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21杯目 秋の夜に現れた白い車と、ジンフィズの夜

『Bar風花-kazahana-』

秋の夜に現れた白い車と、ジンフィズの夜


※独立した短編エピソードです

※バー・カクテル・パイプタバコ・ミステリアスな出会い・静かな夜が好きな方向け

※大きな事件や恋愛展開はありません。少し不思議で、温かい余韻の残る夜をお届けします


季節は夏から秋へ。

日が暮れるのが早くなり、空気に冷たさが混じり始めた頃。


彼はいつものように、Bar風花へ向かう。

手に提げたのは、息子の同級生の家が営むケーキ屋の濃厚オペラ。

美和さんの甘いもの好きを知っているからこその、ささやかな土産だ。


道中、品川ナンバーの古いフェアレディZが目に入る。

30年以上前の車体は、フルエアロで武装され、クリスタルホワイトに輝きながらも、

飛び石の痕と熱で溶けかけたタイヤが「本気で走り込まれている」ことを物語っていた。


その横に立つ、金髪の白人女性。

黒のビジネススーツ、鋭く儚げな瞳。

地図アプリを睨みながらキョロキョロと周囲を見回す彼女は、

塀の上の黒猫にちゅーるをあげ、猫と「会話」を交わす不思議な存在だった。


彼女は彼に気づくと、そっと近づき、耳元で囁く。

「Увидимся снова♪ (またね、色男♪)」


柔らかな唇が頬に触れ、甘い口紅の香りが残る。

女性は振り返りもせず、Zに乗り込み、夜の闇へ溶けていった。


気を取り直して店に辿り着いた彼を迎えたのは、

いつもの美和さんの穏やかな笑顔。


「いらっしゃいませ。そろそろ来てくださるんじゃないかと思ってました♪」


今夜のBar風花は、

秋の冷たい風と、謎めいた出会いの余韻に包まれながら、

静かに、ゆっくりと始まる。


Bar風花へ、ようこそ。

今夜は、少し不思議で、でも確実に温かい一杯を。

 季節が夏から秋へと移り変わり、日が暮れるのが目に見えて早くなった。


 空気にはもう、夏の甘ったるい湿り気ではなく、かすかな冷たさが混じり始めている。


 週末のこの日も、彼はいつものように一人で、あの店に向かっていた。


 手に提げた小さな紙箱の中には、ケーキが丁寧に収められている。


 このケーキは、実は息子の同級生の家が営む小さなケーキ屋のものだ。


 ご主人はかつて有名店で修業を積んだ腕利きで、素材の扱いも繊細で、彼は時折ここを利用させてもらっている。


 家には、妻と子供たちが喜ぶフルーツタルトを置いてきた。


 そして今、彼の手の中にあるのは、これから会う「あの店」の店主へのささやかな土産――濃厚なオペラが数個、丁寧に詰められた箱だ。


 甘いものが大好きな彼女が、これを見た瞬間に浮かべる満面の笑みを想像するだけで、彼の頬は自然と緩んでしまう。


 足取りも、つい軽くなる。人通りがまばらになった生活道路を、街灯の淡い光に導かれながら、少し早足で進む。


 今日は何を飲もうか。


 いつものウイスキーか、それとも彼女が最近気に入っているという新しいジンでも頼もうか。


 そんなことをぼんやり考えながら歩いていると、ふと、視界の端に停まっている一台の車が目に入った。


 道路脇のわずかな駐停車スペース。エンジンをかけたまま、静かにアイドリングを続ける品川ナンバーの古い国産スポーツカー。


 彼の記憶が正しければ、これは昭和から平成へと時代が移り変わる頃に生まれ、フェアレディZ(貴婦人)と呼ばれていた車――おそらくZ31型だ。


 30年以上前のその車体は、品の良いフルエアロパーツで隙間なく武装され、透き通るようなクリスタルホワイトのボディは、まるで昨日工場を出たかのように傷一つなく輝いている。


 だが、よく見ればフロントノーズには細かな飛び石の痕が無数に刻まれ、超々ジュラルミン製の鍛造ホイールに履かれたハイグリップタイヤのサイドウォールは、僅かに熱で溶けかけた痕跡を見せている。


