りで最高に平和だけどね」
「もう、朝から調子のいいこと言って」
二人はリビングのテーブルに向かい合った。
トーストの焼ける香ばしい匂いと、彩り豊かなサラダ。
絶対的な財力を持つ皇グループの令嬢でありながら、美和が作る朝食は驚くほど地に足が着いていて、家庭的だ。
天は、美和が焼いた目玉焼きを器用にパンに乗せながら、彼女の顔を愛おしそうに眺める。
「……美味しい。やっぱり、一日の始まりは美和さんのご飯じゃないとね」
「ふふ、お粗末様。……ほら、口の端にパン屑がついてるわよ、ルポライター先生」
美和が身を乗り出し、天の口元を指先で優しく拭う。
神々としての途方もない寿命から見れば、ほんの一瞬にも満たない朝のひととき。
しかし二人にとって、この「ただの人間夫婦」としてテーブルを囲み、些細なことで笑い合う時間こそが、何にも代えがたい永遠の価値を持っていた。
朝食を終え、二人は連れ立って庭へと出た。
そこは、四季を問わず桜が咲き誇り、色鮮やかな柑橘類がたわわに実る、この平屋だけが持つ不思議な空間。
「天ちゃん、あそこの少し高いところにあるオレンジ、採ってくれる? 今夜の『サイドカー』のガーニッシュ(飾り)に使いたいから」
「了解。……ミントの葉は、このあたりの柔らかいところを摘んでおけばいいかな?」
「ええ。モヒートの香りが引き立つように、優しく摘んでね」
天は使い慣れた剪定鋏を手に、枝を整えながら果実を収穫していく。
重い籠を持つのは、当然のように彼の役目だ。
美和は朝の光を浴びながら、夜のBar風花で客に出すカクテルのインスピレーションを膨らませ、丁寧にハーブを選別している。
「……ねえ、天ちゃん」
「ん?」
「こうして二人で庭の手入れをしていると、なんだかずっと昔から……それこそ、神話の時代からこうしていたような気がしてくるわね」
朝露に濡れたミントの葉を手のひらに乗せ、美和が穏やかに微笑む。
天は収穫したばかりのオレンジを籠に置き、彼女の隣に並んで立った。
「僕たちは、神話の時代には上手く結ばれなかったからね。……だから、今こうして、美和さんと一緒に布団から起きて、ご飯を食べて、庭の手入れをする。この『当たり前の日常』が、僕にとっては奇跡なんだよ」
春の風が桜の花びらを舞い上げ、二人の間を通り抜けていく。
夜の『Bar 風花』という洗練された大人の舞台は、この朝の、のんびりとした、けれど確かな愛情に満ちた庭仕事から始まっているのだ。
あとがき
『天ちゃんと美和さんの1日 朝』をお読みいただきありがとうございます。
夜は洗練されたバーテンダー、朝は普通の奥さん。
そんな美和と、甘えん坊な夫・天の、ほんわかした日常を短く書きました。
Bar風花のカウンターの裏側にある、こんな朝が実は一番好きです。
またいつか、別の時間でお会いしましょう。
天照(Bar風花)




