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44杯目 億劫の抱擁

【Bar風花 -kazahana-】44杯目 億劫の抱擁


※Bar風花シリーズ第44杯目です。

※これまでの穏やかな日常系・お酒の話から、一転して神話・転生・神と人の愛がテーマのシリアスファンタジー展開となります。ジャンルチェンジにご注意ください。

※本編のこれまでの話を読んでいるとより深く楽しめます。


 神楽が止まり、桜が凍りつく夜。

 ヘテロクロミアの瞳から零れ落ちる神の涙。

 そして、天から降り注ぐ天照大御神の声——。


 「記憶をすべて散らせ。一人の男と女として、再び出会い直せ」


 数千年の想いが、究極の選択を迫られる。

 僕と美和さんの、永遠と刹那の狭間。


 Bar風花へようこそ。

 今夜は、カウンターの向こうではなく、神話の桜の下でお待ちしています。

 どうぞ、覚悟を決めてお付き合いください。

 神楽が、止まった。


 降りしきる花びらが、重力から解き放たれたように宙を舞い、静かに、静かに、地に積もる。


 美和さんは、巫女服の肩を震わせ、立ち尽くしていた。


 ヘテロクロミアの瞳から、大粒の雫が零れ落ちる。


 それは神の涙であり、同時に、ずっとずっと一人で耐えてきた、か弱い一人の女性の涙だった。


「……本当に、思い出したのね……」


 掠れた声。


 僕は、彼女を奪い取るように、その細い体を腕の中に閉じ込めた。


 「遅すぎた……。ごめん、美和さん……いや、お姉ちゃん。ずっと、ずっと一人にさせて……」


 美和さんの体は、驚くほど冷えていた。


 いや、僕の体温が、彼女にとっては熱すぎるのかもしれない。


 彼女は、僕の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣き始めた。


 数千年の沈黙を、すべて吐き出すかのような、激しい慟哭。


 「怖かった……。今度こそ、貴方が私のことを思い出さずに、そのままどこかへ行ってしまうんじゃないかって。このBarで、ただのお客さんとして、私を置いていってしまうんじゃないかって……」


 「行かない。もう、どこへも行かないよ……」


 僕は、彼女の髪を、背中を、何度も何度も撫でた。


 僕は決意する。


 この夜が明けたら、僕はすべてを捨てる。


 地位も、名誉も。


 一人の男として、彼女の隣に立つ資格を得るために。


 「美和さん。僕は、人間としてのケリをつけてくる。貴方が待ってくれた数千年に比べれば、僕の一生なんて短いけれど。でも、その残りのすべてを、貴方に捧げる」


 美和さんは、涙に濡れた瞳を上げ、僕をじっと見つめた。


 右のワインレッドと、左の琥珀。


 その瞳が、僕を射抜く。


 「……信じていいの? 彼さん。私は神よ。貴方の人生なんて、私にとっては瞬きのようなもの。それでも、私を愛してくれるの?」


 「瞬きでいい。その瞬きの一瞬一瞬に、僕のすべてを刻み込むから」


 月明かりの下、僕たちは再び強く抱き合った。


 巨大な桜の木が、二人の頭上で優しく枝を揺らす。


 風花町の夜に、奇跡の桜が舞い落ちる。


 もう、雨は降っていない。


 僕たちの前には、永遠に続く、ただ一つの「春」が広がっていた。



 

 抱き合う二人の頭上で、狂い咲いていた桜が不自然なほど静止した。


 風が止まり、舞い落ちる花びらが空中で凍りつく。


 夜の闇が、墨を流したような漆黒から、神々しいまでの「黄金の無」へと塗り替えられていった。


 次元が、軋みを上げて変質していく。


 「……咲耶……久しいな……」


 天から降り注いだのは、声というよりも「光の礫」だった。


 彼の腕の中で、美和さんの体が強張る。


 彼女は震える手で彼を庇うように一歩前に出ると、その場に深く膝を突いた。


 「……日ノ神、天照大御神様……」


 彼が見上げた先、桜の樹冠を突き破るようにして、一柱の存在が顕現していた。


 姿は定かではない。


 ただ、太陽を直視した時のような、網膜を焼く烈火の輝き。


 その中心に、すべての生命の根源たる慈愛と、一切の妥協を許さぬ厳格さを併せ持つ「意志」が宿っている。


 「数千の春を数え、なおその人の子に執着するか。お前は神界の均衡を乱し、この地の理を歪めている」


 天照大御神の声が響くたび、周囲の空間が震え、彼の鼓膜に鋭い痛みが走る。


 美和さんは項垂れたまま、しかし毅然と答えた。


 「はい。この御方の魂だけは、何度輪廻を重ねようと、私の元へ帰ってくるよう結んで参りました。それが罪だと言うのなら、どのような罰でも受け入れます」


 「罰ではない……」


 光の塊が、ゆっくりと地上へ降りてくる。


 「咲耶よ、お前は木花咲耶姫。命の短さと引き換えに、桜のごとき美しさを世に知らしめる者。だが、この男は『人』だ。お前がその手で抱きしめれば、その熱量でお前の神性は摩耗し、やがて消滅する。あるいは、この男を神域に引き込めば、男は人としての魂を失い、影のごとき眷属となり果てる。……どちらにせよ、そこに『愛』と呼べる形は残らぬ」