 そして何より、ワンオフで製作された大口径のチタンマフラーからは、ハイチューンされたエンジン特有の、腹の底に響く重低音がゆったりと脈打っていた。


 見掛け倒しではない。


 本気で走り込まれ、酷使され、それでも美しさを保ち続けている車――そんな印象が、瞬時に彼の胸を打った。


 その車のすぐ横に、一人の女性が立っていた。


 高級感のある黒のビジネススーツに身を包み、片手にスマートフォンを構えている。


 地図アプリを起動した画面を睨みながら、辺りをキョロキョロと見回している。


 腰まで伸びた、軽くウェーブのかかった金髪。


 そして、まるでギリシャ神話から抜け出してきたかのような、息を呑むほど整った顔立ち。


 白い肌。


 鋭くもどこか儚げな瞳。


 一目見ただけで忘れられない――いや、忘れようのない、ぞくりとするような美しさを持った白人の女性だった。


 彼は、知らず足を止めた。


 エンジンの低いうなりと、秋の夜の冷たい風だけが、その場に静かに流れている。


 彼女はまだ、彼に気づいていない。


 目的地が掴めないのか、現在地が狂っているのか、

彼女はスマートフォンの画面を睨みつけながら、何度も顔を上げて周囲を見回す。


 街灯の光が金髪に淡く反射し、夜の闇の中でその姿はまるで浮遊する幻のように見えた。


 困り果てた表情でしばらく立ち尽くしていた彼女は、ふと視線を上げた。


 塀の上に、黒い影がちょこんと座っている。


 真っ黒な毛並みの猫だ。


 黄緑色の瞳が、じっと彼女を見つめ返している。



 彼女は小さく息を吐き、猫に向かって柔らかい声で何かを囁いた。


 すると――信じられないことに――黒猫が「ニャア」と短く答え、続けて「ニャーニャー」とまるで会話をするように鳴き返す。


 何度かそんな不思議なやり取りを繰り返した後、彼女の唇に穏やかな笑みが浮かんだ。


 バッグから取り出したのは、細長いパッケージ。「⋯⋯ちゅーる、か?」彼は思わず呟いた。


 なぜそんなものを、こんな時間に、こんな場所で?


