【Bar風花】第二章 茜色の風とガレージに眠る爪痕 〜暴走乙女たちは炭火の煙と280馬力の狂気に酔いしれる〜
【前書き】
※ 夏祭りの狂騒を終えた、ある晴れた夏の日の物語です。
※ 戦闘シーンはありません。櫻庭家の庭先で繰り広げられる、ささやかな日常と飯テロの回となっております。
※ バイクやメカニックの濃密な描写が含まれます。
※ 非常に美味しそうな料理(飯テロ)の描写がございますので、空腹時のご読了にはご注意ください。
蝉時雨が遠く社叢を揺らし、木漏れ日が芝生に柔らかな影を落とす昼下がり。
此花神社の夏祭りを全力で駆け抜けた乙女たちが、櫻庭家の庭先へと集ってまいりました。
煙の向こうに香る極上の肉と、グラスの縁を彩る涼やかな一滴。
そして——ガレージの暗がりに静かに息づく、美しき狂気の爪痕。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてください。
第一章:庭先に並ぶ鉄馬たちと、煙のプロローグ
チチチ、と梢で騒ぐ鋭い鳥の声を、昼下がりの濃密な蝉時雨が容赦なく塗り潰していく。
此花神社の鬱蒼とした社叢に隣接する、櫻庭家の平屋。その広い芝生の庭へと続く私道に、乾いた、しかし重厚な爆音が次々と滑り込んできた。
先頭を切るのは、丹念に磨き上げられたソウルレッドクリスタルメタリックにオールペイントされたタンクが陽光を撥ね返す、葛木彩子のKawasaki Z400FX。その直後を、ツインテールをヘルメットの裾から覗かせた胡桃のZRX400が、小気味よい金属音を響かせながら追う。
さらに、メッシュ入りのショートカットが印象的な未華子のRZV500Rベース・RZ350オマージュ仕様が、2ストローク特有の、弾けるような甲高い白煙のファンファーレを響かせた。
最後尾からは、ロングのポニーテールを揺らす佳苗のGPZ400Fと、ピカピカに維持された名車・HONDA CBX400Fを駆る由美が、美しい直4シンフォニーを奏でながら並ぶ。
「ふう……! ギリギリセーフ。由美、あんたの家の前を通るとき、ちょっとヒヤヒヤしたわよ」
ヘルメットを脱ぎ、ハンサム・ショートの髪を大胆にかき上げた彩子が、苦笑交じりに隣のCBXを振り返った。由美が、気まずそうに頰をかく。
「す、すみません彩子さん。うちの彼氏、風花署の交通機動隊だから……。非番の日に、家の前でこの排気音を響かせたら『由美、また暴走族の集まりか!』って怒られちゃうんで……」
「何が暴走族よ、失礼ね。私達はただの『お祭りのお片付けお疲れ様会』に呼ばれた、淑女の集まりよ?」
胡桃が愛車のZRXのサイドスタンドを払いながら、クスクスと笑う。
バイクを降りた彼女たちの服装は、いつもの特攻服ではなく、涼しげなサマードレスや、タイトなジーンズにノースリーブといった夏らしい私服姿だ。その誰もが、先週の此花神社の夏祭りを全力で駆け抜けた、爽やかな疲労感と達成感をその瞳に宿していた。
「皆様、ようこそおいでくださいました」
庭の奥、大きな日よけターフの影から、糊のきっちりと利いた純白のエプロンを揺らしながら、千草が姿を現した。その耳元では、大粒の『ムゾー・グリーン』のエメラルドが、昼下がりの木漏れ日を吸い込んで気高く瞬いている。
「美和も天も、皆様をお迎えする準備は万全ですわ。さあ、どうぞこちらへ」
千草の案内で芝生へと足を踏み入れた一同は、そこにしつらえられた光景に、思わず小さく息を呑んだ。
風花町の青空と、庭先に集う淑女たち
