【Bar風花】第二章 琥珀色の揺らぎと去りゆく時間 〜凛としたオーナーバーテンダーは狂おしい愛に溺れて店を閉ざす〜
【前書き】
※本エピソードは、時に深く、時に狂おしいほどに惹かれ合う夫婦の「愛の深淵」を描いたお話です。
※神としての永遠と人間の有限が交錯する静かな一夜を描いています。
※酒の温もりと深い執着が織りなす、二人だけの秘密の時間をお楽しみください。
風花町の夜が更ける直前、開店前の『Bar 風花』で落ちる涙。
重ねた年月とともに深まる「老い」への恐れと、変わらぬ美しさを誇る妻への狂おしいほどの独占欲。
重厚な扉に鍵が掛けられたとき、静寂の店内に二人だけの密やかな神域が生まれます。
どうぞ、そっと鍵の開かない扉の向こう側を覗いてみてください。
第一章 琥珀色の揺らぎと、手帳の余白
風花町の夜は、静かに更けていく。
『Bar 風花』の開店まで、あと小一時間。客を迎え入れる前の店内は、まるで外界の時間を遮断した密室のように澄みきっていた。
程良く空調の効いた空気はひんやりと静かで、耳障りにならないボリュームのジャズが、遠くからそっと流れている。古いレコードの針が落ちる微かなノイズと、ピアノの余韻が空間の薄暗さに溶けていく。
重厚な鉄刀木の一枚板カウンター。その端で、櫻庭天は愛用の取材ノートを開いていた。
万年筆の先が、紙の上でわずかに滞る。
天が視線を落としていたのは、数年前に撮られた一枚の写真だった。風花町の枝垂れ桜を背景に、肩を並べて写る自分と美和。
写真の中の美和は、今と何一つ変わらない。
右目が艶やかなワインレッド、左目が静謐なアンバー――その異色の瞳は、出会ったあの日のままだ。光を透かす透き通るような肌も、しなやかな立ち姿も、時間の洗礼を一切受けていない。
「……変わらないな」
ぽつりと落とした呟きは、レコードのノイズの中に消えた。
美和は神――木花咲耶姫の現身でありながら、今は血の通った「人間の肉体」を宿している。怪我をすれば血も流れるし、美味しいものを食べれば笑う。
けれど、神としての絶対的な祝福ゆえに、彼女の肉体には「老い」という現象が存在しなかった。命は有限であり、いつかは寿命を迎える。しかし、その時が来るまで、彼女の姿は出会った時のまま、完璧に美しく、みずみずしいままだ。
対して、自分はどうか。
天はノートの脇に置いた手鏡を、何気なく手にとった。
目元に、うっすらと刻まれた細いシワ。四十代を迎え、フリーランスのルポライターとして全国を飛び回るうちに、確実に積み重なってきた年月の痕跡。
人間である以上、自分は老いていく。髪には白いものが混じり、肌は艶を失い、やがて背中が曲がり、命の灯火が消える日が必ずやってくる。
どれほど深く愛し合っていても、自分だけが時間の坂道を下っていくのだ。
そのとき、先日の取材先での光景が、脳裏を掠めた。
九州の旧家で出会った、刀剣と伝承を研究する老史学者。彼は、何百年も変わらぬ姿で受け継がれてきた名刀を前に、こう語っていた。
『形あるものは移ろい、人は去る。だが、神域の鋼だけが時を置き去りにするのだよ。……置き去りにされる人間の悲哀など、刀は知る由もないがね』
去る人間と、置き去りにされる神域。
ルポライターとしての冷徹な観察眼が、その言葉の正しさを理解していた。しかし、ひとりの男としての感情が、胸の奥を鋭く締め付ける。隣にいる完璧に美しい美和さんの「体温」を感じながらも、その「変わらぬ姿」に、天は時折、ぞっとするような断絶を感じることがあった。
