5杯目 マンハッタン
5杯目。
氷はもうほとんどなくなり、グラスの中は静かに、ただ色だけが残っている。
言葉も、飾りを落として、生の温度だけがカウンターに伝わってくる。
今夜は、もう少し深くまで付き合おうか。
楽しい時間は本当にあっという間に過ぎていく。
彼は2杯目のブルーマティーニを、美和さんはミモザを3杯目に移しながら、話題が尽きることなく続いていた。
カクテルの話からバーの裏話へ、音楽の好みから好きなアーティストの思い出まで……。
少しだけ、彼女自身のことも聞くことができた。
修行先は「全国のいくつものバー」とだけ。
肝心な店名や期間はさらりとぼかされてしまったけれど、それでも相当な修業を積んできたことは伝わってくる。
…この人、一体何歳なんだろう?
遠回しに年齢を尋ねてみたところ、美和さんはグラスを傾けながら、いたずらっぽく目を細めて言った。
「女性に歳を聞くなんて、ダメですよ〜♪」
柔らかい声で笑われながらも、きっぱりやんわりとシャットアウトされた。
…完全に負けた。
◆
「私もパイプ、始めてみたいんです」
美和さんがぽつりと言った瞬間、彼は思わず死蔵していた細身のピーターソン社のベルジック型のパイプを思い浮かべていた。
「じゃあ、今度それ、プレゼントしますよ。必要な道具一式と、吸いやすい軽めのタバコも一緒に」
その言葉を聞いた途端、彼女の目がきらきらと輝いた。
「本当ですか!? やったー! 嬉しい!」
子供のようにはしゃぐ姿があまりにも可愛くて、こっちまでつられて笑ってしまった。
よし、ちゃんとメンテナンスして、初めての人でも扱いやすいように準備しておこう。
◆
先ほどまで流れていたのはジャズアレンジの「ルパン三世のテーマ」。
今は少しスローでムーディーな「FLY ME TO THE MOON」が店内に漂っている。
「私、実はアニメが大好きなんです」
美和さんはミモザの入ったフルートグラスを片手に、曲に合わせて小さく口ずさみ始めた。
…上手すぎる。
音程も安定していて、声に艶がある。プロの歌手かと錯覚するレベルだ。
「美和さん、アニメ好きだったんですね…今度一緒にカラオケ行きたいです」
思わず口から出てしまった本音に、彼女はくすっと笑って
「いいですよ〜。でも私が歌いすぎて、迷惑かけちゃうかも?」
と、悪戯っぽく返してきた。
◆
本の話になると、彼女の目がまた輝きだした。
古典文学から現代小説、ライトノベルまで、暇さえあれば読むらしい。
彼もバーでパイプを燻らせながら本を読むのが好きだと伝えたら、逆に
「今、何を読んでるんですか?」
と聞き返された。
「実は今日、最新刊持ってきてるんですよね。異世界から日本に迷い込んだエルフの女の子と青年の話の…」
言い終わる前に、美和さんが身を乗り出してきた。
「えっ、それ! 私、発売日に買いそびれてまだ読めてないんです! 貸してください! お願いします!」
超絶美人の懇願を前にして、断れるわけがない。
「もちろん。読み終わったらすぐ貸しますよ」
「…あ、でも僕まだ読んでないんですけど…いいですか?」
「全然いいです! むしろ一緒に読みながら感想言い合いたいくらいです♪」
彼女は目を細めて嬉しそうに笑った。
「ヒロインのエルフの子、本当に可愛いですよね…カツ丼食べちゃうシーンなんて、私も次の日カツ丼食べちゃいましたもん♪」
「…めっちゃ好きなんですね」
「大好きです!」
その無邪気な笑顔を見ていると、なんだかこっちまで幸せな気分になってくる。
時計の針は容赦なく進んでいるのに、時間が止まってほしいと本気で思った夜だった。
◆
「本を貸して頂いたお礼に、何か1杯ごちそうしますね♪」
美和さんが満面の笑みを浮かべてそう言った瞬間、彼女の瞳が本当に嬉しそうに輝いているのがわかった。
「じゃあ、せっかくだから…マンハッタンをお願いできますか?」
「おっ、カクテルの王様の次は女王様ですか! 嬉しいオーダーですね♪ 腕が鳴りますよ〜♪」
ウキウキと弾んだ声で、美和さんはすぐに準備に取り掛かった。
まず、バーマットの上にボトルを丁寧に並べる。
「ウィスキーはワイルドターキー ライを、ベルモットはカルパノ・アンティカ・フォーミュラを選ばせていただきました」
「ターキーのライは甘さ控えめだけど、しっかりとしたライらしいスパイシーな香りが特徴なんです♪」
「カルパノは昔ながらの製法で作られた、ベルモットの王様とも呼ばれる一本。香りと甘みのバランスが抜群で、コクもあるからマンハッタンにはぴったりだと思います♪」
次に、ミキシンググラスとロブマイヤーの美しいカクテルグラスを取り出す。
マラスキーノ・チェリーにカクテルピンを刺し、小皿にそっと置いた。
ミキシンググラスに氷をぎっしり詰め、ミネラルウォーターを少し注いで素早くステア。
グラス全体を冷やすための儀式のような手つきだ。
十分に冷えたところで水を切り、アロマティックビターズを1ダッシュ。
そして、メジャーカップを使わず、直感でウィスキーとベルモットを注ぎ入れる。
流れるような動きでステアを繰り返す。
最後に、静かにカクテルグラスへ注ぎ、チェリーを沈めて完成。
「お待たせしました。マンハッタンです♪」
濃い琥珀色の液体が、グラスの中で静かに揺れている。一口含むと…。
…正直、めちゃくちゃ美味しい。
ライのスパイシーさとベルモットの甘苦いハーモニー、ビターズのアクセントが絶妙に絡み合い、喉を通るたびに体が温かくなる。完璧だった。
◆
時計を見ると、かなり長居してしまっていた。
そろそろお開きにしようと、会計をお願いする。
「まだいてもいいんですよ……?」
美和さんが少し名残惜しそうに、柔らかい声で言ってくれた。
でも、これ以上居座るのは違うだろう。
笑顔で首を振ると、彼女はすぐに小さな伝票を持って戻ってきた。
財布を開いて金額を見た瞬間、思わず固まった。
…え? 安すぎない?
少なくとも一万円札は軽く飛ぶ覚悟をしていたのに、まさかお釣りが来るなんて。
「これ…安くないですか?」
そう言うと、美和さんはあっさりと笑って
「いいんですよ〜。じゃあ、また来てくださいね♪ 大歓迎しますから♪」
とお釣りを差し出しながら、悪戯っぽくウィンクした。
◆
「ありがとうございました〜♪」
店の外まで見送りに出てくれた美和さんに、軽く手を振る。
彼女は最後まで笑顔で、彼の姿が角を曲がり見えなくなるまで見送っていてくれた。
夜道をのんびり歩き出す。
ほろ酔いの体に、秋の夜風が心地よく頰を撫でていく。
…ああ、今日は本当に素晴らしい夜だった。
素晴らしいカクテルと、素晴らしいバーテンダーさんに会えた。
あのカウンターの向こうで微笑む美和さんの姿が、頭から離れない。
この出会いが、これからもずっと続いていくことを、心から願いながら。
彼はゆっくりと、家路についた。
5杯目、お疲れさま。
ここまで来ると、もう嘘をつくのも疲れるよね。
それでいい。
この店は、そういう夜のためにあるんだから。また次も、そのままの君で来てくれれば嬉しい。
ゆっくりおかえり。




