45杯目 待ち焦がれた再会
【Bar風花 -kazahana-】45杯目 待ち焦がれた再会
※Bar風花シリーズ第45杯目・本編直結の重要エピソードです。
※これまでの閑話や短編だけを読まれている方は、できるだけ本編の流れに沿ってからお読みください。
※お酒、カクテル、運命の再会、魂の叫び、静かで激しい恋……そんなものが好きな方向け。
※今回はいつもより感情が爆発します。ご了承ください。
雨の降り始めた夕暮れ。
風花町の路地裏に、懐かしい看板が浮かび上がる。
『Bar 風花』
初めてのはずの扉を開けた瞬間、天ちゃんの胸が激しく鳴った。
カウンターの向こうで振り返った彼女——右のワインレッド、左の琥珀。
二つの瞳が、まるで数千年の時を越えて彼を捉える。
「初めてのお客様……ですか?」
彼女の声に、忘れていたはずの何かが、魂の底から蘇ろうとしていた。
そして差し出された一杯の黄金色のカクテル。
その名は『オリンピック』。
カクテル言葉は——「待ち焦がれた再会」。
神の封印すら打ち破る、運命の瞬間が今、Bar風花のカウンターで訪れる。
Bar風花へようこそ。
今夜は、雨音とグラスの音に混じって、魂の叫びをお届けします。
どうぞ、息を詰めてお付き合いください。
翌朝。
風花町の自宅で、天は目を覚ました。
頬を伝う冷たい涙の跡に、なぜか胸が引きちぎられるような痛みを覚える。
しかし、何を悲しんでいたのか、何を願っていたのか、どうしても思い出せない。
「僕は、何かを決断したんだ……」
確かなのは、その感覚だけだった。
夕暮れ時。
天は導かれるように、風花町の静かな路地裏を歩いていた。
ぽつぽつと小雨が降り始める。
ふと見上げた視線の先に、古い看板と重厚なオーク材の扉があった。
『Bar 風花』
理由もなく胸が跳ね、彼は吸い寄せられるようにその扉を押した。
カラン、とドアベルが低く透明な音を奏でる。
程よく空調の効いた店内はひんやりと静かで、遠くからかすかなピアノの余韻が溶け込んでいた。
整然と並ぶクリスタルグラスの奥、鉄刀木の一枚板カウンターの中で、一人の女性が背を向けてグラスを磨いている。
ポニーテールに、清潔なベスト姿。
彼女がゆっくりと振り返った。
「いらっしゃいませ。……あ……」
女性の動きがピタリと止まる。
右目がワインレッド、左目がアンバー。
その神秘的なヘテロクロミアの瞳が、天の存在を捉えて離さない。
「……初めてのお客様……ですか?」
静かな問いかけに、天の心臓が見たこともない速さで脈打ち始めた。
狂おしいほどの愛おしさと懐かしさが、胸の奥から溢れ出す。
天は自分でも驚くほど穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「いえ。……なんだかずっと昔から、ここに来る約束をしていたような気がするんです」
美和の瞳に、ふわりと温かな光が灯った。
「……奇遇ですね。私も今、そんな気がしたところです」
雨音だけが店内に響く中、天は吸い寄せられるように、いつもの……いや、初めて座るはずの止まり木に腰を下ろした。
「……不思議ですね」
美和が自嘲気味に、けれど愛おしそうに目を細めた。
「初めてお会いしたはずなのに、貴方がどの席にお座りになるか、分かってしまった気がします」
「僕もです。この店の扉を開けた瞬間、心臓が……うるさいくらいに跳ねて……」
天は戸惑いながらも、美和の瞳を見つめ返した。
右目のワインレッドが記憶の残り火のように熱く揺れ、左目のアンバーが新しい運命の始まりを告げるように温かく光っている。
「……何か、お飲みになりますか?」
美和の静かな問いに、天の口から思いがけない言葉がこぼれた。
「何か、黄金色の一杯を。……大切な決断を終えて、今、ようやく誰かに会えたような……そんな気がするんです」
美和の指先がかすかに止まった。
彼女の脳裏に、断片的な光が走る。
風に舞う満開の桜。
濡れた巫女服の袖。
そして、自分を強く抱きしめてくれた誰かの温もり。
「……はい。かしこまりました」
美和は背を向け、棚からブランデーとオレンジ・キュラソー、そして新鮮なオレンジを取り出した。
指先が、不思議なほど正確に動く。
シェーカーの中で氷が躍るリズミカルな音。
それは技術を超えた、細胞が覚えている「儀式」だった。
静かに差し出されたカクテルグラス。