今夜の天は、いつになく酔いが回るのが早かった。開店前の景気付けにと、美和が仕立ててくれた温かいカクテル――ホット・バタード・ラムの甘く濃厚な香りとアルコールが、理性の堤防をじわじわと削り取っていく。
「天ちゃん?」
バックバーでグラスを磨いていた美和が、ふと手を止めて振り返った。
美しい異色瞳が、どこか不安げな表情を浮かべる天の顔を捉える。
カウンターの上には、余計なものは一切置かれていない。バーマットの上にぽつんと置かれた、水の張られた大きなブランデーグラスと、色鮮やかな柑橘の籠。その静謐な世界の中に立つ美和は、あまりにも美しく、そしてどこか遠く見えた。
第二章 子供のような駄々と、背中の温もり
「……美和さん」
「ええ、何かしら?」
美和が柔らかく微笑み、再びグラスに視線を戻そうとした、その瞬間だった。
ガタリ、とローチェアーが音を立てる。
天は立ち上がると、カウンターの脇を通り抜け、一直線に美和の元へと歩み寄った。そして、何の前触れもなく、バックバーに向かっていた彼女の細い腰に、後ろからしがみついたのだ。
「……っ!?」
手にしたバカラのグラスが、手元から滑り、作業台に敷かれた厚手のクロスの上へ静かに転がった。美和は驚き、異色瞳を大きく見開いた。
天の腕が、折れよとばかりに強く自分の腰を抱きしめている。背中に押し付けられた彼の額から、熱い体温がダイレクトに伝わってきた。
「天ちゃん……? どうしたの、急に――」
「美和さん……浮気しないでね」
背中から聞こえた声は、ひどく震えていた。
普段の知的で冷静なルポライターの面影など、微塵もない。酒の勢いに背中を押され、心の底に溜め込んでいた不安を溢れ出させる、幼い子供のような声だった。
「僕以外の男とか……神様とか見ちゃダメだよ! 絶対に浮気しないで……!」
「な、何を言っているの?私があなた以外の誰かを――」
「僕を捨てないでね!?」
天は美和の腰に顔をうずめたまま、必死の覚悟で言葉を叫んだ。
「今はよくても……これから何年かして、僕がどんどんおじいちゃんになって、顔中にシワができて、カッコ悪くなっても……美和さんはずっと綺麗で、若々しくて……出会った日のままなのに、僕だけがおじいちゃんになっていくのが寂しいんだもん……。だから『天ちゃんはもういいや』なんて捨てないでね!? 僕は……僕は美和さんがいない世界なんて一秒だって生きていけないんだからね……!」
背中に、温かい湿り気が広がる。
天が泣いていた。鏡を見るたび、並んで写真を撮るたび、天が抱いてきた「自分だけが去りゆく存在である」という残酷なビジュアルの対比、時間の差への恐れ。それが、酒の力で爆発してしまったのだ。秘書官の里美に「暴走機関車」とまで評される、美和のことになると理性が吹き飛んでしまう天の純粋な狂気が、そこにあった。
美和は一瞬、呆然とした。
しかし、背中に伝わる彼の体温の熱さと、袖を固く握りしめる指先の震えを感じるうちに、彼女の胸の中に、疼くような愛おしさがこみ上げてきた。
歴史の激流の中で、兵器や国家が衰退し、人間の命が露のように消えていく姿を、歴史研究者のような冷徹さで見つめてきた男だ。だからこそ、時間の差という残酷な絶対壁を、誰よりも理解してしまっている。
自分の命が尽きたあと、残される美和の永遠。そこに挟まれるかもしれない、未知の誰かの影。天の不安は、単なる寂しさを超え、自分が死ねば、この完璧に美しい存在を、誰もいない世界に一人置き去りにしてしまうという、巨大な罪悪感と独占欲になっていた。
