【Bar風花】第二章 受け継がれる温もりのグラス 〜言葉なき固い握手と風花町に吹く一番風〜
【前書き】
※本エピソードは『Bar風花』特別編となります。
※老マスターと羽婷との温かな別れ、そして風花町に訪れる新しい風の予感を描いた物語です。
※作中に登場する車や店舗、技法等は現実の描写に基づいたフィクションです。
日差しの中に秋の気配が混じり始める頃、ひとつの旅が終わりを告げ、また新しい季節の足音が聞こえてきます。
國境を超えて繋がれた師弟の絆と、風花町の平屋に吹き込む温かな新しい風。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてください。
風花町の朝は、清々しい空気と朝露に濡れた庭の青々とした草木の匂いとともに始まった。四季を問わず可憐に咲く桜のほのかな甘さと、みずみずしい柑橘の香りが、優しく鼻腔をくすぐる。
「マスター、羽婷さん。おはようございます。今日は空港まで俺が車でお送りしますね」
静かな平屋のガレージから、滑らかな低音とともに姿を現したのは、深紅のラインが引き締めるアルティメイトメタルホワイトの車体——日産 GT-R NISMO。
極限まで空力を突き詰めたカーボンファイバーのエアロパーツが朝日に鈍く輝き、3.8リッターV6ツインターボエンジンが、まるで目覚めた猛獣のように「フォォォン……」と澄んだ低い唸りを上げる。
「うわあぁぁぁっ!? カッコいいーっ!! おじいちゃん見て! すごい車!!」
縁側にいた羽婷が、目を輝かせて跳びあがった。
「……ほう。昨日の車も静かで力強かったが……これはまた、なんとも凄みのある機械だな」
老マスターも、GT-Rが放つ一切の無駄を削ぎ落とした機能美と存在感に感心したように目を細めた。
「天ちゃんの自慢の愛車なんです。マスターたちに快適に旅の終わりを過ごしていただきたくて」
助手席のドアを押さえた美和が嬉しそうに微笑む。母屋の玄関口では、完璧な漆黒と純白のロング丈クラシックメイド服を纏った千草が、優雅にエプロンの裾を整えながら佇んでいた。
「お荷物はすべてトランクへ積み込みましたわ。道中、気をつけて行ってらっしゃいね( ´∀` )」
「千草さん、本当にお世話になりました! お料理もすごく美味しかったです!」
羽婷が元気に手を振ると、千草は目元を緩めて優しく頷いた。
天の滑らかなクラッチワークにより、GT-R NISMOは静かに発進し、朝靄の残る風花町の路地を抜けて高速道路へと合流していく。
怪物のようなトルクを秘めながらも、天の洗練されたドライビングはどこまでも滑らかだ。路面の凹凸を吸い付くようにいなし、シートに心地よく背中が収まる加速感。
「全然揺れないのに速い! 雲の上にのって飛んでるみたい!」
「はは、喜んでもらえてよかった。空港へ向かう前に、博多の街を少しだけ楽しんでいこうか」
バックミラー越しに微笑む天の言葉に、羽婷は「わぁ、本当!?」と車内で弾んだ声をあげた。
九州自動車道から都市高速へと抜け、車が向かったのは博多のトレンドが集まる大型複合施設『キャナルシティ博多』だった。
曲線美を描くダイナミックな建築の間を澄んだ運河が流れ、吹き抜けの広場には心地よい水音が響いている。立ち並ぶ洗練されたショップの数々に、羽婷のテンションは最高潮に達した。
「おじいちゃん! あっちにカワイイ服がある! 美和さん、これ見てー!」
「ええ、すごく素敵。羽婷ちゃんの雰囲気にぴったりね」
日本のファッションブランド、繊細なデザインの文房具、キャラクターグッズ。美和と天がお勧めのお土産を一緒に選び、羽婷は両手いっぱいに買い物を楽しんでいく。