 猫は夢中でそれを舐め取り、あっという間に平らげると、満足げに「ニャア」と一声。


 彼女は優しい手つきでその頭を撫で、耳の後ろをくすぐるように指を滑らせた。


 黒猫は目を細め、喉をゴロゴロと鳴らす。


 そして彼女は立ち上がり、車の方へ向き直した――その瞬間、視線が彼と絡み合った。冷たく澄んだブルーの瞳。


 底知れぬ深さを持つその眼差しに、彼は息を呑んだ。動けない。


 時間だけが、ゆっくりと凍りついていく。彼女は表情を崩し、ふっと小さく笑った。


 ゆっくりと近づいてくる。


 ヒールの音が、夜の静寂に軽く響く。


 彼が銅像のように固まっていると、彼女はそっと身を寄せ、耳元で囁いた。


 「Увидимся(またね、色男) снова♪」


 柔らかな唇が、彼の頬に触れた。


 ほんの一瞬の、温かくて甘い感触。


 口紅の淡い香りが、鼻先をかすめる。


 彼女は振り返りもせず、流れるような動作で運転席に滑り込み、ドアを閉めた。


 エンジンが低く唸り、クリスタルホワイトのフェアレディZは静かに、しかし力強く夜の闇へ溶けていった。


 テールランプの赤い光が、遠ざかりながら最後に一度だけ瞬いた。


 残されたのは、頬に薄く残る口紅の跡と、呆然とする彼。


 そして、塀の上で悠々と前足を舐めている黒猫だけだった。


 「……一体、何だったんだ」


 「ニャア……」


 彼の呟きと猫の声が、秋の夜風に運ばれて、住宅街の闇に吸い込まれていった。




 気を取り直し、彼は再び歩き出す。


 冷たくなった夜風が頬を撫で、飲み屋街のネオンが遠くにちらつく。


 新鮮な刺身に焼き鳥、冷えた純米酒……そんな誘惑が頭をよぎるが、今日は違う。


 彼は誘惑を振り払い、足を速めた。飲み屋街の喧騒を抜け、細い路地へ。


 人一人がやっとすれ違う幅の、薄暗い通り。その突き当たりに、ひっそりと佇む店がある。


 蔦の絡まるレンガ調の外壁。控えめなライトが、ドアと看板だけを優しく照らし出している。


 金属プレートに刻まれた文字――『Bar 風花 -kazahana-』。


 他の店のように派手なボードも、今日のおすすめも無い。


 ただ静かに、そこにあるだけ。


 「……相変わらず、商売っ気ゼロだな」彼は苦笑しながら、頑固で不器用な店主の顔を思い浮かべた。


 マホガニー製の重厚なドア。


 磨き上げられた真鍮の取っ手が、冷たく光っている。


 ゆっくりと引くと、意外なほど軽やかに扉は開いた。



 店内は、開店したての清浄な空気に満ちていた。


 少し冷たく、どこか神聖な静けさ。


 隅々まで磨き上げられ、埃一つ落ちていない。


 その店のカウンターの奥、今日もそこに彼女はいた。

 

 「いらっしゃいませ。そろそろ来てくださるんじゃないかと思ってました♪」


 グラスを丁寧に磨きながら、彼女は柔らかな笑みを浮かべてそう言った。


 身長は160センチ後半くらいだろうか。スラリと伸びたスタイルの良い体躯に、シミひとつない純白のバーコートがよく映えている。


 腰まで届く艶やかな黒髪を高い位置でポニーテールにまとめ、銀の細やかな髪留めで留めている。


 その髪留めは、彼が以前秋田へ出かけた折、秋田銀線細工の工房で一目惚れして彼女に贈ったものだ。


 日本人形を思わせる整った顔立ち。


 息を呑むような美貌の持ち主——この小さな隠れ家バーのオーナーであり、店長であり、たった一人のバーテンダーである桜庭美和さん。


 彼女のバーテンディングの腕は本当に素晴らしい。


 けれど、その経歴は一切不明だ。


 どこで修行を積んだのか、何をバックボーンに持っているのか。


 以前、軽い気持ちで尋ねたことがあるが、「いろんなお店ですよ♪」と、いつもの悪戯っぽい笑みで軽くはぐらかされてしまった。


 実にミステリアスな女性である。



  

 そんなことを思いながら店内に足を踏み入れると、美和さんはカウンター越しに優雅に微笑み、いつもの指定席へと視線を向けた。


 腰のポケットからスッと取り出したコースターを置き、静かに彼を招く。


 「はい、これはお土産です。」


 席に腰を下ろした彼がそう言って、小さなケーキの箱を差し出すと、彼女の顔がぱっと華やいだ。


 「わぁ、ありがとうございます〜! あの店のケーキですよね、すごく美味しいんですよね〜! あ、幾つも入ってますね。後で彼さんにもお出ししますね♪」


 満面の笑みで箱を受け取った美和さんだったが、ふと動きを止めた。ケーキの箱を抱えたまま、彼をじっと見つめ、眉を寄せる。


 「……猫の気配がする……」


 小さく呟いたその声に、彼は思わず苦笑した。



 


 ——暖かいおしぼりを差し出され、カウンターに座って手を拭いていると、店内に優しいメロディが流れ始めた。


 「……あれ、この曲は……」


 スピーカーから流れてくるのは、英語詞で歌われた美しいオーケストラのバラード。


 現在、社会現象を巻き起こしている、あの大正時代を舞台にしたアニメの挿入歌だ。


 壮大でありながらどこか切なく、胸を締め付けるような旋律と、透き通った歌声が小さな店内に満ちていく。


 「私、この作品大好きなんですよ。」


 冷蔵庫にケーキの箱をしまっていた美和さんが、ウキウキとした様子で振り返った。


 「特に、あの金髪の子がね……。普段の明るさと、シリアスな時のギャップがたまらないんです。……この曲が流れた回は、ファンの中でも神回って呼ばれてますよね。私も何度も見返しちゃいました。」


 彼も思わず頷く。


 あの回の演出と楽曲の合わせ技は、本当に圧巻だった。


 「今度、イベントでこの曲を使おうと思ってるんです。形になったら……貴方に一番最初にご披露しますね♪」


 「……イベント?」


 彼が思わず聞き返すと、美和さんは悪戯っぽく目を細め、軽くウィンクした。


 「まだ内緒です♪」


 そう言って、彼女はいつものように意味深な微笑みを浮かべた。


 その笑顔の奥に、何か大きな計画が隠されているような気がして、彼は少しだけ胸が高鳴るのを感じた。

 