ターフの下には、木肌の美しい大きなガーデンテーブルが整えられていた。
風花町の爽やかな風が、庭の木々を揺らして心地よい日陰を作っている。
「すごーい! まるで高級リゾートのガーデンパーティーじゃない!」
胡桃が目を輝かせ、テーブルに飾られた可憐な季節の花に手を伸ばした。
「みんな、暑い中よく来てくれたね。今日は遠慮せずに、ゆっくり楽しんでいってね」
天ちゃんが穏やかな笑みをたたえて挨拶すると、彩子たちも「お邪魔します!」と元気に声を揃えた。夏祭りの疲れを癒やす特別な昼下がりが、こうして静かに幕を開けたのだった。
第二章:櫻庭家流・大人のBBQ
一般的なバーベキューと聞いて思い浮かべるのは、薄切りのバラ肉や、焦げ付いたキャベツ、そして最後にとりあえず炒められる焼きそばの姿だろう。
だが、天ちゃんが笑顔で団扇を煽る炭火の焼き台の上に置かれていたのは、そんなありふれた食材ではなかった。
「うわぁ……! 何ですか、このお肉……!」
現・紅蓮華の喧嘩最強と目される佳苗が、格闘家としての野生の直感を刺激されたように、その大きな目をらんらんと輝かせた。
網の上に鎮座していたのは、美しいサシが均一に入った、大人の拳を二つ並べてもまだ足りないほどの大きさと分厚い厚みの九州産黒毛和牛の「トマホークステーキ」――骨付きの巨大な塊肉だった。
その周囲を取り囲むように、風花町の豊かな湧水で育った、丸々と太った丸ナスの瑞々しい紫、包丁を入れただけで果汁が弾けそうなパプリカの赤と黄、そして皮ごとじっくりと焼かれている新玉葱が、炭火の熱を受けて静かに汗をかいている。
「みんな、先週は本当にありがとう。彩子さんをはじめ、みんなの力添えがなければ、あんなにたくさんのレモネードを町の人に届けることはできなかったよ」
天ちゃんが麦わら帽子の庇を上げ、穏やかな、しかしどこか芯のある声で一同を迎えた。
「料理っていうのはね、火を通すことで素材の命をもう一度、人間の身体に合わせて組み替える作業なんだ」
天ちゃんはそう言いながら、手際よくトングで塊肉の側面を焼き、肉汁を内側へ閉じ込めていく。
ただ強火で焦がすのではない。炭の配置を計算し、遠火の強火で、肉の繊維にゆっくりと熱を伝えていく。
「お肉の表面にね、こうしてじんわりと脂が浮いてきたら、それが『僕を食べてくれ』っていう素材の合図なんだよ。シンプルな塩と胡椒、それから、風花町で採れたワサビを少し添えるだけで、お肉は最高の調味料に変わるんだ」
千草が手際よく大皿に切り分けたトマホーク。その断面は、完璧な薔薇色に染まっていた。
胡桃がそっと一切れを口に運ぶ。
「……んんっ……! 柔らかい……! なにこれ、噛んだ瞬間に、お肉の甘いジュースが口の中に溢れて、そのまま溶けちゃう……!」
「この丸ナスも凄いよ、彩子さん!」
未華子が熱々のナスをハフハフと息を吹きかけながら頬張る。
「外側は炭の香りが香ばしいのに、中は信じられないくらいトロトロで、まるでお出汁をそのまま固めて焼いたみたい……!」
「野菜の水分をね、皮の中に閉じ込めて蒸し焼きにするんだ。素材が持っている本来の水分だけで調理する。それが、この土地の恵みを一番素直にいただく方法だからね」
天ちゃんの丁寧な説明に、佳苗は肉を咀嚼しながら、その無駄のないトング捌きと、炭の熱を完璧に見切る所作をじっと見つめていた。
(この人……ただの優しい旦那さんじゃない。重心のブレのなさ、間の取り方……絶対に、一線を越えた修羅場をくぐってる……)
