【Bar風花】第二章 さくら色の湯たんぽと冷たい秋雨 〜神域の妻を抱きしめるルポライターは理性を忘れて愛を唱える〜
【前書き】
※本エピソードは、神々の現身であるふたりが紡ぐ、ささやかで温かな日常の一幕を描いたお話です。
※作品設定ガイドラインに則り、過剰な超常現象を抑えた等身大の純愛を描いています。
※静かな雨の音とともに、どうぞごゆるりとお楽しみください。
秋雨の降る風花町で、静かに灯りを落としている『Bar風花』。
普段は凛とカウンターに立つ妻が抱えた、一人の女性としての小さな痛み。
プロとしての仮面を脱ぎ捨て、ただ愛する人を温めるためだけに走る夫の献身と、ふたりだけの甘く愛おしい時間。
どうぞ、そっと扉を開けて、ふたりの居場所を覗いてみてください。
その日の風花町は、夕刻を待たずして冷たい秋雨が降り始めていた。
飲食街の外れ、細い路地の奥にひっそりと佇む『Bar風花』。普段なら開店準備の仕込みを始める時刻、鉄刀木の一枚板カウンターの上には、カッティングフルーツも、磨き抜かれたクリスタルグラスも並んでいない。
店内の奥で小さくうずくまる美和の異変に気づいた櫻庭天は、青ざめた顔で彼女の華奢な肩を抱きかかえていた。
「美和さん……! 駄目だ、立ち上がろうとしちゃ駄目だよ!」
「ん……つ……、ごめん、ね。でもお店……開けないと……」
「開けなくていい! 今夜は休むから!」
天はきっぱりと言い捨てると、重厚なオーク材の扉の表に『本日臨時休業』の真鍮プレートを掛け、素早く鍵をかけた。
冷え切った店内に美和を置いておくわけにはいかない。裏手にある駐車場まで走る時間すら惜しんだ天は、雨に濡れぬよう自分の上着で美和をすっぽりと包み込むと、そのまま彼女を大切に抱きかかえて路地を蹴った。
目指すのは、町の小高い丘の上——此花神社のすぐ隣に佇む、ふたりの自宅だった。
冷たい秋雨が降る坂道を、息を荒らしながらも足元に気を配り、美和に振動を与えぬよう慎重に急ぐ。雨音の響く静かな境内を通り抜け、無我夢中で我が家の玄関をくぐると、温かな寝室へ美和をそっと横たえた。
「はぁ、はぁ……っ。美和さん、大丈夫? どこが痛む? お腹? 腰?」
ベッドの上で、美和は小さく体を丸めていた。
いつもなら凛と背筋を伸ばし、右のワインレッドと左のアンバーという異色の瞳で客を静かに魅了する彼女が、今はその美しい両目を強く閉じ、額に冷や汗を浮かべて耐えている。白磁のような肌からは完全に赤みが消え去り、唇は微かに震えていた。
「……ん……。天ちゃん、雨……濡れちゃったでしょう……?」
「僕のことなんてどうでもいいよ! それより美和さん……頼むから、僕に甘えて!」
天は雨でしっとりと湿った自分の上着を脱ぎ捨てて脇へやると、取り乱しそうになる自分を必死に抑えつけながら、美和の枕元に膝をついた。
重い生理痛——月経困難症。
それは特別な家柄も肩書きも関係のない、一人の女性としての生々しい痛みだった。特効薬のように一瞬で苦痛を消し去る魔法なんてここにはない。いま必要なのは、ただ目の前で苦しむ愛しい妻を助けたいという、夫としての献身だけだ。
天は美和の小刻みに震える細い手を両手でぎゅっと包み込んだ。指先まで氷のように冷え切っている。
そこからは、文字通り走り回るような時間だった。
台所で大鍋にお湯を沸かし、戸棚から取り出したのは、美和が気に入っていた「さくら色」のニットカバーが付いた湯たんぽだった。手際よく熱湯を注ぎ、しっかりと栓を閉める。
さらにもう一つ、レンジで温めるタイプの蒸しタオルと、常備薬の鎮痛剤、服用後の口直し用にと生姜の絞り汁をほんの少し落とした蜂蜜入りの温かい白湯を用意した。
両手にそれらを抱えて寝室へ戻ると、美和は浅い呼吸を繰り返しながら、布団の端をぎゅっと握りしめていた。
「美和さん、少し体を起こせる? お薬を飲んで、お腹を温めよう」
「……ん……」
天は蒸しタオルで美和の汗ばんだおでこを優しく拭うと、背中にそっと手をまわし、抱き起こすようにして自分の胸に引き寄せた。
腕の中に収まる妻の体があまりにも軽くて、儚くて、天の胸がぎゅっと締め付けられる。天はまず手渡した白湯で鎮痛剤を慎重に飲ませ、そのあと生姜と蜂蜜の香る白湯を口元へ運び、一口ずつ含ませた。
「おいしい……。蜂蜜の甘さと、生姜の優しい香り……」
「よかった。無理に全部飲まなくていいからね」
マグカップをサイドテーブルに置くと、天はさくら色の湯たんぽを毛布の中に滑り込ませた。美和の腰の裏側に優しく当てて熱を補う。
「あ……温かい……」
「もう少し毛布かけるね。足元も冷やしちゃ駄目だから」
