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5杯目 マンハッタン

5杯目。

氷はもうほとんどなくなり、グラスの中は静かに、ただ色だけが残っている。

言葉も、飾りを落として、生の温度だけがカウンターに伝わってくる。

今夜は、もう少し深くまで付き合おうか。

 楽しい時間は本当にあっという間に過ぎていく。


 彼は2杯目のブルーマティーニを、美和さんはミモザを3杯目に移しながら、話題が尽きることなく続いていた。


 カクテルの話からバーの裏話へ、音楽の好みから好きなアーティストの思い出まで……。


 少しだけ、彼女自身のことも聞くことができた。


 修行先は「全国のいくつものバー」とだけ。

 肝心な店名や期間はさらりとぼかされてしまったけれど、それでも相当な修業を積んできたことは伝わってくる。


 …この人、一体何歳なんだろう?


 遠回しに年齢を尋ねてみたところ、美和さんはグラスを傾けながら、いたずらっぽく目を細めて言った。


 「女性に歳を聞くなんて、ダメですよ〜♪」


 柔らかい声で笑われながらも、きっぱりやんわりとシャットアウトされた。


 …完全に負けた。



 「私もパイプ、始めてみたいんです」


 美和さんがぽつりと言った瞬間、彼は思わず死蔵していた細身のピーターソン社のベルジック型のパイプを思い浮かべていた。


 「じゃあ、今度それ、プレゼントしますよ。必要な道具一式と、吸いやすい軽めのタバコも一緒に」


 その言葉を聞いた途端、彼女の目がきらきらと輝いた。


 「本当ですか!? やったー! 嬉しい!」


 子供のようにはしゃぐ姿があまりにも可愛くて、こっちまでつられて笑ってしまった。


 よし、ちゃんとメンテナンスして、初めての人でも扱いやすいように準備しておこう。



 先ほどまで流れていたのはジャズアレンジの「ルパン三世のテーマ」。


 今は少しスローでムーディーな「FLY ME TO THE MOON」が店内に漂っている。


 「私、実はアニメが大好きなんです」


 美和さんはミモザの入ったフルートグラスを片手に、曲に合わせて小さく口ずさみ始めた。


 …上手すぎる。


 音程も安定していて、声に艶がある。プロの歌手かと錯覚するレベルだ。


 「美和さん、アニメ好きだったんですね…今度一緒にカラオケ行きたいです」


 思わず口から出てしまった本音に、彼女はくすっと笑って


 「いいですよ〜。でも私が歌いすぎて、迷惑かけちゃうかも?」


 と、悪戯っぽく返してきた。



 本の話になると、彼女の目がまた輝きだした。


 古典文学から現代小説、ライトノベルまで、暇さえあれば読むらしい。


 彼もバーでパイプを燻らせながら本を読むのが好きだと伝えたら、逆に


 「今、何を読んでるんですか?」


 と聞き返された。


 「実は今日、最新刊持ってきてるんですよね。異世界から日本に迷い込んだエルフの女の子と青年の話の…」


 言い終わる前に、美和さんが身を乗り出してきた。


 「えっ、それ! 私、発売日に買いそびれてまだ読めてないんです! 貸してください! お願いします!」


 超絶美人の懇願を前にして、断れるわけがない。


 「もちろん。読み終わったらすぐ貸しますよ」


 「…あ、でも僕まだ読んでないんですけど…いいですか?」


 「全然いいです! むしろ一緒に読みながら感想言い合いたいくらいです♪」


 彼女は目を細めて嬉しそうに笑った。


 「ヒロインのエルフの子、本当に可愛いですよね…カツ丼食べちゃうシーンなんて、私も次の日カツ丼食べちゃいましたもん♪」


 「…めっちゃ好きなんですね」


 「大好きです!」


 その無邪気な笑顔を見ていると、なんだかこっちまで幸せな気分になってくる。


 時計の針は容赦なく進んでいるのに、時間が止まってほしいと本気で思った夜だった。


 