半世紀以上、酒場という夜の世界で生きてきた老マスターも、孫の弾けるような笑顔と、それを自分の妹のように愛おしそうに見守る美和の姿に、終始目尻を下げっぱなしだった。
買い物を存分に楽しんだ後、お昼時に向かったのは、博多の地元の雰囲気が色濃く残るうどん店だった。
ガラガラと引き戸を開けると、出汁の甘く香ばしい湯気が店内いっぱいに満ちている。
「博多といえばラーメンが有名ですが、地元の人々が日常で深く愛しているのは、この『柔らかいうどん』なんです」
天の案内でテーブル席に腰掛け、運ばれてきた丼を目にした瞬間、全員から小さく感嘆の声が漏れた。
丼からはみ出すほど大きく、からりと揚がった斜め切りの「ごぼう天」。その下には、透き通った琥珀色のつゆと、ふっくらとした白い麺が横たわっている。
「いただきます」
老マスターがレンゲで澄んだつゆを掬い、静かに一口口に含んだ。
一瞬、老人の眼光がすっと鋭くなり、それから深く感心したように息を吐いた。
「……旨いな。昆布のまろやかな甘みと、節の深いコク……塩気に頼らず、出汁の力だけでこれほどの奥行きを出している。余計な雑味が一切ない、見事な一杯だ」
「お酒の仕込み水と同じですね」
美和がそっと言葉を添える。
「派手な主張はなくとも、土台となる出汁や水が誠実であれば、それだけで食べる人の心と体を芯から温めてくれる……。料理もカクテルも、根底にある真理は同じなのだと気づかされます」
「その通りだ、美和。……そして、この麺も素晴らしい」
羽婷もうどんを勢いよくすすり、満面の笑みを浮かべた。
「麺がふんわりモチモチで、お出汁が中までしっかり染み込んでる! ごぼうもサクサクしてすごく香ばしい! 台湾の牛肉麺とは全然違う優しさだね!」
サクサクとした衣が徐々につゆを吸い、コクを増していくごぼう天の味わい。
派手なごちそうではない。だが、職人が毎日丁寧にひく出汁と、食べる人への思いやりが詰まった博多うどんは、旅の締めくくりにふさわしい、温かな優しさで全員の腹を満たしていった。
午後——福岡空港、国際線ターミナル。
大きなガラス窓から差し込む陽光の下、搭乗手続きを待つ人々が慌ただしく行交っている。ガラスの向こうには、青空へ飛び立つのを待つ旅客機たちの姿があった。
ついに、別れの時がやってきた。
羽婷は両手いっぱいのお土産袋をぎゅっと抱え、美和の前へ歩み寄った。その瞳には、今にもこぼれ落ちそうな涙が溜まっている。
「美和さん、天さん……本当に、本当にありがとうございました! 私、日本がもっともっと大好きになりました! 二十歳のお誕生日にここに来られて、美和さんに会えて……人生で一番幸せです!」
「私の方こそ、来てくれて本当に嬉しかったわ、羽婷ちゃん。二十歳のお誕生日、改めておめでとう。またいつでも、遊びに来てね」
美和が優しく抱きしめると、羽婷は美和の肩に顔をうずめ、ぐっと涙を堪えて大きく頷いた。
そして——。
老マスターが、ゆっくりと美和に向き直った。
背筋を寸分の狂いもなくピンと伸ばし、仕立ての良いスーツのジャケットの裾を正す。
「……美和」
「はい、マスター」
「……最高の旅だった。あんたの作ったあの城(風花)を見られて、あんたを心から愛する温かい夫と家族に会えて……俺の半世紀のバーテンダー人生の中でも、間違いなく一番誇らしく、素晴らしい時間だったよ」
老マスターはそう言うと、静かに右手をすっと差し出した。
美和はその手を、両手で強く、温かく握り返した。
半世紀もの間、夜の街で無数のグラスを磨き、孤独な客の心に寄り添う酒を注ぎ続けてきた、ゴツゴツとした職人の手。かつて台北の冷たい地下室で、傷ついた美和の心に温もりを注いでくれた手だ。