「……美和さんがもし明日いなくなったら、僕はその瞬間に後を追うよ。迷う理由なんて一つもないんだ。美和さんのいない世界で息をするなんて、僕にはただの地獄だから……。だから、お願いだから僕を一人にしないで……」
天のその言葉は、常軌を逸していた。だが、美和はそれを酒の上の冗談として笑い飛ばすことなどできなかった。なぜなら、自分も全く同じだからだ。天の命が尽きるときが来れば、自分もこの肉体の終わりを待つことなく、躊躇うことなく彼の後を追うだろう。それは、綺麗事ではない、重度で狂気的な共依存の絆だった。
「……ふふ」
美和の口から、小さな微笑が漏れた。
「笑いごとじゃないよ、美和さん……! 僕は本気なんだから……!」
「ごめんなさい。でも……あまりにも愛おしくて」
美和はそっと息を吐くと、腰に回された天の手の上に、自分の手を重ねた。
第三章 血の通う約束
美和はゆっくりと身体を反転させ、腰に回された天の腕の力を優しく緩めさせると、彼と正面から向き合った。
目の前にいる天は、目元を真っ赤にし、涙で頬を濡らしていた。四十を過ぎた大人の男が、鼻をぐずらせながら自分を見つめ返している。その滑稽なほどの必死さが、美和の心を狂おしいほど揺さぶった。
「天ちゃん。こちらを見てください」
美和は両手で、天の温かい頬を優しく包み込んだ。彼女の手のひらは、冷たい神像の石肌ではない。血が巡り、ほのかな体温を持った、確固たる「人間の肌」だった。
「触れてみてください。私の鼓動を」
美和は天の手を取り、自分の左胸――薄いブラウス越しに、確かに脈打つ胸の位置へと導いた。トクン、トクン、と規則正しいリズムが、天の掌に伝わってくる。
「私は今、あなたと同じ人間として、ここにいます。息をし、血を巡らせ、あなたと同じ空気を吸って生きている」
「でも……美和さんは老けない……。僕だけが……」
「ええ、私の姿は変わらないかもしれない。ですが……」
美和は異色瞳を柔らかく細め、天の額に自分の額をコツンと合わせた。至近距離で、二人の吐息が交じり合う。
「あなたが逝く時は、私もすぐに向かいます。あなたをあちらの世界で一人で待たせるような真似、私がするはずがないでしょう?」
美和は天の顔を包む手に少しだけ力を込め、その歪で純粋すぎる愛を全身で受け止めるように深く微笑んだ。
「私が愛したのは、あなたの若さでも、姿かたちでもありません。私を『木花咲耶姫』という神の重圧から解き放ち、ただの『美和』という一人の女性として抱きしめてくれた……あなたのその優しく、誇り高い魂です」
美和の指が、天の髪を優しく撫で上げる。
「あなたがどれほど年を重ねても。髪が白くなり、顔にシワが増え、歩みが小さくなったとしても……私の愛する夫は、過去も、現在も、この先永遠に、櫻庭天というあなた一人だけです。他の誰かが私の心に入る余地など、千年の時を遡っても存在しません」
「美和さん……」
「浮気など、するはずがないでしょう? こんなにも私を愛して、泣いてくれる可愛い駄々っ子を置いて、私がどこへ行くというのですか」
美和の言葉は、どんな神の宣託よりも深く、天の胸に染み渡っていった。ルポライターとしての疑念も、男としてのちっぽけな独占欲も、彼女のまっすぐな愛の前に溶けていく。
「……だって、美和さん綺麗すぎるから。僕、自信なくなっちゃうんだよ」
天がなおも往生際悪く呟くと、美和の唇が、妖艶な笑みを描いた。
第四章 鍵をかけた夜
「……自信がない、ですか」
美和の声のトーンが、わずかに低くなった。バーテンダーとしてカウンターに立つときの凛とした静謐さではなく、一人の妻として夫を惑わす、甘く濃厚な響き。
