22杯目 開店祝いのサロンと、懐かしい再会の夜
【前書き】
※本作は静寂と美酒、そして神々の残り香が漂う『Bar風花』の物語です。
※作品内に登場する銘柄やカクテル、道具はすべて実在する品々をモデルにしております。
※今夜は東京から訪れた一人の客人と、至高のシャンパーニュを巡る物語です。
夜の冷気が路地の隙間を抜け、重厚なオークの扉を揺らすとき。
店内に現れたのは、漆黒のスーツを身に纏い、美しき怪物(Z31)を奔らせてきた旧き友。
持ち込まれた祝福の泡と、ロシア皇帝の愛した黄金の結晶が、静かなカウンターに密やかな熱を灯していきます。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてください。
第 一 章:白の訪問者
扉が静かに開き、夜の冷たい風が一瞬だけ店内に忍び込んだ。
入ってきたのは、漆黒の高級ビジネススーツに身を包んだ女性だった。
シングルブレストのジャケットは完璧なテーラリングで体に沿い、肩のラインがシャープに決まっている。
腰をきゅっと締め上げたタイトスカートは膝上丈で、歩くたびに上質なウールの生地が微かに音を立てる。
黒のストッキングが脚をより長く、引き締まって見せていた。
左手に持つのは、Hermèsのクラシックなブランドハンドバッグ。
深い黒のレザーが照明を吸い込み、控えめな金具が鈍く光る。
右手には、黒と金のリボンで丁寧にラッピングされたシャンパンボトルがしっかりと握られていた。
カツ……カツ……。
細いヒールの音が、店内の静けさを優しく切り裂く。
彼女はゆっくりと視線を巡らせ、唇に懐かしい笑みを浮かべた。
「今晩は。久しぶりね、美和」
声は柔らかく、昔からの親友にしか出せない甘い響きがある。
でもその瞳の奥には、変わらない鋭さが潜んでいた。
カウンターに近づくと、ジャケットの裾が軽く揺れる。
右腰のあたりで、スーツの生地の下に微かな膨らみ――コンシールドホルスターに収まったコルト・ディフェンダー。
.45ACPの小さな重みが、彼女の歩調に合わせてわずかに位置を変える。
ジャケットの影に隠れて目には映らなくても、長年の付き合いだからこそ、そこに『それ』が潜んでいる気配をはっきりと察してしまう。
「貴女がお店を開いたって聞いたから、仕事のついでに顔を出させてもらったわ。小さいけれど、本当に素敵な雰囲気のお店ね」
視線は棚のボトルをなぞりながらも、店内の隅々を素早く確認する癖。
プロの習慣は、親友の前でも消えない。
美和の横を通り過ぎ、カウンター前に立つ。
手にしてハンドバッグを傍らの椅子へそっと置くと、ラッピングされたボトルを優雅な手つきで、しなやかにカウンターへ滑らせた。
「はい、これ。開店祝いよ」
美和は目を細めてボトルを見つめ、ラッピングを剥がした瞬間――息を飲んだ。
「……これ、サロンじゃないですか! しかも1996年!? この年はシャンパンの超当たり年ですよ! 一体これ、いくらしたんですか? こんな高価なもの受け取れませんよ!」
慌てて返しようとする美和の手を、彼女は片手でひょいと軽く制した。そのままカウンターに優雅に肘をつき、悪戯っぽく微笑む。
「気にしないで。せっかくのお祝いなんだから、素直に受け取ってちょうだい」
「駄目です!お返しします!」
「一度あげたものは受け取らない主義なの。私の性格、知っているでしょう?」
「もう……!」
「だーめ」
押し問答が延々と続く。
美和はついに根負けし、くすりと苦笑を漏らしながら、愛おしそうにボトルのラベルを指先で撫でた。
「……全く。この一本で、この店で何日飲めると思ってるんですか……。本当に貴女は相変わらずですね……」
ブツブツ言いながらも、目尻に嬉しさがにじむ。
彼女は満足げにカウンターに顎を乗せ、親友の顔をじっと見つめた。
「とびきりの極上物でしょう? 貴女のお店の門出だもの、これくらい用意しなきゃ祝いにならないわ」
カウンター越しに流れるのは、長い年月を越えた確かな絆と、それぞれの道を歩んできた者同士の静かな緊張感。
照明の下で静かに佇むサロンのボトルが、二人の深遠な時間を仄かに照らし続けていた。