天は手際よく掛け布団を整え、美和の体を包み込んだ。
しかし、痛みの波はそう易々と去ってはくれない。子宮が固く収縮するような激痛が走るたび、美和の眉間に深い皺が寄り、小さな喘ぎ声が漏れた。
「痛いの……っ、天ちゃん……痛い……」
「ここだよ、美和さん。ここにいるよ」
天はベッドの上へ素早く潜り込んだ。
美和の背後から寄り添うように抱きしめ、毛布の中に自分の手を差し入れる。そして、美和のお腹に大きな掌を直接当て、ゆっくりと、円を描くように撫で始めた。
子供騙しのような手当て。けれど、これしかできない。
「痛いの痛いの、飛んでいけ……。美和さんの痛み、僕に半分ちょうだい……!」
天は必死だった。ルポライターとしての理性も冷静さも完全に吹き飛び、美和の首筋に顔を埋め、涙ぐみながら同じ言葉を何度も何度も唱える。体温を移すように、自分の温もりをすべて美和に注ぎ込むように、休むことなく掌を動かし続けた。
美和は天のシャツの胸元を、細い指先でぎゅっと掴んだ。
「……天ちゃん……」
「なあに? 気持ち悪い? 痛む?」
「ううん……。うれしいの……。私ね、こんなに痛いのに……天ちゃんが抱きしめてくれてるから、なんだか、すごく幸せ……」
「何言ってるのさ……! 僕だって、美和さんが苦しいのは嫌だけど、美和さんの役に立てるならなんだってするよ! 僕は美和さんの夫なんだから!」
天の声が震えていた。
美和は薄っすらと目を開け、ワインレッドとアンバーの瞳で天を見上げた。そこには、普段の凛としたオーナーバーテンダーの影はない。ただ天の愛を全身で受け止め、無防備に甘える「一人の普通の女性」としての櫻庭美和がいた。
「ねえ、天ちゃん……」
「うん?」
「もっと、強く抱きしめて……。天ちゃんの体温、もっとちょうだい……」
その可憐なおねだりに、天の理性が弾け飛ぶような愛おしさがこみ上げた。
「いくらでもあげるよ! 僕の体温も、心も、全部あげるから!」
天は美和の華奢な体をさらに強く引き寄せ、自分の胸の中にすっぽりと包み込んだ。
お腹を撫でる手は止めず、もう片方の手で美和の乱れた前髪を優しく払い、汗ばんだ額に、眉間に、頬に、何度も何度も愛おしさを込めてキスを落とした。
「天ちゃん……ん、ふふ……くすぐったい……」
「美和さんが可愛すぎるのが悪いんだよ。……愛してるよ、美和さん。世界で一番、大好きなんだ」
「私も……。天ちゃんのこと、愛してる……。私だけの、天ちゃん……」
腰の後ろのさくら色の湯たんぽから伝わるじんわりとした熱と、直接お腹に触れる天の掌の温もり。そして服薬した薬の効果が、少しずつ重なり合っていく。
激しかった痛みの波が引き始めると同時に、美和の全身から余分な力が抜けていった。
天がお腹を撫でる規則的なリズムと、胸の下から聞こえる力強い心音——それこそが、彼女にとって何よりの薬だった。
美和の呼吸が、次第に深く、静かなものへと変わっていく。
「……天ちゃん……どこにも、いかないでね……」
まどろみの中で、美和が小さく呟いた。
「いかないよ。ずっとここにいる。美和さんが目を覚ますまで、ずっと抱きしめてるからね」
天が耳元でそう囁くと、美和の唇に小さな、安心しきった笑みが浮かんだ。
そのまま、美和はすやすやと穏やかな寝息を立て始めた。
隣にある此花神社の境内を濡らす秋雨は、静かに降り続いている。
静かな寝室の中、天は愛しい妻の小さな寝顔をじっと見つめていた。ふっくらとした唇、長いまつ毛、天の服を掴んだまま離さない小さな手。
(ああ、なんて可愛いんだろう)
天は静かに息を吐き、美和の額にそっと最後のキスを落とした。
世間の喧騒も、日々の忙しさも、何もかもこの雨の向こうに置いてくればいい。
ここにあるのは、ただ互いを想い合い、温もりを分かち合う、甘く愛おしい夫婦の小さな居場所だけなのだから。
天は美和を抱きしめたまま、彼女の手を包み込み、静かに目を閉じた。さくら色の湯たんぽが、二人を優しく温め続けていた。
【あとがき】
ご覧いただき、本当にありがとうございます。
今回は『Bar風花』の店内を離れ、雨の日の自宅で身を寄せ合うふたりの時間を描かせていただきました。
神としての不変の美しい姿を持ちながらも、人間としての痛みや愛おしさを分かち合う美和と、彼女の前でだけ理性が吹き飛んでしまう天ちゃんの姿をお届けできていましたら幸いです。
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また次の夜も、風花町でお会いできることを楽しみにしております。
天照(Bar風花)




