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【Bar風花】第二章 緋色の液体と冷徹な天秤 〜公爵令嬢の胃袋と財布の攻防戦〜

【前書き】


※極東の静寂を切り裂く、氷の監査官の来訪。

※ボルドーの双璧と、八千円という厳格なる対価。

※凍えるような論理が、Bar風花の温かな日常と交差する一夜。


路地裏の灯りが導く先、鉄刀木のカウンターが静かに物語を刻む場所。そこへ舞い降りたのは、オランダより吹き抜ける冷徹な冬の気配でした。完璧な帳簿と揺るぎなき矜持を携え、ヴァンデンバーグの財務官は今宵、極東の聖域で何を問うのか。

どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてください。

第一章:風花町の夜と財務の矜持


 細い路地の奥、街灯の橙色の光がわずかに届くだけの場所に、ぽつんと暖かな明かりが灯っている。重厚なオーク材の扉が路地の暗がりの中で静かに存在を主張していた。

 扉を開けると、そこは時間が止まったかのように澄みきった空間だ。程良く空調の効いた空気はひんやりと静かで、耳障りにならないボリュームの静かな音楽だけが、遠くからそっと流れている。BGMはほとんど旋律というより残響に近く、古いレコードの針が落ちる微かなノイズと、ピアノの最後の音が消えていくような余韻が、空気の中に薄く溶けていた。

 入って右手には、立派な鉄刀木の一枚板を丁寧に加工したカウンターが横たわっている。深い黒に近い赤褐色の木肌は、照明を受けて静かに艶めき、何十年もの年月が刻んだ細かな傷や指の跡が、控えめな光沢となって浮かび上がっていた。

 カウンターの上には、余計なものは一切置かれていない。バーマットの上に一本のバースプーンが入った水の張った大きなブランデーグラスがぽつんとあり、その脇に柑橘系のフルーツが美しく盛られた籠が一つあるだけだ。

 席はカウンターのみ。座り心地の良さそうな本皮張りの黒いローチェアーが、ゆったりとした間隔で7脚並んでいる。厚みのある上質な革は、長年の使用で柔らかく艶を帯び、座ればほのかに体温を吸い取るような温かさがある。

 カウンターの端では、税理士の氷室凛が静かにグラスを傾けていた。手削りの小さな氷がカランと微かな音を立て、琥珀色の液体を揺らす。

 その隣で、優雅に脚を組み、プラチナブロンドの髪を流してご悦に入っていたのは、20代半ばほどの華やかな佇まいを見せる女性、エイデルガルド——エルだ。

「ふふ……やはり『オー・ブリオン』の89年は別格ね、美和。この開いていく煙草と黒果実の余韻……千草の熟成コンテと合わさると、思わず溜息が出るわ」

「静かに時間を置いた甲斐がありましたね、エルさん」

 美和はカウンター越しに凛とした佇まいで微笑み、手にしたリネンでグラスを静かに磨き上げた。

「ね、美和。やっぱり私の選択に狂いはなかったでしょう? ……こうなると、次は『マルゴー』の82年が恋しくなってくるわ。今夜は贅沢に、ボルドーの双璧を飲み比べさせてちょうだい」

 エルが機嫌良くグラスを傾けた、その時だった。

 重厚なオーク材の扉が、静かに開いた。

 路地の暗がりから滑り込んできたのは、風花町の夜気を凛と引き締めるような、凍てつくほどの冷気だった。

 寸分の狂いもなく仕立てられたダークグレーのスリーピーススーツを纏う、20代前半ほどの洗練された女性。

 氷のように冷徹な青い瞳と、整えられた美しい銀髪。彼女が手に提げた上質なレザーのブリーフケースには、当主の放蕩を証明する膨大な監査書類が、重く詰まっていた。

 カウンターの端でグラスを傾けていた氷室凛が、ふっと眼鏡の奥の黒目を細めた。

(……一切の無駄がない足取り。あのスリーピースの仕立ての良さと、手に提げた鞄の重さ……相当な切れ者の『同業者』ね)

 エルはグラスを口元に運んだまま、ぴくりと手を止めた。

 背後から伝わる、あまりにも見覚えのある冷気。その存在を悟った瞬間、優雅に緩んでいた彼女の表情が、硬く引きつる。

「……うそでしょう。……どうして、彼女がここに……」

「——お姉様」

 静かだが、カウンターの奥まで恐ろしいほど通る声。

 その女性——ヒルデガルドは、足音もなくカウンターへ近づくと、手にしていた厚さ三センチにも及ぶ決済明細書を、鉄刀木の一枚板の上にトントン、と寸分の狂いもなく置いた。