第 二 章:影と再会
「さて、では久しぶりに美和の作るカクテルをご馳走になりましょうか」
彼女はそう言いながら、彼の横に席を一つ開けてゆっくりと腰を下ろした。
漆黒のタイトスカートが軽く皺を寄せ、ヒールが床に軽く触れる音が小さく響く。
彼女はハンドバッグを背もたれと体の間にそっと挟み込むと、右腰に潜むコンシールドホルスターの微かなズレを自然な所作で整えながら、ゆっくりと身体を預けた。
座った瞬間に伝わる銃の重みを完璧に殺しながらも、その表情には優雅な笑みしか浮かべない。
「あら? Barのチェアーにしては少し低めかしら?」
彼女は肘掛けから座面の端へとすっと指先を滑らせ、上質な革の感触を確かめるように目を細めた。そのまま背もたれへと静かに身体を預ける。
「でも……この座り心地、すごく良いわ。クッションの沈み具合も絶妙だし、背中のサポートもちゃんとしてる。結構良いチェアーじゃない。随分奮発したでしょう?」
美和はカウンターの向こうでくすりと笑いながら、腰のポケットから取り出したコースターを彼女の前にそっと置いた。
続けて、冷たいお絞りを差し出す。
「ええ。お越しいただいたお客様に、心から寛いでいただきたくて。全国の家具工房をいくつも巡って、実際に座り心地を確かめて選んだんです。このチェアーの高さと革の質感だけは、絶対に譲れませんでしたから」
彼女は受け取ったお絞りを両手で包み込み、ほっそりとした指を優雅に拭う。
シミひとつ、傷ひとつない白い肌が、照明の下で柔らかく輝いた。
「ふぅ……冷たいお絞りって、本当に気持ちが良いわね。……あら? ほんのりミントの香り?」
鼻先を近づけ、軽く息を吸い込む。
その仕草さえ、どこか計算されたような優美さがあった。
「日本のBarならではの、ささやかな涼のおもてなしです。ハッカの香りをごく微かに忍ばせておりますので。お車の運転でお疲れの手元を、少しでもリフレッシュしていただければと思って」
美和がそう答えると、彼女は心地よさそうに指先を拭いながら、お茶目に目を細めた。
「相変わらず細かいところまで凝るわね……本当に。昔からそうだったけれど、自分の城を持ったら輪をかけて磨きがかかったんじゃない?」
呆れたような、けれど確かな感嘆の籠もった声だった。
美和は肩をすくめて笑う。
「褒め言葉として受け取っておきますね。お越しいただいた方に満足していただくのが、私の仕事ですから」
彼女は綺麗に折りたたんだおしぼりをおしぼり受けに戻すと、満足そうに瞳を細めた。
美和は微笑みをたたえたまま自然な所作で姿勢を正すと、静かに彼のほうへと視線を滑らせた。
「彼さん、ご紹介しますね。私の古い友人の、ソフィアです。ロシア系のアメリカ人で、東京で古美術商を営まれている方なんですよ」
紹介する美和の瞳には、プロとしての凛とした光と、親友に向けられた微かな懐かしさがと同居していた。彼はそれに穏やかな笑みで頷き、静かに頭を下げる。
ソフィアは優雅な所作で彼へと視線を巡らせると、仕立ての良いジャケットの裾を軽やかに整え、軽く目を細めた。
一瞬の無駄もない洗練された身こなしのまま、親愛の籠もった笑みを彼に向ける。
「はじめまして、ソフィア・カヴェーリンです。ソーニャとお呼びください」
柔らかな声とともに、彼女はスッと右手を差し出した。
細く白い指先、完璧なネイル。
まるで大理石の彫刻のような手だった。
彼は思わず息を呑み、どぎまぎしながらその手を握り返す。
瞬間、東スラヴ系の完璧な美貌が間近に迫った。
高い鼻梁、透き通るような白い肌、長い睫毛の下で静かに輝く琥珀色の瞳——その美貌に、柔らかくもどこか射抜くような笑みを浮かべる。
視線が交差した瞬間、胸の奥で何かが静かに軋みを上げた。
深く、吸い込まれそうな琥珀色の瞳。その奥底に潜む抗いがたい磁力に捉われ、一瞬、呼吸することさえ忘れてしまう。
抗わなければという本能の警鐘を置き去りにして、懐かしくも胸を締め付ける熱い想いが波のように押し寄せてくる。ずっと昔から知っているような、決して手放してはならない存在であるような——。
(……この人は、一体……?)