 この小さなバーには、いつも少しだけ不思議な空気が漂っている。


 そして美和さん自身が、その不思議の中心にいる。


 今夜もまた、グラスの中で揺れる琥珀色の液体と、彼女の静かな微笑みに包まれながら、彼はゆっくりと夜を味わうことにした。




 「さて、本日は何をお飲みになりますか?」


 満面の笑みを浮かべながら、美和さんが柔らかく問いかけてくる。


 カウンターの向こうで、彼女の瞳がきらりと光った気がした。


 「そうですね……今日はジントニックじゃなくて、ジンフィズをお願いできますか?」


 彼は少し間を置いてから、そうオーダーした。


 いつもの定番を少し変えてみたくなっただけなのだが、美和さんは一瞬、ぽかんとした表情を見せたあと、ぱっと花が咲くような笑顔になった。


 「承知いたしました〜。そうですかぁ、今日は彼さんに私のバーテンダーとしての腕を試されちゃうんですね♪」


 イタズラっぽくウィンクしながら、彼女は小さく舌を出す仕草をした。


 ジンフィズは、シンプルゆえにバーテンダーの基礎技術がすべて詰まったカクテルだ。


 シェイクの力加減、氷の扱い、ソーダの注ぎ方、泡の立ち具合——どれか一つでも欠けると、たちまち平凡な一杯になってしまう。


 現役バーテンダーから聞いた話では「初対面のお客様がジンフィズかドライ・マティーニを注文してきたら、内心で『来たか……』と身構える」とのことだった。


 ……いや、そんなつもりは本当になかった。ただ、ジントニックばかりじゃ味気ないかな、と思っただけなのに。


 美和さんが妙にやる気満々になってしまった。


 ま、いっか。


 彼が一人で小さく苦笑していると、美和さんはすでに動き始めていた。


 バックバーから、磨き上げられた美しいシェイカーを取り出す。


 ステンレスの表面が照明を滑らかに反射している。


 次に冷凍庫からジンのボトルをそっと引き抜き、バーマットの上に置いた。


 「ジンはビーフィーターを使わせていただきます。1820年創業のロンドン・ドライ・ジンで、クリーンですっきりとした飲み口と、強めの柑橘系の風味が特徴です。今日は奇をてらわず、このオーソドックスな一本で、きちんとしたジンフィズをお作りしますね」


 落ち着いた声で説明しながら、彼女はカウンターのフルーツバスケットからレモンを一つ取り出した。


 流水で軽く洗い、まな板の上に置く。


 研ぎ澄まされたペティナイフを手に取ると、スッと一閃——レモンが真っ二つに輪切りにされた。


 その一連の動きがあまりに自然で美しいので、彼は思わず見入ってしまう。


 乾いた布巾で刃を丁寧に拭う美和さんの仕草を眺めているうちに、彼はふと気づいた。


 「美和さん、もしかしてそのペティナイフ……ダマスカス製ですか?」


 彼女は布巾を軽く畳みながら、にこりと笑った。


 「はい。このペティナイフは、関の佐治武士さんが打たれた青紙スーパー鋼の有色ダマスカスです。67層の美しい波紋が自慢で……毎日使うものなので、少し奮発して手に馴染む一本を選びました」


 そう言って、彼女は柄の方からそっとペティナイフを彼に差し出した。


 受け取った瞬間、息を呑んだ。


 刃に浮かぶ複雑で優美な模様が、光の加減でまるで生きているように揺らめいている。


 重すぎず軽すぎず、絶妙なバランス。


 切れ味を想像するだけで背筋がぞくりとするような、素晴らしい一振りだった。


 彼が感嘆の眼差しでナイフを見つめている間にも、美和さんは次の工程に移っていた。


 レモンを絞るための道具を揃え、氷をシェイカーに放り込む音が、静かな店内に軽やかに響く。


 彼女の指先が、まるで楽器を奏でるように軽快に動いていく——。


 ガラス製のフルーツ搾り器を静かに取り出すと、美和さんは切ったばかりのレモンの半分を軽く当て、手のひらで優しく、しかし確実に握り締めた。


 ぐりぐりと強く押し付けるのではなく、まるで果実を撫でるように——レモンジュースが透明な雫となって搾り器に落ちていく。


 「ぐりぐり押し付けると、どうしても内部の白い芯や薄皮の袋が潰れて、苦味や渋味の元になってしまうんですよ。だから、こうして……優しく、でもしっかり押し出すイメージで」


