【Bar風花】第二章 静寂を破る笑声と二筋の余韻 〜高飛車な少女は夜の風花で素直になれない〜
前書き
※本作品は『Bar風花』の日常を描いたサイドストーリーです。
※風花町の夜、ひとりの姫君と街を守る女性たちが紡ぐ、温かなお酒と会話の時間をお楽しみください。
※静謐なバーの空気感と、手作りのスープやカクテルがもたらす解らぎを描いています。
言葉にできない疲れや、少しの強がりを抱えた夜。
重厚なオークの扉を開ければ、そこには静かな氷の音と、心をそっと温める一杯が待っています。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてください。
第一章:開店直後の静寂と、冷たき琥珀
お客が一人もいない開店直後の店内は、まるで時間が止まったかのように澄みきっていた。
程良く空調の効いた空気はひんやりと静かで、耳障りにならないボリュームのBGMが、遠くからそっと流れている。旋律というより残響に近いピアノの最後の音が空気の中に溶けていく中、薄暗い店内に配置された直接照明と間接照明が、柔らかな光の層をつくり出していた。
入って右手、立派な鉄刀木の一枚板を用いたカウンターの端。いつもの指定席に腰を下ろしているのは、ルポライターの櫻庭天だ。
使い込まれた手帳に淡々とペンを走らせる彼の右手側には、薄肉で細身なタンブラーがひとつ、静かに置かれている。
氷が入っていない。
ウイスキーも、炭酸水も、そしてグラスそのものも——すべてをあらかじめ限界まで冷やし抜き、一気に注ぎ分けられた「神戸スタイル」のハイボールだ。
カランという氷の音すら削ぎ落とされたその一杯は、表面にきめ細やかな泡の筋を浮かせ、冷徹なまでの透明感を湛えている。ウイスキー本来の立ち上る芳醇な香気と、喉を直撃する炭酸の鋭いキレ。天は時折ペンを止め、琥珀色の液体を口に含んでは、静かに思考を整理していた。
カウンターの中では、妻でありオーナーバーテンダーである櫻庭美和が、静かな所作でグラスを磨き上げている。
右目がワインレッド、左目がアンバーの異色瞳が、店内を包むアンバー色の光を受けて、静かに揺れていた。
カタリ、と重厚なオーク材の扉がかすかに音を立てて開いたのは、そんな完全な静寂の最中だった。
「……おや」
天が視線を上げると、ふわりと夜風の冷気とともに一人の女性が入ってきた。
鮮やかな金髪をなびかせ、気高いシルエットをまとった少女——エイデルガルド、エルだ。
だが、彼女の隣にはいつもいるはずの影がない。
「こんばんは、エル様。おひとりですか?」
美和が優しく目を細め、静かに頭を下げる。
エルはあごをほんの少し上げ、高飛車な調子を崩さないまま、本革張りの黒いローチェアに腰を下ろした。
「ええ。あの男……優矢なら、何か泥臭い調査とかで席を外しているわ。一人で静かに夜を過ごしたくなったのよ」
そう言いながらも、エルの視線はどこか手持ち無沙汰げに店内を泳いでいる。強がってはいるものの、いつもの腐れ縁がいない夜の気恥ずかしさが、立ち振る舞いの端々から透けて見えていた。
第二章:一人っきりの姫君と、興味津々な少女
「おひとりでのご来店も、もちろん大歓迎ですよ」
美和はそう言って微笑むと、カウンターの奥から小さなデミタスカップをひとつ取り出した。
受け皿に載せられて差し出されたのは、美しい琥珀色に透き通ったスープだ。表面から、微かに温かな湯気が立ち上る。
「まずは、こちらをどうぞ。今夜のチャーム……千草お姉ちゃんが夕方から丁寧に仕込んでくれた、自家製のコンソメスープです」
牛すね肉とたっぷりの香味野菜。何度も何度も灰汁をすくい取り、布で漉しては弱火で何時間も煮込んだ、一切の濁りがない純粋なコンソメ。
エルは小さな匙を取り、そっと口に含んだ。
「……っ」
瞬時に、濃厚な肉の旨味と野菜のやわらかな甘みが、温かな温度とともに喉の奥へと滑り込んでいく。
