3杯目 鴨の燻製とミモザの夜
『Bar風花-kazahana-』
鴨の燻製とミモザの夜
※独立した短編エピソードです
※バー・お酒・手作りおつまみ・静かな夜の会話が好きな方向け
※激しい展開や大きな事件は一切ありません
開店したばかりの小さなバー。
カウンター越しに、バーテンダー・桜羽さんが穏やかに微笑む。
「何か少し摘まれませんか?」
その一言から始まる、ゆったりとした夜。
自家製の鴨の燻製、町の工房のチョリソ、地元野菜のピクルス、 そして彼女の手で丁寧に作られたドライフルーツ。
そしてグラスの中では、搾りたてのクレメンティンとクレマン・ド・ブルゴーニュが、 淡い黄金色の泡を立てて静かに出会う——ミモザ。
開店祝いの乾杯と、二人だけの穏やかで少し照れくさい時間が、カウンターの柔らかな灯りの中でゆっくり流れていく。
Bar風花へ、ようこそ。
今夜は鴨の香りとミモザの泡に、身を委ねてください。
R8.2.3 ミモザを作る過程と、ワインセラー内のシャンパンの銘柄紹介を加筆修正
第1章:温燻の香りとからかいの代償
付け合わせのカシューナッツをポリポリと噛み砕きながら、バカラグラスに残るドライ・マティーニの冷たい余韻を味わっていると、鉄刀木のカウンターの向こうから柔らかな声が降ってきた。
「何か、少し摘まれませんか?」
ちょうど「ほんの少しだけ、気の利いたものが食べたいな」と思い始めていた完璧なタイミングだった。心を読まれたかのような心地よさを感じつつ、彼は素直に尋ね返す。
「摘めるものって、今何があります?」
純白のバーコートを纏った櫻庭さんは、右の頬に軽く指先を当てて少し考え込む仕草を見せた。やがてバックバーから上質な和紙のメニューをぱらりと取り出し、にこりと差し出してくる。
「こちらがフードメニューです。いろいろあるんですけど……今日のおすすめは、鴨の燻製ですね。私の手作りなんですよ」
さらっと言ってのけるその無邪気な笑顔に、彼は内心で(オリーブの次は燻製か……本当に何者なんだ)と呆れ半分、感嘆半分のツッコミを入れた。しかし、過去に自家製燻製に挑戦して温度管理に四苦八苦した経験がある身としては、どうしても興味が湧いてしまう。
「自家製の鴨の燻製って……作るの、結構大変じゃなかったですか?」
櫻庭さんはバックバーから美しい唐津焼の皿を取り出しながら、ふわりと首を横に振った。
「そうでもないですよ。鴨は温燻で仕上げるので、七十度から八十度くらいの温度をキープするのがちょっとだけ面倒なぐらいですかね。スモーカーの前でビール片手に、のんびり温度計とにらめっこしてる時間も、意外と悪くないんですよ」
事もなげに言う彼女の言葉に、彼の中で勝手な映像が再生される。
休日の午後、スモーカーの前にしゃがみ込み、真剣な顔で温度計を覗き込みながら、時折缶ビールをちびちびとやっている彼女の姿。その飾らない素顔を想像しただけで、どうしようもなく口元が緩んでしまった。
ふと視線を上げると、カウンター内で鴨の燻製ブロックを丁寧に切り分け、皿に美しく盛り付けている桜羽さんとばっちり目が合った。
「……なんか、今、ちょっと失礼なこと考えてませんでした?」
右のワインレッドと左のアンバー。異色の瞳を細め、ジトッとした目でこちらを見据えてくる。ほんのりと頬が上気しているのがわかった。
(……反則級にかわいいな)
胸の奥で甘い痺れを感じながら、彼は思わず本音をこぼした。
「いや、スモーカーの前で真剣に温度管理してる桜羽さんを想像したら、つい『かわいいな』って……」