溢れ出る大粒の涙が、美和の頬を伝って落ちる。
「マスター……私に『カクテルに込める温もり』を教えてくれて……本当にありがとうございました。私、マスターの弟子になれて……マスターの『古い友達』になれて、本当に幸せです……っ」
「……バカ言え。プロが人前で易易と泣くもんじゃない」
老マスターは厳しく言おうとしながらも、自身の目元にうっすらと浮かんだ温かな涙を、照れくさそうに指先で拭った。
老人は次に天に向き直り、深く頭を下げた。
「天さん……美和を、頼んだぞ。あいつは一人のプロとして立派に立っているが……根は繊細で、人一倍温もりを求める奴だ」
「はい、マスター。任せてください。俺の命に変えても、美和さんを幸せにします。……『Bar風花』という彼女の城を、二人でずっと守っていきます」
天もまた、凛とした真っ直ぐな瞳で答え、老マスターと固い握手を交わした。
『——台北行き、〇〇便にお乗りのお客様は、搭乗口へお越しください——』
ターミナル内に、出発を告げる澄んだアナウンスが響き渡る。
老マスターはくるりと振り返り、最後に美和に向かって拳をそっと胸に当て、あの言葉を告げた。
「……じゃあな、美和。……またいつでも『ただいま』と言いに来い」
「……はい! 『ただいま』って……絶対にまた会いに行きます!」
手を取り合い、保安検査場のゲートの向こうへ歩いていく二人。
羽婷が何度も何度も振り返り、千切れんばかりに大きく手を振っていた。その姿が手荷物検査の奥へ消えていくまで、美和と天はいつまでも立ち尽くし、手を振り続けていた。
帰り道。GT-R NISMOの車内。
夕空が深みのある紫から、燃えるような茜色へと美しくグラデーションを描いていた。
高速道路を滑るように走る車内で、助手席の美和は車窓の外を流れる夕暮れの景色を静かに見つめていた。その美しい異色瞳の瞳には薄っすらと涙の痕があったが、その表情は驚くほど晴れやかで、満ち足りた光をたたえている。
天が静かにハンドルを握りながら、シフトレバーの脇から左手をそっと差し出した。
美和はその温かな手を、自分の両手でしっかりと握り返す。
「……素敵な別れだったね、美和さん」
「ええ……。マスターがくれたあの温もりを、私はこれからもずっと……この『Bar風花』で大切に守っていきます。天ちゃんと一緒に……一期一会のお酒に心を込めて」
「うん。ずっと一緒に守っていこう。俺も、美和さんの注ぐ一番のカクテルを、一番近くで見守っているから」
静かで滑らかなV6エンジンの音が、夕闇の迫る街道に心地よく溶けていく。
風花町へ続く道を、GT-Rは滑るように走り抜けていく。
台北の冷たい路地裏で灯った小さな明かりと、風花町で静かに咲き誇る桜の光。
国境と時を超えた深い師弟の絆と愛を胸に、二人は自分たちの愛しい我が家、そして誇り高き『Bar風花』へと帰っていった。
台北への帰国から一ヶ月が過ぎた、ある夏の終わりの夕暮れ。
風花町の街灯がアンバー色の温かな光を灯し始める頃、『Bar風花』の店内は澄みきった静寂に包まれていた。
程良く空調の効いた空気の中で、美しい残響のようなジャズピアノが流れている。カウンターの中でバカラのアンティークグラスを丁寧に磨いていた美和は、ふと手を止めた。
レトロな真鍮製の黒電話が、静寂を破るように澄んだ音で鳴り響いたのだ。
「はい、『Bar風花』でございます——」
『美和さーーーーんっ!! 私、決めたよ!!』
受話器から跳び出してきたのは、店内全体に響き渡るほどの元気な大歓声。台北の羽婷からだった。
「ふふ、羽婷ちゃん? どうしたの、そんなに慌てて」