射抜かれたように、彼女の瞳から目を離すことができなかった。
――パンッ!
突然、店内に鋭い柏手の音が響き渡った。
ハッと我に返った彼が気配のした方へ目を向けると、そこには完璧な笑みを絶やさぬまま、どこか冷ややかな視線を向ける美和が立っていた。
「ソーニャ……当店で、私のお客様に悪戯をするのはやめていただけますか?」
低く澄んだ声。グラスを磨く美和の手元は静止しており、カウンターには緊張感のある静寂が落ちていた。
普段は穏やかな微笑みを絶やさない美和から、見たこともないほど冷たい圧気が立ち上っている。
息を呑むような静寂の中、彼は彼女の内に秘められた激しい嫉妬と凛とした威厳に、背筋が凍りつく思いだった。
ソフィアはケラケラと子供のように笑いながら、美和に肩をすくめてみせる。
「浮いた話の一つもなかった貴女が、珍しく『憎からず思ってる男』がいるって聞いたから、どんな男性か、少し確かめてみたくなったのよ」
悪びれる様子は微塵もなく、彼女は優雅に肩をすくめて見せた。その瞳には、親友をからかう悪戯っぽい光が宿っている。
「貴方にもごめんなさいね。でも貴方も随分と面白い縁を持ってるみたいね……」
そう言うと、ソフィアはカウンター越しにそっと身を乗り出し、彼の肩に優雅な手つきで触れた。
ふわりと漂う上品で深い『Tom Ford』の『Noir de Noir』——深紅のバラとブラックトリュフが織りなす甘美な香りが、一瞬で彼の鼻腔を支配する。
彼女は彼の頬のすぐ近くまで顔を寄せると、吐息が触れるほどの距離で甘く囁き、親愛を込めるようにそっと唇を寄せた。
チュッ、という小さな音。
「……ソフィア。度重なる『悪戯』は、当店では出禁の対象になりますけれど?」
美和の声は静かだが、氷のように澄み切っていた。
グラスを拭くクロスを優雅に畳む手元に迷いはない。だが、そのアンバーとワインレッドの異色瞳には、プロの顔の奥に隠しきれない、一人の女性としての静かな嫉妬の火が宿っていた。
ソフィアはそっと身体を戻すと、いたずらっぽく瞳を細めて彼に囁いた。
「驚かせてごめんなさいね。でも、あんなに必死な美和が見られただけで、今日ここへ来た甲斐があったわ」
そのアンバーの瞳には、親友の幸せを確かめられたことへの確かな満足感が揺れている。
背後からは、美和が静かにグラスを磨く音が響いていた。その完璧な横顔からは普段の柔らかさが消え、ただ静かな圧気が空間を支配している。
第 三 章:ハイウェイの記憶
美和が静かにグラスを磨き上げ、静寂の中に涼やかな氷の音を響かせた頃、店内に満ちていた冷たい圧気は緩やかに失われていった。
一人の女性としての嫉妬を内に秘め、再び凛としたバーテンダーとしての微笑みを湛える。
柔らかなアンバーの照明と桜の微かな香りが、何事もなかったかのように静寂な空間を優しく包み込んでいった。
二人の間に漂う独特の緊張感を察し、天は静かに言葉を紡いだ。
「……そういえばソフィアさん、東京からお車で来られたのですか? 店に入る前、路地に停められた美しい品川ナンバーのフェアレディZから、貴女が降りて来られるのをお見かけしたのですが」
(……間近で受けたあの尋常ではない気配と、甘い香水の残香を意識から追いやるように、彼は意識して落ち着いた声を作った)
指先でコースターを優雅に弄りながら、ソフィアは愉しそうに琥珀色の瞳を細めた。