 彼女はそう言いながら、もう片方のレモンも同じように扱った。


 滴る果汁の香りが、カウンター越しにふわりと彼の鼻をくすぐる。


 新鮮で、酸味が瑞々しく、どこか甘い余韻を残す匂いだった。


 「1つ、ブレンド(配合)


 美和さんは小さく呟くと、バーマットの上に置かれたシェイカーに、メジャーカップなど使わず、目分量でジンをスッと注ぎ入れる。


 透明な液体が弧を描いて落ち、続いて搾りたてのレモンジュース、そして小さなボトルからシュガーシロップを同じく流し込んだ。


 一切の迷いがない。彼女の指先はまるで楽器の鍵盤を弾くように正確で、自信に満ちている。それが、彼女の「目視計量」の技術への絶対的な信頼の証だった。


 「2つ、シェイク(振り)


 次に彼女はアイストングを手に取り、冷凍庫から取り出したばかりの透明なキューブアイスを、カコッ、カコッ! と音を立ててシェイカーに入れていく。


 まるで精密なパズルを組み立てるような、心地よいリズム。


 すかさずボトムにストレーナーを被せ、さらにキャップをしっかりと嵌める。


 「ストレイナーにキャップを被せたままボトムに被せると、シェイク後にキャップが外れなくなっちゃうんですよ……よくある失敗です」


 軽く笑いながらそう教えてくれると、彼女はシェイカーを胸の高さで少し斜めに構えた。


 そして——鮮やかに、上下に振る。キン! キンキン! と、澄んだ氷の音が店内に響き渡る。


 基本の2段振り。起点から斜め上に持ち上げ、鼻先の高さまで。そこから元の位置に戻し、今度は鳩尾のあたりまで斜め下に落とす。


 その往復を、手首のスナップを効かせて繰り返す。


 しかし彼女のそれはただの2段振りではない。


 シェイカーを柔らかく8の字に描くように、優雅に、流れるように、氷が砕けすぎず、でも十分に冷やされ、素材が溶け合う絶妙な加減。


 ハードシェイクが必要な時は一転、斜め一方向の力強い1段振りに切り替えるという彼女のスタイルを、彼は以前にも見たことがある。


 あの時はまるで戦いの舞のようだったが、今はまるで優雅なワルツだ。


 彼は思わず息を呑んで見入ってしまう。


 何度見ても飽きない、美和さんのシェイク。


 プロの技とは、こんなにも美しいものなのか…。


 「3つ、ビルド(注ぐ)


 シェイクが終わると、彼女は曇り一つないバカラのパーフェクション・タンブラーを手に取った。


 1886年のデザインを現代に蘇らせた、透明度と輝きが圧倒的な逸品。


 ハイボールやフィズに最適な、すらりとしたフォルム。


 シェイカーの中身を、ゆっくりと丁寧に注ぎ入れる。


 ストレイナーを外し、残った氷をアイストングで選別しながら——まず大きめのキューブを底に沈め、その上に少し小ぶりの氷を2つ。層を作るように、隙間を埋めていく。


 「ソーダでもトニックでも、炭酸飲料を注ぐ時は絶対に氷に直接ぶつけないように。急激な温度変化でガスが一気に抜けて、せっかくのシュワシュワが台無しになってしまいますから」


 美和さんはソーダのボトルを傾け、氷の隙間を縫うように、静かに、ゆっくりと注ぎ始めた。


 液体がグラスの中で優しく広がり、細かな泡が立ち上る。


 透明な層が徐々に白く霞み、フィズ特有の美しい泡の層ができていく。


 「4つ、ステア(混ぜる)