空腹の胃袋がやさしく温められ、張り詰めていた肩の力がじんわりと解けていく。
「……相変わらず千草の料理は、嫌になるほど胃の奥まで解れさせるわね」
素直になれない文句を口にしつつも、エルの表情からは明らかにトゲが消えていた。
その時——扉が再び開き、元気な足音が店内に滑り込んできた。
「こんばんはーっ! 美和さん、天さん!」
市役所に勤める山﨑響子だ。
仕事上がりの軽快な足取りで入ってきた響子は、カウンターに座る先客の姿を見るや否や、ピタリと足を止めた。
「……あ」
響子の足がピタリと止まり、その瞳が丸くなった。
そこにいたのは、まるで古い絵本から抜け出してきたかのような、透き通る白皙の肌と黄金の髪を持つ美しい少女。
「う、うわぁ……! 本物のお姫様……?」
「な、何よ急に……人の顔をまじまじと見て……」
あまりに直球で純粋な熱視線を向けられ、高貴に振る舞おうとしていたエルが思わず気圧される。
天真爛漫な響子は、エルの隣の席へ吸い寄せられるように腰を下ろすと、興奮気味に身を乗り出した。
「すごいです! 髪がすごく綺麗……! 私、山﨑響子って言います! お姉さん、お名前は!?」
「え、エイデルガルドよ。……ちょっと、距離が近くないかしら?」
「エイデルガルドさん! すごく素敵なお名前!」
完全に響子のペースに巻き込まれ、ツンとしようにも毒気を抜かれて顔を赤くするエル。天と美和は、そんな二人のやり取りを微笑ましく見守っていた。
美和が響子の前にもそっとスープのカップを置く。
「ふはぁ〜……美味しい! 千草お姉ちゃんのスープ、お腹の底まで染み渡ります……!」
響子が両手でカップを包み込んで幸せそうに頬をゆるませると、エルもまた、手元のスープを慈しむように小さく口に運んだ。
第三章:夜の来客と、解けゆく警戒心
店内が温かな空気に包まれ始めた頃、再び重厚な扉が開いた。
カツン、カツンと澄んだヒールの音を響かせて入ってきたのは、風花署の刑事・武井沙耶と、弁護士の橘栞だ。
「こんばんは、美和さん。はぁ〜……今週も現場続きで身体がバキバキだよ」
「お邪魔いたしますね。法廷の書類仕事で、目と頭がすっかり疲れてしまいましたわ」
ふたりは慣れた所作で空いているカウンター席へと向かう。
だが、その瞬間、エルは無意識のうちに背筋をピンと伸ばし、警戒するように視線を鋭くした。
(……なにかしら。独特の隙のない立ち振る舞い……ただ者じゃないわね)
見知らぬ大人の女性ふたりの雰囲気に、エルは気高く身を構えてツンと口を結ぶ。
そんなエルの緊張に気づいたのか気づかないのか、響子が弾けたような笑顔で沙耶たちに手を振った。
「沙耶さん! 栞さん! 見てください、すごく綺麗なお客さんが来てるんです!」
「おや、本当だ。……こんばんは、可愛いお嬢さん」
沙耶が気さくに笑いかけ、栞も優しく目元を和ませて頭を下げる。
席に着いた沙耶が「風花署の事件処理は相変わらず山積みでさ」と愚痴をこぼし、栞が「こちらの事務所も裁判が重なっていて」と苦笑交じりに応じる。それを聞いたエルは、(警察官と……弁護士……?)と心の中で呟いた。
「さて、喉がカラカラだ。美和さん、私に『マルティネス』をお願いでます?」
沙耶のオーダーに、美和が静かに頷く。
オールド・トム・ジンにスイート・ベルモット、マラスキーノ、そしてビターズ。ミキシンググラスの中でバースプーンが静かに冴えた音を奏で、やがてアンバー色に輝く艶やかな液体がグラスへと満たされていく。
マティーニの原点とされる重厚な一杯。沙耶がそれを口にし、「……うくっ、効くぅ。この一杯のために生きてるよ」と心底深呼吸した。
続いて栞が静かに言葉を添える。
「私は『ブレックファースト・マティーニ』をいただけますか」
美和の手が再び動く。
ジン、コアントロー、フレッシュレモンジュース。そして、バースプーンですくった色鮮やかなオレンジ・マーマレード。