「そんなに不安なら……今夜は店を開けるのをやめましょうか」
「え……?」
「幸い、まだ開店時間前です。看板の明かりを灯さず、扉の鍵をしっかり締めて……」
美和は天の耳元にそっと顔を寄せ、吐息を吹きかけるように囁いた。
「あなたが『もう十分だ』と安心するまで……一晩中、私をあなたの中に閉じ込めておけばよろしいのではなくて?」
天の顔が、一瞬で耳まで真っ赤に染まった。涙で濡れていた目が丸くなり、言葉を失う。
「み、美和さん……!? 何を言ってるの……っ」
「ふふ。駄々をこねたお仕置きですよ、天ちゃん。私がどれほどあなただけに溺れているか、身をもって知っていただきます」
美和はそう言うと、天の首に両腕を回し、自ら背伸びをして彼の唇を塞いだ。
濃厚で、深い、甘い接吻。ラム酒の香りと、美和の体温が、天の感覚を麻痺させていく。ほんの数十秒前まで「置いていかないで」と泣いていた男は、今や妻の圧倒的な愛の深さに飲み込まれ、ただ彼女を固く抱き返すことしかできなかった。
ふと、美和が意図的に彼の唇を外し、ふわりと艶やかな笑みを零した。
「……天ちゃん。ここにも、私を刻んでおきますね」
そう呟くと、彼女は天の首筋へとその顔を寄せた。無防備に露出した喉元に熱い吐息がかかったかと思うと、次の瞬間、鋭く柔らかい感触が走る。
「っ……! みわ、さん……っ」
肌を吸い上げられる快感と、微かな痛みに、天の喉から甘い喘ぎが漏れた。毎日こうして互いの首筋に新しい痕をつけ合い、シャツの襟で隠し続けてきた――「私たちは完全に繋がっている」という、誰にも見えない絶対の烙印。美和は名残惜しそうにその赤みを帯びた皮膚を舌先でなぞり、満足げに顔を上げた。
今度は天が、獣のような独占欲に突き動かされるように、美和の白い首筋を引き寄せ、その細い肌に自分の歯と唇を深く食い込ませる。美和が小さく肩を震わせ、甘い吐息を彼の髪に落とした。
長い接吻が終わり、唇が離れる。美和の異色瞳が、熱を帯びて妖しく揺れていた。
「……どうしますか、天ちゃん? 今夜は、私を独り占めしますか?」
天は、赤くなった顔を美和の首筋に埋め、小さく、しかし確かな力で頷いた。
「……うん。離さない。絶対に……離さないからね」
「ええ。どうぞ、私を離さないでくださいね」
美和はしなやかに歩み寄ると、店の重厚なオーク材の扉の鍵を、カチャンと静かな音を立てて締めた。
外では、風花町の夜風が静かに吹いていた。街灯のアンバー色の光が路地を照らし、小さく揺れる枝垂れ桜が、仄かな香りを運んでくる。
人間の刻む時間と、神の宿る時間。ふたつの時間が交差するこの場所で、今夜はただ、互いの体温だけを確かめ合う深い闇が広がっていく。誰にも乱されることのない二人だけの『神域』に、静かに鍵が掛けられた。
【あとがき】
ご覧いただき、本当にありがとうございます。天照です。
今回は、人間の「時間の経過(老い)」と神の「不変」という、二人が抱える根本的な隔たりと、それを凌駕する狂おしいほどの共依存を描かせていただきました。
情けないほどに泣きじゃくりながら美和を求める天ちゃんと、その歪で純粋な愛を全身で受け止め、妖しく微笑む美和。
二人だけの世界に閉じこもる濃厚な一夜を感じていただけましたら幸いです。
作品を気に入っていただけましたら、ぜひブックマーク登録や作品への高評価(★)、そして温かい感想をお寄せいただけますと大変励みになります。
また次の夜も、風花町でお会いできることを楽しみにしております。
天照(Bar風花)