 美和さんはそう呟くと、バーマットの脇に置かれた水の入った大型ブランデーグラスに差し込まれていたバースプーンを抜き取った。


 布巾で軽く水気を拭い、ゆっくりとタンブラーの中に差し入れる。


 そのバースプーンは特注の45cm。普段見かける30cm前後のものより明らかに長く、柄がしなやかに伸びている。


 彼女曰く、「長い方が素早く、均等にステアできるし、何より所作が美しく見えるんです」


 確かに、彼女の手の中でそれはまるで細長い指揮棒のように優雅に舞う。


 スプーンの先端をグラスの底近くまで沈め、親指と人差し指で軽くつまむように持ち、中指と薬指で支える。


 定番の「つまみ持ち」だ。


 まず、スプーンの背で氷をゆっくりと持ち上げる。


 底の大きな氷がふわりと浮き上がり、液体を優しくかき回す。


 2回、3回と繰り返すと、今度はスプーンの柄を軸に、グラス内側を円を描くように軽くステア。


 音はほとんど立てず、ただ液体が静かに渦を巻く。


 あっという間に、泡の層が均等に整い、グラス全体が一体感を帯びた。


 

 「お待たせいたしました。ジンフィズです」


 美和さんは満足げに息を吐き、コースターの上にそっとグラスを置いた。


 バカラのパーフェクション・タンブラー——その透明で薄いクリスタルの中に、3つの透明なキューブアイスが静かに浮かぶ。


 液体は淡い乳白色に霞み、表面から細やかな泡が絶え間なく立ち上っている。


 シュワシュワという小さな音が、静かな店内に心地よく響く。


 レモンの爽やかな香りがふわりと漂い、飲む前から喉を刺激する。


 「いただきます」


 彼はグラスを手に取り、ゆっくりと唇を寄せた。


 切れそうなほど薄いリムの感触が心地よい。


 傾けると、冷たい液体が舌を滑り、喉奥まで一気に落ちていく。


 ジンのクリーンな風味、レモンの鋭い酸味、シロップのほのかな甘みが絶妙に溶け合い、最後にソーダの微かな苦味と泡の弾ける爽快感が追いかけてくる。


 すっきりとして、なのに奥行きがある。


 体温を一瞬で奪うような冷たさが、心地よい痺れを残した。


 「レモンが効いて、すごくすっきりして美味しいです。さすがですね……何杯でも飲めそうですよ」


 彼が素直に感想を口にすると、美和さんは目を細めて嬉しそうに微笑んだ。


 頰がほんのり上気しているように見える。


 「嬉しいこと言ってくれますね。じゃあ、1杯……私からサービスさせて頂きますね♪」



 彼女はそう言うと、すぐに新しいグラスを準備し始めた。


 バックバーから同じビーフィーターのボトルを手に取りながら、軽くウィンクを寄越す。


 「今度は、少しレモンを多めにしてみましょうか。どうです?」


 彼はグラスをもう一口傾けながら、にやりと笑った。


 「楽しみにしてます」


 カウンターの向こうで、美和さんの指先が再び軽やかに動き出す。


 店内には、氷の音と泡の音、そして二人の静かな笑い声だけが響いていた。


 グラスを傾けながらその様子を眺めていると、美和さんは新しいタンブラーとシェイカーを取り出し、冷蔵庫から牛乳のボトルをそっと引き出した。


 ……何を作るんだろう?