「『なぜ』ではありません。私がヴァンデンバーグ本家より、監査のために参上したからです」

「……っ! ヒ、ヒルダ……!? どうして貴女がこんな極東の地に……」

「説明をいただきに来ました。……当主様」

 ヒルダは表情一つ変えない氷の眼差しでエルを見据えると、上質な革のケースから引き抜いた監査書類を、美しく磨かれたカウンターへ静かに滑らせた。

「お姉様のカードの最新の明細です。五大シャトーを水のように空け、他にも『情報収集費』名目の不鮮明な領収書を何十枚も切っていますね。……当主様。当家の金庫は、貴女の無制限の財布ではありません」

「うっ……! つ、言葉を選びなさいな、ヒルダ! ここは風花町で一番格調高いBarよ。それに……当主が最高のワインで教養を深めて何が悪いというの……っ!」

「当主としての品位と、無計画な資産の流出は同義ではありません」

 ヒルダは顔色一つ変えず、手元の監査書類の余白へ、端正な字で静かにペンを走らせた。

「本日より、お姉様のブラックカードは一時凍結。……あぁ、安心してください。お姉様には毎日お小遣いを支給致します。金額は当初は三千円な予定でしたが、可哀想なので八千円に『引き上げて』あげました」

「は、八千円……!? ヒルダ、八千円よ!? 五大シャトーのグラス一杯すら怪しいじゃないのーっ!」

 絶叫するエルに、ヒルダは冷え切ったジト目を向け、淡々とペン先を収めた。

「当初予定していた三千円のお小遣いでは緋崎の事務所でのカップ麺とチープなテキーラで終わってしまい、当主としての最小限の尊厳すら損なうと判断し、五千円増額いたしました。この八千円で、調理人様の作られる極上のペアリング料理と、櫻庭様の素晴らしいカクテルを『一杯だけ』噛み締めてお召し上がりください。無軌道なボトル開けは一切許可いたしません」

「……極端なお姉様を持つのも大変ね」

 凛が小さく呟き、グラスの氷を揺らした。

 店内に響き渡る当主の悲鳴。美和は一切動じることなく、静かにバースプーンを水グラスに戻すと、控えめなトーンで声をかけた。

「……初めまして、お客様。当店の櫻庭と申します。エル様からはかねがね、素晴らしいご妹君がいらっしゃると伺っておりました。お召し上がりのお酒や料理の責は私共にもございます。どうか、お席でお話しになりませんか?」

 ヒルダはすっと背筋を伸ばし、美和に対して完璧な礼節をもって一礼した。

「お気遣い感謝いたします、櫻庭様。ヴァンデンバーグ家財務統括、ヒルデガルドと申します。……誤解なきよう申し上げますが、貴女様のお腕前やお店の品格を疑っているわけではございません。本国での精査で、極めて正当かつ素晴らしい品が提供されていることは把握しております」

 淡々とした、けれど一切の隙がない声。

「ですが、八千円もあればこちらの至高のペアリングを『一杯』愉しむには十分なはず。……このお調子者の当主を野放しにすれば、来月にはこの店ごと買い取ると言い出しかねません。これは我が家の統率の問題でございます」