その瞬間、彼女の白い頬がぱっと林檎のように赤く染まった。
「もうっ……! からかわないでくださいよぉ」
ぷくっと頬を膨らませて抗議するその姿は、先ほどの完璧なマティーニを作った凛としたバーテンダーと同一人物とは思えないほど愛らしい。どこか嬉しそうな気配を隠しきれないまま、彼女はいそいそと盛り付け作業に戻っていった。
薄くスライスされた鴨の燻製が、アンバー色の照明に照らされて艶やかな脂を光らせている。
このまま、もう少しだけこの満たされた時間を味わっていたい。彼は心からそう願っていた。
第2章:唐津焼と琥珀のドライフルーツ
土の温もりを感じさせる唐津焼の素朴で美しい皿が、静かにカウンターへ置かれた。
その上には、薄くスライスされた鴨の燻製が数切れ、赤みがかったチョリソ、そして色とりどりのピクルスがまるで絵画のように彩りよく並んでいる。鴨の表面からはほのかにスモークの香ばしい匂いが漂い、ピクルスからはディルやコリアンダーシードなど、新鮮なハーブの爽やかな香りが立ち上っていた。
櫻庭さんはにこにこと嬉しそうに説明を始める。
「サラミみたいに見えるのは、実はチョリソなんです。この町の山奥にある小さな工房で作っているお店があって、そこから直接仕入れているんですよ。ピクルスは地元のおばちゃんたちが無農薬で育てたお野菜を、私が丁寧に漬けました」
そう言って、彼女はもう一枚、美しい小皿をそっと隣に添えた。
「それと、こちらはサービスです」
小皿の上には、オレンジの鮮やかな色、柿の優しい飴色、マンゴーの濃い黄金色が、まるで宝石のように輝くドライフルーツが並んでいた。
「この風花町で採れた果物を、私がドライフルーツにしたんです。今は家庭用の食品乾燥機があるから、思ったより簡単にできちゃうんですよね」
彼は箸を手に取り、まず一口、鴨の燻製を口に運んだ。
しっとりとした肉質から、香ばしくてジューシーな脂がじゅわりと溶け出す。噛むほどに、桜チップの深いスモーキーな風味が鼻腔を抜け、マティーニの冷たい余韻と見事に調和した。
続いてチョリソを齧る。ピリッと効いたスパイスと熟成された肉の強烈な旨味が舌を刺激し、思わず炭酸の効いた酒が欲しくなる。ピクルスは酸味が尖りすぎず、まろやかな旨味とシャキッとした歯ごたえで、口の中の脂を完璧にリセットしてくれた。
最後にドライフルーツ。ねっとりとした食感の中に、果実の甘みが極限まで凝縮されている。まるで果実そのものが、途方もない時間をかけて極上のスイーツへと熟成したような濃厚さだった。
美味しそうに箸を進める彼の様子を、桜羽さんはカウンター越しにじっと見つめていた。その瞳は、誰かに自分の作ったものを心から喜んでもらえたときだけに見せる、柔らかくて少し照れたような、慈愛に満ちた光を湛えている。
第3章:高価な冗談と祝福の一杯
少し間を置いて、彼が箸を置くと、ふと思いついたように尋ねた。
「こちらのお店、シャンパンやスパークリングワインのボトルって置いてありますか?」
その言葉に、櫻庭さんの目がぱっと輝いた。
「ございますよ。クリュッグ・グランド・キュヴェ、ルイ・ロデレールのクリスタル、サロンもありますし……あ、ドンペリニヨンのレゼルヴ・ド・ラベイになさいますか?」
指を折りながら、とんでもない価格帯のプレミアムシャンパンの名前を次々と無邪気に並べ立てる彼女を、彼はすんとした冷ややかな目で見つめ返した。
「…………」
その無言の抗議の視線にようやく気づいた櫻庭さんは、ハッとして慌てて小さく咳払いをした。再び頰をぽっと赤らめる。