『私ね! 大学の交換留学制度を使って、秋から日本の大学に留学することに決めたの!! 住むのはもちろん、風花町だよ!!』
「ええっ……!? 風花町に……!?」
驚きで右のワインレッド、左のアンバー——美しい異色瞳を大きく見開く美和。
カウンターの一番奥、定位置である第7席で静かにルポの原稿を執筆していた夫の天も、驚いて万年筆を置いた。
「えっ、羽婷ちゃんが風花町に……?」
『おじいちゃんもね、「あんな温かい街なら安心だ。美和のところに行って、たくさんのことを学んでこい」って背中を押してくれたの! ……あ、おじいちゃんと代わるね!』
電話の向こうでガサゴソと音が響き、やがて聞き覚えのある、芯の通った老バーテンダーの渋い声へと変わった。
『……美和か。あのアホ娘が騒がしくてすまん』
「マスター……! 本当ですか? 羽婷ちゃんが風花町へ……!」
『ああ。あいつ、台北に帰ってきてからというもの、毎日風花町と『風花』の話ばかりでな。……美和、図々しいお願いだが、あいつの保証人になってやってくれないか? それに……もし良かったらでいい。営業前や休みの日に、あいつに日本の『おもてなし』の心を叩き込んでやってほしいんだ』
受話器越しに伝わる老マスターの照れくさそうな、けれど孫への深い愛と美和への絶対の信頼が詰まった言葉。
美和は胸がいっぱいになり、溢れそうになる愛おしい笑みを噛み殺しながら、背筋を伸ばして力強く答えた。
「……はい! もちろんです、マスター! 羽婷ちゃんのことは、私と天ちゃん、そして家族みんなで責任を持って見守ります!」
『……感謝する。また近いうちに、あいつの荷物を持って俺も挨拶に行くからな』
電話を置くと、奥の厨房の暖簾がふわりと揺れた。
そこからすっと顔を出したのは、いついかなる時も一切の乱れなく優雅に纏う、完璧な漆黒と純白のロング丈クラシックメイド服に身を包んだ千草だった。
「あらあら…風花町がまた一層賑やかになりそうねぇ。櫻庭家の離れも、いつでも使えるように綺麗にお掃除しておかなくっちゃ」
千草がフリルを揺らして嬉しそうに手を叩くと、天も穏やかな笑みを浮かべて腕まくりをした。
「うん、そうだね。俺も大学までの通学用の自転車の整備や、日用品の準備をしておきます」
美和は受話器の上にそっと手を添え、アンバー色の照明を受けて静かに艶めく鉄刀木の一枚板カウンターを見つめた。
(台北のあの小さな地下室でマスターから受け取った温かなバトンが……今度は羽婷ちゃんを通して、この風花町で新しく芽吹いていくのね……)
重厚なオーク材の扉の隙間から、ほんのりと桜の香りを含んだ風花町の風が、かすかに吹き抜けていく。
新しい家族、新しい風を迎える喜びを胸に抱きながら、今夜も『Bar風花』の温かな夜が静かに始まろうとしていた。
【あとがき】
台北の冷たい地下室から始まった美和と老マスターの師弟の物語、そして風花町での心温まるひとときをお届けいたしました。
師から弟子へ、そしてまた次の世代へ——。
形は変われど、心を込めて誰かを想う「温もり」のバトンは、これからも『Bar風花』のカウンターで静かに紡がれていきます。
羽婷ちゃんが風花町にやってくる賑やかな日常も、またどこかでお見せできれば幸いです。
物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや作品への評価(★★★★★)、ご感想をお寄せいただけますと大変嬉しく思います。
皆様の温かな一言が、風花町に咲く桜のような励みになります。
今夜も『Bar風花』の扉を開けていただき、誠にありがとうございました。
またのお越しを、心よりお待ちしております。
天照(Bar風花)