 淀みのない言葉と、店に対するブレのない敬意。

 単なる吝嗇ではなく、職務に対する絶対の誠実さ——美和はその佇まいの中に、1セントの誤差も許さない鉄の意志を感じ取っていた。

 その張り詰めた空気の隙間に、クツクツと喉を鳴らす小さな笑い声が混じる。

 カウンターの端で静観していた氷室凛が、手元でグラスをゆっくりと揺らしていた。

「ふふ……失礼。あまりに見事な手際だったから」

 ヒルダがすっと視線を向ける。凛は胸ポケットから細い名刺入れを取り出すと、一枚の白い紙片を鉄刀木の木目滑らかに滑らせた。

「氷室凛。この町で税理士をやっているわ。……数字に一切の揺らぎがない、本当に綺麗な仕事ね。監査官の鑑だわ」

 ヒルダは凛の名刺を指先で受け取ると、その氷のような瞳に初めてかすかな興味の色を浮かべた。

「……氷室凛先生。お名前は伺っています。極東における皇グループ関連の財務処理において、寸分の隙もない申告を行っている税理士ですね」

「ええ。……どうかしら、ヒルダさん。あちらのお姫様へのお説教の続き、場所を変えない?」

 凛はハーブティーの温もりを思い描くように、口元にかすかな笑みを浮かべた。

「私の事務所なら、冷たいお茶も静かな環境も揃っているわ。同業者同士、少し話もしてみたいしね」

 ヒルダは手元の明細書と、頭を抱えて「うぅ……八千円……八千円じゃボトルが……」と呻いているエルを一瞥し、小さく息を吐いた。

「……お心遣い、感謝いたします、凛先生。お言葉に甘えさせていただきます」

「決まりね。……美和さん、彼女に喉を潤す冷たいノンアルコールを一杯お願いできるかしら。代金は私持ちで……」

「かしこまりました」

 美和は静かに頷くと、流れるような所作でグラスを選び、手際よくジントニックを模した爽やかなノンアルコール・カクテルを仕立てた。

 クリスタルグラスの氷がカランと静かな音を立て、ヒルダの前に差し出される。

「どうぞ。お口に合えば宜しいのですが」

 ヒルダはグラスを受け取ると、静かに口を湿らせ、その洗練された味わいに深く一礼した。

 喉を潤した二人は、カウンターで「うぅ……八千円……」と頭を抱えるエルへ、静かに視線を向けた。

「安心しなさい、エル。美和さんに頼んで、あなたの『日当八千円で愉しめる最高のグラス』を考えておいてもらうから」

「凛……! あんた、やっぱり私の味方——」

「ただし、今夜のこれ以上のボトル注文は不可。大人しくお帰りなさいね」

 凛は悪戯っぽく微笑むと、スマートに支払いを済ませると、ブリーフケースを手にしたヒルダとともに静かに『Bar風花』を後にするのだった。




第二章:氷室事務所の夜更けと温もり


 『Bar風花』の重厚なオーク扉が閉まり、夜の風花町のひんやりとした空気が二人の頬を撫でる。

 店内での騒動から数十分後。日当八千円の宣告を受け、明細書を抱えたままカウンターに突っ伏していたエルを余所に、ヒルダと凛の二人は、静かな足取りで路地を歩いていた。

 歩幅も、衣服の擦れる音の小ささも、驚くほど一致している。

「ここよ」

 凛が古風な鍵を差し込み、開けたのは、看板に慎ましく『氷室税理士事務所』とだけ刻まれた建物の扉だった。

 中に入ると、磨き上げられたフローリングと、整然と並ぶ書類棚。静かに焚かれた白壇の香りがかすかに漂い、静寂そのものが空間を満たしている。

 ブリーフケースを手に中へ足を踏み入れたヒルダは、整然と配置された室内を氷のような瞳で一度静かに見渡し、かすかに満足げな吐息を漏らした。

「……美しい。雑念を挟む隙のない、見事なオフィスですね」

「ありがとう。……さ、二階へ上がりましょう。静かな場所で、温かいハーブティーでも淹れるわ」

 二階のプライベート空間へ移動すると、凛は手際よく湯を沸かし、透明な耐熱ガラスのカップに黄金色の液体を注いだ。カモミールとレモングラスの柔らかな香りが静かに広がる。

 対面の革張りソファに腰掛けたヒルダは、カップから立ち上る湯気を眺めながら、膝の上に抱えたレザーのブリーフケースをそっと撫でた。

「……改めまして、氷室先生。先ほどは店内で失礼いたしました。当主の無軌道ぶりには、常日頃から手を焼いておりまして」

「いいのよ、ヒルダさん。……ふふ、でも、あの場でのブラックカードの即時凍結と定額支給の判断はお見事だったわ。感情を挟まず、その場の混乱を最小限に抑える完璧な監査手腕ね」

 凛は眼鏡のフレームをすっと指先で押し上げ、どこか楽しげに目を細めた。

「あの手の感覚が麻痺したお姫様には、下手に上限額を設定するよりも完全凍結と定額支給が一番効くのよ。しかも、彼女の逃げ道である緋崎さんの存在まで計算に入れた上での八千円……絶妙にプライドを損ねず、けれど無駄遣いは絶対にさせない見事なコントロールだわ」