美和の手によって静かに置かれた、心地よく冷えたおしぼり。注文すらまだ交わされていないカウンターの上には、大人たちの優美でどこか密やかな静寂が満ちていた。
「ええ。手元に置いておきたい荷物もあったし、自分の車で移動するのが一番性に合っているの。だからあの子と東京から来たのよ」
ソフィアはそっと微笑み、くつろぐように背もたれに身を預けた。
「道中、血の気の多い車にいくらか絡まれはしたけれど……まあ、良いドライブの気晴らしにはなったわ」
彼女はあまりに平然と、まるで爽やかな休日ドライブの思い出でも語るように口にする。
そのどこか穏やかではない内容に、彼は興味を惹かれながらも静かに問いかけた。
「……何度も、ですか。随分と賑やかな道中だったのですね」
ソフィアはそっと肩をすくめ、悪戯っぽく琥珀色の瞳を細めた。
「ええ。女性が仕仕立ての良いZを転がしているのが気に入らなかったのかしら。無礼な合図を出して横に並びかけてくるお行儀の悪いお車がいてね。少し身の程を教えて差し上げようとペダルを踏み込んだら、そのままバックミラーから消えてしまったわ。……確か、次に差し掛かったジャンクションの手前でも、似たような方がいらしたかしら?」
小皿を静かに並べながら、美和が冷ややかに口を挟む。
「当然でしょう。あのZ31はボディからフルレストアされて、心臓部もRB26へ載せ替えられた特別製だもの。600馬力を超えるモンスターを彼女の腕で走らせて、ついて来られる車なんてそうそういないわ」
美和は何でもないことのように言い捨てるが、彼は内心で息を呑んでいた。
(……名機RB26へのエンジンスワップに、600馬力オーバーの極限チューン。さっき表の路地で見かけたあの白いZ31……確かに触れれば切れるような、異様なオーラを纏っていたわけだ)
完璧なクラシックカーの皮を被った怪物を、平然とハイウェイで乗りこなす目の前の美女。彼は平静を装いながら、ソフィアという女性の底知れなさを再認識していた。
ソフィアはくすりと胸を揺らして笑うと、冷えたおしぼりを綺麗に畳みながら言葉を繋いだ。
「まあね。最初は威勢の良かったお友達も、バックミラーの中で小さくなっていくうちに現実を理解されたみたい。最後はすっかり追走を諦めてしまって、なんだか少し可哀想になったくらいよ」
すると美和がグラスを置く手を止め、羨望を密かに潜ませた涼やかな声で言った。
「けれど、なぜ今回はあのLFAで来られなかったのですか? 世界50台限定のニュルブルクリンクパッケージをお買いになったとお聞きしましたけれど……あちらであれば、追いつく隙すら与えなかったでしょうに。私、一度拝見してみたかったのに……」
ソフィアはそれを聞くと、苦笑交じりに応えた。
「あの車も魅力的だけれど、リヤのラゲッジスペースが皆無に近いのよ。今回の旅は『荷物』が多いから、選択肢から外したの」
ソフィアは冷えたおしぼりで優雅に指先を拭うと、さも当然といった風に肩をすくめた。
「仕事柄、大型のスーツケースや機材を複数積み込むのはいつものことですもの。今回は……少し大掛かりな『調査』が目的だから」
「……調査、ですか」
彼が静かに眉を潜めると、ソフィアは琥珀色の瞳を細め、甘く言葉を濁した。
「ええ、古美術商としての仕事よ。価値ある品を傷つけずに運ぶとなると、どうしても車体が大きくて頑丈な車が必要になるの」
美和は小さくため息をつき、静かな懸念を込めた瞳で親友を見つめた。
「また『調査』ですか……。本当にお気をつけくださいね、ソフィア」