そこには、夜の闇を照らす朝日のような、鮮やかな黄金色の液体が満たされていた。
「カクテル名は、『オリンピック』。……そのカクテル言葉は、『待ち焦がれた再会』です」
「……再会」
その一言に、天の胸の奥が、熱い塊に突き上げられた。
差し出されたグラス。
二人の指先が、ほんの数ミリ、触れるか触れないかの距離まで近づいたその時——。
「——ッ!!」
その瞬間、世界から音が消えた。
落雷のような衝撃が、二人の魂を貫いた。
天照大御神が施した「忘却」の枷。
神の理によって固く閉ざされていた精神の最深部で、封印が音を立てて爆発した。
視界が真っ白に染まり、数千年の時が逆流を始める。
一秒にも満たない刹那の間に、億劫の記憶が津波となって押し寄せ、二人の脳裏を焼き尽くしていく。
五歳の天と、神社の境内で砂利を駆け抜けた足裏の痛み。
知覧の空。
満開の桜の咲いた枝を持ち、特攻機を見送る美和の引き裂かれそうな慟哭。
幾度となく繰り返された、愛し、忘れ、死に別れていった残酷な輪廻の断片。
そして——昨夜、此花神社の巨大な桜の下で、巫女服を血のような涙で濡らしながら舞っていた、あの絶望的なまでに美しい美和の姿。
「……ああ……ああああああああ!!」
天はグラスを落としそうになりながら、カウンターに突っ伏した。
心臓が爆発しそうなほどの「愛」が、失われていたはずの感情を無理やりこじ開けていく。
美和もまた、喉の奥で短い悲鳴を上げた。
右目のワインレッドが鮮烈に輝き、左目のアンバーが黄金の炎となって燃え上がる。
「天ちゃん……天ちゃん、天ちゃん、天ちゃん!!」
美和は叫んだ。
それは今出会ったばかりの「お客様」を呼ぶ声ではない。
数千年の孤独を、暗闇を、たった一人で耐え抜いてきた神の、執念と祈りが混ざり合った絶叫だった。
二人は、激しい呼吸を繰り返しながら、互いの顔を凝視した。
「……思い出した。全部、思い出したよ……美和さん!!」
天はカウンターを飛び越えんばかりの勢いで身を乗り出し、美和の両手を強く、強く握りしめた。
「大御神様との約束なんて……記憶を捨てるなんて、僕の魂が許さなかった! 君を忘れて生きるなんて、できるはずがなかったんだ!!」
天照大御神は言った。
「記憶を失くしてもなお惹かれ合うなら、その命を一つと認めよう」と。
だが、二人の愛は、神の想像すら超えていた。
惹かれ合うどころか、二人の魂は「忘れること」そのものを拒絶し、神の封印を内側から打ち破ってしまったのだ。
「美和さん。もう、僕を遮るものは何もない。……今の僕は、ただの僕だ。君を愛するためだけに、ここにいる一人の男だ」
美和は、震える手で天の頬を包み込んだ。
神の力はもうない。
彼女は今、ただの、ひどく脆くて温かい、人間の女性だった。
「おかえりなさい……私の……天ちゃん。……私を選んでくれて……ありがとう……」
深夜のBar風花の暗がりのなか、二人は魂の奥底で結びつくような深い口づけを交わした。
数千年の旅は、終わった。
そして、一秒ごとに老い、一秒ごとに愛を深めていく、贅沢で短い「人間の時間」が、今度こそ本当に始まった。
あとがき
45杯目 待ち焦がれた再会、いかがでしたでしょうか。
……とうとう、この日を書きました。
数千年の輪廻と忘却、神の約束、そして二人が選んだ「人間の時間」。
天ちゃんと美和さんの魂が、ようやく本当の意味で結ばれる瞬間を、ずっと心のどこかで待ち焦がれていました。
正直、執筆中は自分でも泣きそうになりました。
特に、美和さんが「天ちゃん、天ちゃん、天ちゃん!!」と叫ぶシーンは、彼女の数千年にわたる孤独と執念が全部詰まっている気がして、指が震えました。
これまでBar風花で描いてきた静かな日常や、ワインの余韻、雪の儚さ……それらすべてが、この一瞬のためにあったんだな、と実感しています。
読んでくださった皆さん、本当にありがとうございます。
この再会が、皆さんの胸にも熱く届いていれば、これ以上嬉しいことはありません。
ここから始まる「一秒ごとに老い、一秒ごとに愛を深めていく」二人の物語も、どうか温かく見守っていただけたら幸いです。
次回以降も、Bar風花の扉は開いたままです。
またカウンターで、グラスを傾けながらお待ちしています。
それでは……おかえりなさい、天ちゃん。
そして、ようこそ、本当のBar風花へ。
天照(Bar風花)