「ご理解いただけて光栄です」

 ヒルダはすっと背筋を伸ばし、初めて氷の仮面を和らげるように、かすかに唇の端を上げた。

「……お姉様は一度箍が外れると止まりませんから。放置すれば、今期の極東予算などあっという間に霧散してしまいます」

「ふふ、目に見えるようだわ。……ところでヒルダさん。今回の滞在、宿泊先はどうするつもりだったの?」

「横浜のペントハウスを拠点にするか、あるいはこの町の高級旅館を長期間借り切る予定でした」

「ナンセンスだわ」

 凛は即座に首を振った。

「それじゃあ、せっかく切り詰めた当主の経費が宿泊費と警護費にスライドするだけよ。それに……この狭い町で離れた場所にいては、あの逃げ足の早いお姫様を完全に把握するのは難しいわ。隙を見せれば、すぐに緋崎さんの事務所に転がり込むのが目に見えているもの」

 ヒルダがジト目で思案するように黙り込む。凛は手元のタブレットを開き、事務所の間取り図をすっと滑らせた。

「この二階、ゲスト用のお部屋も通信環境も十分に整っているわ。セキュリティだって税理士の事務所だから万全よ。……どうかしら? ここをヴァンデンバーグ家の極東監査室にして、滞在しない?」

「……凛先生の事務所に、私が……?」

「お互いに、最も無駄のない選択だと思うの」

 凛は眼鏡の奥の瞳を悪戯っぽく細め、どこか楽しげに口元を緩めた。

「貴女は無駄な経費を抑えてお姉様をいつでも監視できる。そして私は……欧州の名門の財務統括と、静かで有意義な時間を共有できる。悪くない条件でしょう?」

 ヒルダは立ち上るハーブティーの湯気を静かに見つめ、一瞬だけ思考を巡らせた。

 提示された条件の合理性、そして何より——この氷室凛という女性との、思考の波長の合い方。

 ヒルダは静かにカップを置くと、凛に向かって美しく完璧な会釈を返した。

「……お言葉に甘えさせていただきます、凛さん。これ以上の選択肢はありません」

「ええ、よろしくね。ヒルダさん」

「はい。賃料や経費の按分につきましては、明朝、双方にとって最も適正な契約書を作成いたします」

「ふふ、さすがね。楽しみにしているわ」

 張り詰めていた緊張感がふっと解け、凛の口調から柔らかく上品な三重弁が零れ落ちる。

「……ふぅ、今日はいろいろあって、手足が冷えてかなわんわ。小鉄、ちょっと抱っこさせてな」

 凛がひざ掛けを整えると、ソファの端で丸くなっていた貫禄ある三毛猫・小鉄がフンと鼻を鳴らし、慣れた足取りで膝の上に乗ってきた。凛は愛おしそうにその背を撫で、目を細める。

「あぁ……やっぱり温かいなぁ」

 スリーピーススーツの皺ひとつ乱さず座っていたヒルダは、その光景をジト目で静かに凝視した。

「……凛さん。先ほどまでの冷徹なお仕事ぶりと、その猫を抱いたお姿……計算の合わない変数が多すぎます」

「ふふ、オンとオフは別物やよ、ヒルダさん。公私のメリハリがついているからこそ、数字の狂いも生まれないの。……さ、明日の朝は少し低血圧で動きが遅いと思うから、絹枝さんの美味しいブラックコーヒーでも飲みながら、ゆっくり財務諸表を見せてもらうわね」

「……承知いたしました。朝の起動の遅さにつきましては、あらかじめスケジュールに織り込んでおきます」

 二人が静かにカップに手を伸ばした、その時だった。

 遠く夜の路地から、何処か情けないエルの抗議の声と、それを呆れ顔で宥める緋崎の低い声が、夜風に乗ってかすかに届いた。

 二人は窓の外に一切の視線を向けることなく、顔を見合わせてかすかに微笑むと、静かにハーブティーの二杯目に口をつけるのだった。

【あとがき】


Bar風花、新たな客人・ヒルダの登場回となりました。

千年の歴史を背負った血族も、一人の財務官としての顔を見せれば、そこには人間味溢れる姉妹の絆がございます。エル様の当主としての放蕩と、それを1セント単位で管理するヒルダ様の対比を、凛という「極東の論理」がどう受け止めるか。私自身も楽しく執筆させていただきました。


この物語を気に入っていただけましたら、ブックマークや評価、あるいは「こんなやり取りが見たい」というご感想などをいただけますと、何よりの励みになります。

天照(Bar風花)

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