「大丈夫よ。今までだって、すべて上手くやってきたでしょう?」
ソフィアはそっと手伸ばし、美和の手元に自分の指を重ねて見せた。その優雅で揺るぎない所作には、数々の死線をくぐり抜けてきた者だけが持つ、不敵なまでの自信が満ちている。
二人の密やかなやり取りを傍らで聞きながら、彼は静かに思考を巡らせていた。
(……単なる古美術商の仕事ではない。600馬力のZを極限まで鍛え上げ、危険な『調査』を当然のようにこなす女性。そして、彼女の本当の顔を知りながら案じる美和さん……)
魅了の残り香が消えたあとに残されたのは、大人たちの底知れない深淵と、密やかな緊張感だった。
ソフィアはそっと顎を引くと、美和に向かって柔らかく微笑んだ。
「さて……そろそろ、貴女の一杯をいただこうかしら」
美和の瞳が一瞬、深い愛着と懐かしさに細められる。
「……かしこまりました。少々お時間をいただきますね」
静かな返諾とともに、美和は無駄のない洗練された所作でバックバーへと手を伸ばした。
クリスタルグラスが触れ合う涼やかな音と、氷を削る静かな響きが、店内の静寂を心地よく満たしていく。
第 四 章:皇帝の杯と遠い面影
「さ、まずは何を飲ませてくれるのかしら?」
ソフィアはカウンターに軽く肘をつき、魅惑的で少し意地悪な笑みを浮かべて美和に尋ねた。
琥珀色の瞳が照明を反射し、まるで宝石のように輝いている。
美和はくすりと笑って、バックバーのワインセラーに視線を移した。
「そうですね……先程、大変高価なお祝いをいただきましたし、お礼を兼ねて、まずは当店からシャンパンを一本プレゼントさせて頂きます」
そう言うと、美和はワインセラーの扉を開け、慎重に一本のボトルを取り出した。
琥珀色の液体が透き通る透明なガラスに、金色のエレガントなラベルが輝く、まさに芸術品のような佇まい。
ボトルをソフィアの前にスッと置き、美和は説明を始めた。
「ルイ・ロデレールのクリスタル、2008年ビンテージです。近年では最も評価の高い年の一つですよ」
透明なボトルに輝くゴールドのラベル——『クリスタル』の姿を捉えたソフィアの唇が、愛おしそうに弛む。
「ふふ……相変わらず、私の好みを完璧に掴んでいるのね。これ以上のご馳走はないわ」
ソーニャにとって何よりの好物であるそのシャンパンを、迷いなく選んでみせた美和のプロとしての矜持と気遣いに、彼女は贅沢な溜息を漏らした。
「このシャンパンは1876年にロシア皇帝アレクサンドル2世の味覚を満たすために生まれたんです。透明なクリスタルボトルに象徴されるように、味わいは柔らかく丸みのある口当たり。フルーティなアロマに力強いミネラル、白い花と柑橘類のアクセントが加わって……本当に素晴らしい一本です」
美和はそう言いながら、鏡のように磨き上げられた銀色のワインクーラーに水を張り、氷をたっぷり入れ、折り畳んだ白い布を下に敷いてセットした。
次にバックバーを振り返り、グラス収納棚から一脚の背の高いフルートグラスを取り出す。
ソフィアがそれを見て、目を丸くした。
「あら……ロブマイヤーのパトリシアン・シャンパン・フルートじゃない。随分と良いグラスを使ってるのね? そんな高価なグラス使ってたら、管理が大変なんじゃないの?」
少し呆れたような、でもどこか嬉しそうな声。
美和は肩をすくめて微笑む。
「せっかくなら、良いグラスでお酒を楽しんでいただきたいですからね。もちろん、お手頃な価格のグラスも使ってますよ。でも今日は特別です」