「……冗談です、冗談です。ちゃんと気軽に飲める価格の美味しいシャンパンも、スパークリングワインも揃えてありますよ。いかがですか?」
その慌てふためく様子がおかしくて、彼はくすりと小さく笑った。
「このお店、先日オープンされたばかりですよね。……ご迷惑じゃなければ、開店祝いに一杯ご馳走させていただけませんか?」
桜羽さんの表情が、一瞬でぱあっと花が咲いたように明るくなった。
「えっ、宜しいんですか……? では、お言葉に甘えて……一杯、頂戴いたします」
嬉しさを隠しきれない弾むような声が、カウンターの柔らかな照明に溶けていく。
彼女はそっと新しいグラスを取り出し、バックバーの奥にあるワインセラーからボトルを選びながら、時折チラチラとこちらを見つめてくる。その小動物のような仕草がまた妙に愛おしくて、彼の胸の奥をくすぐった。
第4章:極薄のムスリングラスと黄金の果実
「それでは、スパークリングワインのボトルを開けていただけますか? それでカクテルを二杯……ミモザなんか、如何ですか?」
彼がそう提案すると、櫻庭さんはぱっと目を輝かせ、頰をふんわりと緩めた。
「ミモザですか? 嬉しい。私、大好きなんです!」
彼女は嬉しそうに小さく手を叩くと、カウンター下から艶やかな銀色の手動ジューサーをさっと取り出した。続いて冷蔵庫の奥から、鮮やかなオレンジ色をした果実を三つ、まるで宝物のように愛おしそうに取り出す。
「今日は普通のオレンジじゃなくて、このクレメンティンを使いますね。……マンダリンオレンジの一種なんですけど、皮が薄くて種がほとんどなくて。甘みが非常に上品で濃厚、酸味は穏やかで、香りがすごくフローラルで華やかなんです。特に搾りたてのものは、『この世で一番美味しいオレンジジュース』って呼んでも過言じゃないくらいジューシーなんですよ」
照明の下で瑞々しく輝く果実からは、すでに甘く優雅な香りがほのかに漂ってきている。
「佐賀県太良町産の完熟クレメンティンです。糖度が高くて、コクと香りのバランスが抜群なんですよ。……せっかくなので、グラスはこれを使いますね」
櫻庭さんが戸棚から恭しく取り出したのは、ウィーンの至宝、ロブマイヤーの『アンバサダー・シャンパン・フルート』だった。
極薄の「ムスリングラス」技法で作られたそのグラスは、透き通るような軽さと圧倒的な透明感を誇っている。熟練の職人が一つひとつ手吹きで仕上げているため、持った瞬間に空気のように軽い。この限界まで薄い形状のおかげで、泡の立ち上がりは真珠の連鎖のように美しく保たれ、香りもダイレクトに鼻へ届くのだ。
(……一脚三万近くするグラスじゃないか……)
田舎の小さなBarから次々と飛び出す規格外の品々に、彼は内心で心地よい眩暈を覚えながら苦笑した。しかし美和はそんな彼の視線など気にも留めず、にこにことグラスを鉄刀木のカウンターに並べる。
続いてワインセラーから取り出したのは、『クレマン・ド・ブルゴーニュ・ブリュット』だった。
「シャンパーニュと同じ瓶内二次発酵で作られるスパークリングです。ブルゴーニュらしい綺麗な酸味と丸みのある果実感、豊かなミネラル感が特徴で。シャンパーニュほど鋭い緊張感がない分、親しみやすくてエレガントなので、ミモザに合わせると非常にバランスが良いんです。味もコスパも本当にバッチリですよ」
彼女は慣れた手つきでボトルの箔を剥がし、ワイヤーを緩め、コルクを静かに抜いていく。
シュワッ……。
淑女のため息のように控えめで優しい音が響き、ボトルの口から微かな白い冷気が立ち昇った。