 天照大御神の視線が、彼を射抜いた。


 魂の底まで見透かされるような、圧倒的な重圧。


 「人の子よ、お前に問う。お前はこの神を愛するというが、お前の愛は彼女を『ただの女』に堕とし、その命を削り、やがて朽ち果てさせる。それがお前の望む救いか?」


 彼は息を呑んだ。


 抱きしめた時の彼女の体の冷たさ。


 自分という「毒」が、彼女の永遠を蝕んでいるという事実。


 しかし、彼は逃げなかった。


 光の中に立つ神を見据え、一歩、美和さんの隣へ踏み出した。


 「……俺は、彼女が神であることを求めたことはありません。僕が求めているのは、あの雨の夜に一杯の酒を出してくれた、あの雨の境内で僕を待ってくれた、美和さん……ただ一人の女性です」


 「ほう……。ならば、その『愛』を証明せよ」


 天照大御神の光が、一層強く弾けた。


 「咲耶。お前の神籍を剥奪し、この男と同じ『刹那を生きる肉体』を授けよう。だが、それには代償が必要だ。お前たちがこれまで積み上げてきた数千年の記憶……そのすべてを、この桜と共に散らせ。一人の女として、一人の男として、名もなき他人として、再び出会い直すがよい。もし、記憶を失くしてもなお、互いに惹かれ合うことができたなら、その時こそ、お前たちの命を『一つ』として認めよう」


 「記憶を……失くす……?」


 美和さんの声が絶望に震える。


 彼女にとって、数千年の記憶こそが、彼を繋ぎ止めていた唯一の絆だったからだ。


 それを手放すことは、彼女の存在理由そのものを消し去ることに等しい。


 「……いいでしょう……」


 先に答えたのは、彼だった。


 彼は美和さんの手を、今まで以上に強く、痛いほどに握りしめた。


 「美和さん。いや、お姉ちゃん。大丈夫だよ。俺は、何度だって君を見つける。名前を忘れても、神話を知らなくても……君が注ぐお酒の匂い、君が弾くギターの音、その瞳の色。僕の魂が、それを忘れるはずがない」


 美和さんは、琥珀の瞳に涙を湛えながら、彼の横顔を見つめた。


 そして、覚悟を決めたように微笑む。


 「……わかりました。大御神様。私のすべてを捧げます。ただの人として、彼と笑い、彼と共に老い、彼と共に土に帰るために」


 「よかろう。夜が明ける時、桜は散り、約束は消える。残るのは、一筋の『縁』のみ」


 天照大御神の姿が、爆発的な光となって四散した。


 同時に、背後の巨大な桜の木が、音を立てて崩れ始める。


 数千万、数億という花びらが、光の粉となって二人を包み込んでいく。


 「彼さん……大好きだよ。また明日……Bar風花で……」


 彼女の声が、遠ざかる。


 視界が白濁し、握りしめていた手の感触が、淡い光の中に溶けて消えた。

あとがき


 44杯目 億劫の抱擁、いかがでしたでしょうか。


 ……とうとう、ここまで来ました。


 これまで「Bar風花」は、雨の夜に寄りつく常連さんと、優しい1杯と、美和さんの微笑みだけの、静かで大人な物語でした。

 でも、この話で、ようやく美和さんの本当の姿——木花咲耶姫としての数千年の孤独と、彼との因縁——を明かす時が来たんです。


 天照大御神の試練。

 神籍を剥奪され、記憶をすべて桜と共に散らす。

 それでも「また明日、Bar風花で」と微笑んだ美和さん。


 このシーンを書いているとき、私自身が胸が締め付けられるような気持ちになりました。

 「愛」という言葉が、どれだけ重くて、どれだけ儚くて、どれだけ尊いのか。

 記憶を失くしても、魂が君を求めるなら——それが本当の「億劫の抱擁」だと思うんです。


 読んでくださった皆さん、本当にありがとうございます。

 ここまで一緒に来てくれた方々には、特に感謝しかありません。

 突然の神話展開で驚かせてしまったかもしれませんが、これがBar風花の「本当の物語」の始まりです。


 次は45杯目。

 記憶を失った世界で、二人は再び出会えるのか——。

 どうか、続きも見守っていただけると嬉しいです。


 それでは、桜の花びらが舞う夜に——。


天照(Bar風花)

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