そう言いながら、美和はグラスをソフィアの前に置き、ワインクーラーの中のボトルに手を掛けた。
「待って美和。グラスは三つ用意してちょうだい」
ソフィアはくすりと艶やかな笑みを漏らし、美和の手元と彼の顔を交互に見やった。
「極上の『クリスタル』を一人で飲むなんて、そんな味気ない真似はしたくないわ。貴女も、それにそちらの彼も……私のお祝いに付き合ってくれるでしょう?」
ソフィアはニッコリと笑いながら、悪戯っぽく目を細めて言った。
滑り込んできた琥珀色の視線に捉えられ、彼はわずかに呼吸を整えた。
間近で触れた滑らかな肌の感触と、溢れ出る気品。ソフィアという女性が放つ底知れない魅力を真っ向から受け止め、彼は苦笑を潜ませる。
(……この美女の申し出を断れる男が、果たしてこの世にいるのだろうか)
美和はカウンターの向こうで、静かに薄い吐息を漏らした。
彼女は彼の方へと穏やかな視線を向ける。
右目がワインレッド、左目がアンバーのその美しい異色瞳の奥には、どこか途方ない歳月を静かに湛えてきたような、底知れぬ深みがあった。
「ごめんなさいね、彼女いつもこんな感じなんです。マイペースで気まぐれで気分屋で……まるで猫ですよね……」
苦笑いを浮かべながら、美和はバックバーの棚からリーデルのシャンパンフルートをもう2脚取り出し、スピル・バー・マットに丁寧に並べた。
その一連の動作は、まるで古い神事が繰り返されるように、無駄がなく、優美だった。
腰のポケットから取り出したラギオールのソムリエナイフ――背面に精緻な彫刻が施された美しい一本――で、ボトルのシールを滑らかに切り取り、剥がす。
ミュズレを外し、コルクを露わにすると、両手でボトルの底と首をしっかりと支え、ゆっくり回転させながら圧力を抜いていく。
プシッ……という小さな、息を潜めたような音。
泡が静まるのを待って、ナプキンで口元を拭い、3脚のグラスに交互に3回ずつ、優しく注ぐ。
細かな泡がグラスの中で踊り、琥珀色の光が店内の照明を柔らかく反射した。
ソフィアは立ち上る幾千の黄金の泡を見つめ、優雅にグラスを掲げた。
「Congratulations on your grand opening. 美和の新たな門出と、変わらぬ健やかさ、そして愛すべき日々に祝福を。……乾杯(Santé)」
美和の瞳が優しく揺れ、深く澄んだ声が応える。
「ソーニャ、ありがとう。……乾杯」
彼も静かな所作でグラスを掲げ、二人の祝杯に優雅に言葉を重ねた。
「乾杯。素晴らしいお祝いに同席できて光栄です」
三つのフルートグラスが静かに寄り添い、立ち上る黄金の泡が照明を受けて煌めいた。
グラスを軽く掲げて目線を合わせ、3人は微笑みながら乾杯すると、ほぼ同時にグラスに口をつけた。
彼の舌に広がったのは、クリームのように滑らかな泡の感触。
柔らかく複雑な味わい、白い花の香り、白桃や白ブドウ、柑橘類の透明感のあるフルーティーさが一気に広がり、圧倒的なみずみずしさ。
飲み込んだ後も、香りの余韻が長く残り続ける。
(……かつてロシア皇帝アレクサンドル2世が愛したという逸話にも、深く頷ける。繊細で気品あふれるこの味わい……なるほど、至高の泡と称されるわけだ)
ソーニャも目を閉じて一口味わい、満足げに微笑んだ。
「ありがとう、美和。言葉にしなくても、私が何を求めているか……貴女にはすべてお見通しなのね」