 彼は不思議に思いながら、残りのジンフィズをゆっくり味わいつつ、彼女の動きに目を凝らす。


 美和さんはテキパキとシェイカーにジンを注ぎ、搾りたてのレモンジュース、シュガーシロップを加え、最後に牛乳を静かに流し込んだ。


 白い液体が透明なベースに溶け込み、すでに少し霞んだ色合いを見せる。


 おもむろにシェイカーを構え、軽く振る。キンキンという氷の音がいつもより柔らかく、牛乳のせいか少し重みのある響きに変わっている。


 彼女の腕は、いつものように正確で優雅だ。


 レモンの酸で牛乳が凝固しないよう、素早く、しかし強くないシェイク——それがポイントだと、後で教えてくれた。


 シェイクを終えると、タンブラーにストレイナー越しに注ぎ入れる。


 氷を数個沈め、ソーダを静かに、氷に当てぬよう隙間から注ぐ。


 最後にバースプーンで軽くステア。


 液体が乳白色に輝き、表面に細かな泡の層がふわりと浮かぶ。


 まるでミルクを注いだグラスそのもの——いや、もっと上品で、微かにレモンの香りが漂う。


 もう一枚コースターを彼の前に置き、先ほどのグラスをそっと滑らせる。


 「はい、ジンフィズです」


 いたずらっぽく、悪戯な笑みを浮かべて美和さんが言った。


 「え、これも……ジンフィズですか?」


 彼は目を丸くして問い返す。


 見た目は完全にミルクだ。


 美和さんはくすりと笑い、


 カウンターに肘をついて説明を始めた。


 「はい、こちらは正式名称『モーニング・ジン・フィズ』。

 別名『會舘フィズ』とも呼ばれます。

 東京會舘のレシピですよ。

 戦後、GHQ接収時代に生まれたんです。


 将校たちが朝から——というか昼間からお酒を飲みたいのに、上層部(マッカーサー元帥の目も厳しかったそうですが)にバレないよう、ジンフィズに牛乳を入れて『ミルクを飲んでる』ように見せかけたのが始まりだとか。

 見た目が白くてお酒に見えないから、『モーニング・フィズ』とコードネームでオーダーしてたんですって」


 彼女の声は少し懐かしげで、歴史を語るような柔らかさがあった。


 彼はグラスを手に取り、恐る恐る一口。


 牛乳のまろやかさがジンの鋭さを包み込み、レモンの酸味が後から爽やかに追いかけてくる。


 シュワシュワの泡が舌で弾け、クリーミーなのに後味はすっきり。


 普通のジンフィズとは別次元の、優しくて深い味わいだった。


 目を閉じると、戦後の東京會舘のバーにタイムスリップしたような幻が浮かぶ。


 GHQの将校たちが軍服姿でカウンターに並び、昼下がりの陽光が窓から差し込む中、「モーニング・フィズを」と小さな声でオーダーする。


 バーテンダーがにやりと笑って牛乳を注ぎ、誰も気づかぬ秘密の酒宴。


 煙草の煙とグラスの音、遠くで響くジャズ……そんな別世界の光景が、喉の奥に温かく広がった。


 「同じジンフィズなのに、こうも違うんですね……また一つ、勉強になりましたよ」


 彼がグラスを軽く持ち上げてお礼を言うと、美和さんは目を細めて嬉しそうに頷いた。


 「ふふ、気に入ってもらえてよかったです。牛乳が入ると、こんなに優しい味になるんですよね」


 暫し、二人はカクテル談義に花を咲かせた。


 東京會舘の昔話、GHQ時代の逸話、他の隠しカクテル……時間がゆっくりと流れていく。


 すると突然、美和さんがぴくりと反応した。


 何かに気づいたように、入り口の方へ顔を向ける。

 彼もつられて視線を移すと、ちょうどその時——キィ……と小さな音を立てて、店の扉がゆっくり開いた。


 「とても懐かしい気配がしたと思いましたが……やはり貴女でしたか」


 美和さんが小さく呟き、柔らかな笑みを浮かべる。


 扉の向こうに立っていたのは、先ほど道でちらりと見かけたあの白人の女性だった。


 柔らかい金髪を肩に流し、穏やかな微笑みを湛えて。


 彼女の瞳には、どこか遠い記憶を宿したような光が揺れていた。


 店内の空気が、ほんの少しだけ変わった気がした。

 

んでくださってありがとうございます。


この話は、

「秋の夜に、ふとした出会いが心に小さな波紋を残す」

という、静かで少し不思議な余韻を描きたかっただけの一場面です。


道端で出会った金髪の女性と、黒猫との会話。

「またね、色男♪」という囁きと、頬に残る口紅の跡。

そして、それを振り払うように向かったBar風花で待っていたのは、

いつもの美和さんの優しい笑顔と、温かいおしぼり。


派手な事件も大きなドラマもない、

ただ「今ここにいる」ことの不思議さと、

「また来てくれる人がいる」という小さな安心を、

誰かの胸にそっと残せていたら嬉しいです。


Bar風花は、どんな出会いがあっても、

どんな謎があっても、

静かに扉を開けていられる場所であり続けたいと思います。


またふらりと寄ってくださいね。

次はどんな不思議と、どんな一杯が待っているのか……私にもまだわかりません。


それでは、今夜も良い夜を。


天照(Bar風花)

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