シェーカーの中で氷とマーマレードが激しく踊り、金属の表面に真っ白な霜が降りていく。ストレーナーを通してグラスへ静かに注がれると、柑橘の甘酸っぱくもほろ苦い香りが一気に広がった。
一口含んだ栞が、うっとりと目を細める。
「ふふ……このマーマレードの果肉感と柑橘の酸味が、疲れた頭を優しく起こしてくれますわ」
グラスを静かに置く栞の、満たされたような笑み。
酒をただの麻酔として飲むのではなく、その一杯に込められた歴史と技術を敬い、己の疲れを癒やす道具として嗜む姿。
その真摯で粋な佇まいを見て、エルの頭の中にあった「お堅くて野暮な大人」という偏見は、あっという間に消えていった。
(……なるほど。この店に集う人間だけあって、お酒の味をよく分かっているのね)
エルの強張っていた肩から、自然と力が抜けていく。
第四章:緋崎の小言と、マルゴー2011年
「私、喉が渇いちゃって! さっぱり甘酸っぱいのが飲みたいです!」
響子が声をあげると、美和は「それなら、こちらはいかがでしょう」と、カンパリとグレープフルーツジュース、トニックウォーターを合わせた『スプモーニ』を作り上げた。
ルビーピンクの美しいグラデーション。響子が一口飲み、「おいしい〜っ! ほろ苦くてシュワシュワして、最高です!」と声を弾ませる。
みんながそれぞれの一杯を楽しんでいる空気を受け、エルもまた、胸の奥のプライドを静かに燃やし始めた。
「美和。私にも、今夜に相応しいお酒を頼むわ」
「かしこまりました、エル様。どのようなものにいたしましょう」
「そうね……とびきり優美で、華やかなもの。ボルドーの女王……『シャトー・マルゴー』を開けて頂戴!」
威風堂々としたオーダー。
美和が静かにワインセラーへ向かい、ボトルに手をかけようとした——その時だ。
エルの脳裏に、突如として情けない男の顔がフラッシュバックした。
『やれやれ、エル……。君が上機嫌なのは結構ですがね、ボルドー5大シャトーをポンポン開けられたら、私の今月の調査報酬が丸ごと吹き飛びますよ……?』
胃を押さえて情けない顔で泣きつく、探偵・緋崎優矢の姿。
(……くっ! なんであの男の情けない顔が思い浮かぶのよ……!)
エルは差し伸べかけた指先を、ピタリと止めた。
最高級の当たり年——2009年や2015年の極上ボトル。それに手を伸ばせば、間違いなく後で緋崎がブツブツと小言を言うに違いない。
「……っ。美和! や、やっぱり変更よ!」
「はい、なんでしょう」
「……オフヴィンテージのものを頂戴。2011年のマルゴーを!」
一瞬の静寂。
評価が比較的穏やかで、流通価格も落ち着いている年。それでも十分に高額ではあるが、当たり年の高騰した価格に比べれば遥かに控えめだ。
「……ふん! あいつに後でネチネチ言われるのも癪だからね!」
小さな声でぽつりと漏らしたエルの言葉を、カウンターの全員が聞き逃さなかった。
美和の唇が、優しく弧を描く。
「承知いたしました。シャトー・マルゴー、2011年ですね」
第五章:千草のマリアージュと、解けゆく意地
美和のデカンタージュは、まるで祈りの儀式のようだった。
ボトルから傾けられた深紅の液体が、デキャンタの内壁を静かに滑り落ちていく。空気に触れた瞬間に、秘められていたポテンシャルが一気に開花していった。
「2011年のマルゴーは、当たり年の持つ重厚さに比べ、若いうちから角が取れて実にしなやかです。今夜のエル様には、まさにぴったりの優美な開花を見せてくれますよ」
美和が静かにグラスを差し出す。同時に、カウンター越しに小さな器がいくつか並べられた。
千草が用意していた、ワインを引き立てる特製のおつまみだ。
ひとつは、塩気の強いブルーチーズに、濃密な甘みのドライイチジクを添えたもの。
もうひとつは、クラッカーの上に滑らかなクリームチーズを塗り、甘酸っぱいベリーのジャムとレーズンをあしらったデザート風の一皿。
「どうぞ、ワインと合わせてみてください」