 「本を貸して頂いたお礼に、何か1杯ごちそうしますね♪」


 美和さんが満面の笑みを浮かべてそう言った瞬間、彼女の瞳が本当に嬉しそうに輝いているのがわかった。


 「じゃあ、せっかくだから…マンハッタンをお願いできますか?」


 「おっ、カクテルの王様の次は女王様ですか! 嬉しいオーダーですね♪ 腕が鳴りますよ〜♪」


 ウキウキと弾んだ声で、美和さんはすぐに準備に取り掛かった。


 まず、バーマットの上にボトルを丁寧に並べる。


 「ウィスキーはワイルドターキー ライを、ベルモットはカルパノ・アンティカ・フォーミュラを選ばせていただきました」


 「ターキーのライは甘さ控えめだけど、しっかりとしたライらしいスパイシーな香りが特徴なんです♪」


 「カルパノは昔ながらの製法で作られた、ベルモットの王様とも呼ばれる一本。香りと甘みのバランスが抜群で、コクもあるからマンハッタンにはぴったりだと思います♪」


 次に、ミキシンググラスとロブマイヤーの美しいカクテルグラスを取り出す。


 マラスキーノ・チェリーにカクテルピンを刺し、小皿にそっと置いた。


 ミキシンググラスに氷をぎっしり詰め、ミネラルウォーターを少し注いで素早くステア。

 グラス全体を冷やすための儀式のような手つきだ。


 十分に冷えたところで水を切り、アロマティックビターズを1ダッシュ。


 そして、メジャーカップを使わず、直感でウィスキーとベルモットを注ぎ入れる。

 流れるような動きでステアを繰り返す。


 最後に、静かにカクテルグラスへ注ぎ、チェリーを沈めて完成。


 「お待たせしました。マンハッタンです♪」


 濃い琥珀色の液体が、グラスの中で静かに揺れている。一口含むと…。


 …正直、めちゃくちゃ美味しい。


 ライのスパイシーさとベルモットの甘苦いハーモニー、ビターズのアクセントが絶妙に絡み合い、喉を通るたびに体が温かくなる。完璧だった。



 時計を見ると、かなり長居してしまっていた。

 そろそろお開きにしようと、会計をお願いする。


 「まだいてもいいんですよ……?」


 美和さんが少し名残惜しそうに、柔らかい声で言ってくれた。


 でも、これ以上居座るのは違うだろう。

 笑顔で首を振ると、彼女はすぐに小さな伝票を持って戻ってきた。


 財布を開いて金額を見た瞬間、思わず固まった。


 …え? 安すぎない?


 少なくとも一万円札は軽く飛ぶ覚悟をしていたのに、まさかお釣りが来るなんて。


 「これ…安くないですか?」


 そう言うと、美和さんはあっさりと笑って


 「いいんですよ〜。じゃあ、また来てくださいね♪ 大歓迎しますから♪」


 とお釣りを差し出しながら、悪戯っぽくウィンクした。



 「ありがとうございました〜♪」


 店の外まで見送りに出てくれた美和さんに、軽く手を振る。


 彼女は最後まで笑顔で、彼の姿が角を曲がり見えなくなるまで見送っていてくれた。


 夜道をのんびり歩き出す。

 ほろ酔いの体に、秋の夜風が心地よく頰を撫でていく。


 …ああ、今日は本当に素晴らしい夜だった。


 素晴らしいカクテルと、素晴らしいバーテンダーさんに会えた。


 あのカウンターの向こうで微笑む美和さんの姿が、頭から離れない。


 この出会いが、これからもずっと続いていくことを、心から願いながら。


彼はゆっくりと、家路についた。

5杯目、お疲れさま。

ここまで来ると、もう嘘をつくのも疲れるよね。

それでいい。

この店は、そういう夜のためにあるんだから。また次も、そのままの君で来てくれれば嬉しい。

ゆっくりおかえり。

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