空になったグラスをコースターに置きながら、彼女はそう言った。
美和は優雅に2杯目を注ぎ足しながら、静かに答える。
「当たり前ですよ。古いお付き合いなんですから……。でも、貴女と初めてお会いした当時のお友達も、随分と減りましたよね……」
その言葉に、微かな寂しさが混じる。
美和の笑みは優しいのに、どこか永遠の時を生きる者の孤独を宿しているように見えた。
だが彼には、それがただの「昔の友達が減った寂しさ」にしか聞こえなかった。
ソーニャもグラスを軽く回しながら、静かに頷いた。
「そうね……随分減っちゃったわね……」
二人の間に、長い年月を越えた重い空気が流れる。
失われた友人たちの影が、静かに店内に漂った。
それを振り払うように、ソーニャが明るく声を上げた。
「あ、そう言えばこの間仕事で岩手に行ったんだけど、遠野に会って来たわよ。あの子も貴女に会いたがっていたわ。ここで店を開いたって話したら、『中々遠野を離れられないけど、一度時間を作って絶対に訪ねるから宜しく』って」
美和の顔がパッと輝いた。
まるで山の頂に咲く一輪の花が、突然陽光を浴びたように、満面の笑み。
「瑠璃音に会ったんですか!? 彼女、元気にしてましたか? 会いたいです!」
ソーニャはくすりと笑い、彼の方へ視線を移す。
「ああ、貴方は知らないわよね。私たちの古い知り合いの子よ。遠野の神社で巫女を勤めているわ。きっと貴方も、近い内に会えるわよ……きっとね」
整った唇が微かに動き、男なら誰もが心を奪われるような美しい微笑みを浮かべながら、彼女はそう言った。
その瞳の奥に、遊び心と――古い神々に仕える者の静かな覚悟が、ほんの一瞬だけ垣間見えた。
だが彼には、それがただの「妖艶でミステリアスな笑み」にしか見えなかった。
シャンパンの深い余韻を味わいながら、彼は静かに目を細めた。
(……美和さんは一人の美しい女性であり、完璧なバーテンダー。ソフィアさんは浮世離れした美貌を持つ古美術商。そして遠野も、神社を守る普通の巫女なのだろう)
そう思い込もうとすればするほど、彼女たちの佇まいの奥に潜む「圧倒的な何か」が、静かな違和感となって胸の奥に漂っていた。
カウンターの向こうで、美和が海里の話を楽しげに聞き始め、ソーニャがからかうように笑う。
2008年のクリスタルが、三人のグラスの中で静かに泡立ち続けていた。
夜は、まだ深く、優しく、穏やかに続いていく。
彼は知らない。
目の前の女性が、かつて桜の木の下で神々の愛を一身に受けた神であり、もう一人が、旧き神の眷属であることを。
彼はただ、美味しいシャンパンを味わいながら、二人の笑顔に癒されていた。
【あとがき】
今夜も『Bar風花』の扉を開けていただき、誠にありがとうございました。
東京からやってきたソフィア(ソーニャ)の登場によって、美和のプロとしての凛とした佇まいと、彼に向けられる可愛らしくも鋭い「嫉妬」の素顔が覗く一夜となりました。
ロシア皇帝アレクサンドル2世に捧げられた『ルイ・ロデレール クリスタル』のきらめきとともに、神々の縁と人としての温かな時間が、読者の皆様の心にも微かな余韻を残せたなら幸いです。
もしこの静かな夜のひとときを気に入っていただけましたら、下部よりブックマーク登録や評価(★★★★★)、また感想などをお寄せいただけますと、執筆の大きな糧となります。
またのお越しを、心よりお待ちしております。
天照(Bar風花)