エルはグラスを傾けた。
カシスや摘みたての花を思わせる芳しい香りが鼻腔を満たし、口に含むとシルクのように滑らかなタンニンが広がっていく。
余韻が残る口中へ、ブルーチーズの強い塩気とイチジクの濃厚な甘みをそっと重ねる。
「〜〜〜っ♡」
エルの顔が、一瞬で甘やかに崩れた。
「ブルーチーズの塩気がマルゴーの果実味を引き立てて、イチジクの濃密さが芳醇な香りと溶け合うわ……! ベリーの甘酸っぱさを乗せたクラッカーも、最高のアクセントじゃない!」
「わぁっ! すごく美味しそう! エルさん、そのクラッカー私にも一口ちょうだい!」
「ちょっと響子! 勝手に人の皿に手を伸ばさないでちょうだい! ……もう、一枚だけだからね!」
ぷんぷんと怒ってみせながらも、嬉しそうにクラッカーを分けてあげるエル。
沙耶と栞も「あら、本当に素敵なマリアージュね」「少し分けていただいてもかしら?」と微笑み、エルは「ええ、もちろんよ! 味わってみなさいな!」と誇らしげにグラスと皿を勧めた。
そこにはもう、警戒して身を構えていたお姫様の姿はなかった。
大人の女性たちと美味しいお酒、絶品のおつまみを囲み、無邪気に笑い合う、年相応の少女の姿があった。
第六章:風花の夜と、あたたかな余韻
「ふふ……」
カウンターの端でペンを走らせていた天が、静かに手帳を閉じた。
最後まで薄まることのなかった琥珀色のハイボールを飲み干し、穏やかな眼差しでエルへと視線を向ける。
「緋崎さんのことを気遣って選んだ2011年だからこそ、今夜のエルちゃんとおつまみに、一番優しく寄り添う味わいになったのかもしれないね」
天の言葉に、沙耶と栞がニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「あらあら。あの探偵さんのために、わざわざ遠慮してあげたの? 優しいじゃない」
「素直になれないところが、たまらなく可愛らしいわね」
「ち、違うわよーーーーっ!!」
エルは顔を真っ赤にして立ち上がり、バッと手を振り回した。
「誰があの情けない男に遠慮なんてするものですか! 単に私の気まぐれよ! 気・ま・ぐ・れ……っ!!」
肩を上下させてムキに弁明するエルの姿に、店内はドッと温かな笑い声に包まれた。
響子が「エルさん可愛い〜っ!」と抱きつき、エルが「ちょっと離れなさいよ〜!」と叫ぶ。
美和はカウンターの中でくすくすと上品に微笑みながら、静かにグラスを磨き直していた。
氷を使わないハイボールの凛とした冷気。
千草のコンソメスープがもたらした、お腹の底からの温もり。
スプモーニのルビー色、ブレックファースト・マティーニの澄んだ柑橘、マルティネスの重厚な琥珀。
そして、意地を張るのをやめた少女が選んだ、シャトー・マルゴーの芳醇な香り。
店内に満ちるすべての要素が、優しく調和していた。
風花町の夜を守る女性たちの笑い声は、静かな路地の奥へと柔らかく溶けていく。
誰かが訪れるまでのわずかな時間も、ここに集う人々の心も、丁寧に大切に守られている場所。
『Bar風花』の夜は、今夜もまた、温かな余韻を残しながら深まっていくのだった。
あとがき
今夜も『Bar風花』の物語にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
緋崎のいない静かな夜、ふらりと訪れたエルと、風花町を守る女性たちが織りなす温かな時間。
強がりや小さな気遣い、そして美味しいスープとお酒が、頑なだった心を少しずつ解かしていく過程を楽しんでいただけたなら幸いです。
千草のおつまみや、プロのバーテンダーが差し出す一杯が、読者の皆様の疲れた日常にもそっと寄り添うことができますように。
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風花町の夜風とともに、皆様に穏やかな時間が訪れますように。
天照(Bar風花)