第5章:真珠の連鎖と春の乾杯
櫻庭さんはクレメンティンを一つ手に取り、くるりと回して状態を確かめると、にこりと微笑んだ。
「では、搾りますね」
半分にカットした果実をジューサーにセットし、ゆっくりとレバーを押し下げる。
ぷしゅっ……という瑞々しい音とともに新鮮な果汁が滴り落ち、鮮やかなオレンジ色の液体が受け皿に溜まっていく。その瞬間、空間全体に濃厚でフローラルなクレメンティンの香りが一気に弾け飛んだ。
「この太良町産のクレメンティン、搾りたてだと本当に香りがすごいんです……」
目を細めて恍惚とした表情を浮かべながら、彼女は搾りたてのフレッシュジュースをロブマイヤーのフルートグラスにそっと注ぐ。その上から、よく冷えたクレマン・ド・ブルゴーニュを優しくトップアップしていく。
極薄のリムの底から立ち上がる淡い黄金色の泡が、真っ直ぐな一筋の真珠の連鎖となって優雅に昇っていく。クレメンティンの果実のエッセンスが細やかな泡に絡まってゆらゆらと舞い、薄張りのガラスの中で、まるで春のミモザの花束が咲き誇っているかのような美しい一杯が完成した。
櫻庭さんはグラスのステムを指で挟んで軽く持ち上げ、彼の方へそっと差し出しながら、どこまでも柔らかく微笑んだ。
「どうぞ、お待たせいたしました。このグラスだと泡の美しさも、クレメンティンの香りも、クレマンの酸の抜け方も全部が引き立ちます。……今日は特別に、心を込めて搾りましたからね」
彼女はそう言うと、自分用のミモザが入ったグラスを胸の高さまで持ち上げた。
彼もロブマイヤーの繊細なグラスを手に取り、目の高さまで持ち上げる。
「開店、おめでとうございます。素晴らしいお店ですね。……これからも、よろしくお願いします。乾杯」
「ありがとうございます。……これからも、末長くよろしくお願いします」
櫻庭さんは頰をほんのり赤らめ、心底嬉しそうに目を細めてグラスに口をつけた。
彼も一口、ゆっくりと味わう。
搾りたてクレメンティンのねっとりとした気高い甘みが口いっぱいに広がり、スパークリングワインのきめ細かい泡がそれを軽やかに包み込んでいく。酸味は角が取れてまろやかで、果実そのものの豊かな風味とワインの骨格が見事に調和している。まさに「食べるよりも美味しい果実」という表現がふさわしい、極上の贅沢だった。
「……確かにこれ、別格だな」
彼が小さく感嘆の声を漏らすと、彼女は誇らしげにふふっと笑った。搾りたてのフレッシュさが泡のキレと絶妙にマッチして、喉を通るたびに心地よい余韻が鼻腔を抜けていく。
鉄刀木のカウンター越しに、二人は静かに視線を交わし、グラスを傾け合う。
心地よい泡の弾ける音。アンバー色の柔らかな照明。そして、空間を満たすクレメンティンと微かな桜の芳醇な香り。
この秘密の隠れ家のようなBarで、二人だけのミモザの時間が、甘く、ゆっくりと流れていく。
夜の魔法は、まだまだ解けそうになかった。
あとがき
読んでくださってありがとうございます。
この話は、「バーで初めての乾杯をする瞬間」と「誰かが心を込めて作ったものを、誰かが素直に喜んでくれる瞬間」を描きたかっただけの一場面です。
桜羽さんの手作りおつまみや、搾りたてクレメンティンの香り、極薄のロブマイヤーグラスに上がる泡の連なり——
そういう細かいものが、全部ひっくるめて「この夜はいいな」と思える空気になっていたら嬉しいです。
またふらりとカウンターに寄ってくれたら、次はどんな一杯とどんなおつまみでお待ちしています。
それでは、今夜も良い夜を。
天照(Bar風花)