武闘派としての佳苗の勘が、天ちゃんの背後に潜む静けさを察知していた。だが、その気配はすぐに、優しく肉を切り分ける天ちゃんの笑顔の中に霧散していくのだった。
素材の命を慈しむ、炭火の魔法
絶品のお肉と野菜に、箸を休める者は誰もいなかった。
「炭の置き方一つで、これほど味に違いが出るとは思いませんでした」
感嘆する佳苗に、天ちゃんは嬉しそうに微笑みかける。
「素材が喜ぶ火加減を見極めてあげるだけだよ。料理も武道も、相手の声を聴くという意味では同じかもしれないね」
その温かく深みのある言葉に、一同は深く頷きながら、風花の恵みを心ゆくまで堪能した。
第三章:バーテンダーの調律と、ノンアルコール・ビア
「皆様、お肉の脂を綺麗に洗い流す、冷たいお飲み物はいかがですか?」
涼やかな鈴の音のような声とともに、美和が庭に設置された木製のサイドテーブルの前に立った。
彼女のワインレッドとアンバーの異色瞳が、夏の光の中で神秘的な輝きを放っている。
彼女たちが乗ってきたのは、どれも一世を風靡した名車ばかり。当然、帰りもステアリングやハンドルを握る以上、美和がお酒を出すわけにはいかなかった。
だが、プロのバーテンダーにとって、アルコールの有無などは、その技術を制限する理由にはなり得なかった。
「お酒を飲めない状況だからこそ、胃の腑を満たし、喉の渇きを癒やすための一杯には、人生を豊かにする調律が必要だと思うのです」
美和の前に並べられたのは、極限まで薄く作られた、クリスタル製のタンブラー。
彼女はまず、氷を入れずにそのグラスの縁に、もぎたてのライムの切り口を優しく滑らせた。さらに、天然塩をほんの少しだけ、まるで朝霜のように薄く這わせる。
取り出したのは、ドイツのプレミアム・ノンアルコールビール『クラウスターラー』。
冷やされたグラスの底へ、まずは自家製のジンジャーシロップを正確に満たしていく。
そこへクラウスターラーを静かに、けれど絶妙な勢いで注ぎ込むと、炭酸の対流によってシロップが自然と黄金色の液体に溶け込んでいく。
立ち上るのは、カプチーノのミルクフォームのようにきめ細やかで純白な泡。
仕上げに、生姜の爽快な香りを引き立たせるライムピールをひと絞り——グラスからフレッシュな風味がふわりと立ち上った。
「どうぞ。風花特製、『ノンアルコール・スノー・パナシェ』です」
最初にグラスを受け取ったのは、普段メイド喫茶でアルバイトをしている未華子だった。
彼女は、美和の無駄な動きが一切ない、流れるようなサーブの美しさに半ば見とれながら、その薄いグラスを唇に当てた。
「……っ!」
未華子の身体が、静かな衝撃に小さく震えた。
「冷たっ……! いえ、それだけじゃなくて……! ノンアルなのに、なんでこんなにコクがあって、喉越しがキリッとしてるんですか!?」
「秘密は、グラスの縁の塩と、僅かな生姜の絞り汁です」
美和は優しく微笑んだ。
「人間の舌は、ほんの僅かな塩味を感じることで、その後に続く麦芽の甘みを何倍にも深く感知するようにできています。そして、生姜の辛みが、アルコールが持っているはずの『喉への刺激』を擬似的に作り出しているのです。ただお酒の代わりとして飲むのではなく、今この瞬間、お肉を最も美味しく食べるための『液体』として調律いたしました」
「凄いわ……」
彩子がグラスを傾け、しみじみと呟く。
「ただの炭酸水や、市販の缶をそのまま開けるのとは訳が違う。美和さん、あんたの手にかかると、ただのノンアルコールが、ちゃんと『物語』を持った一杯になるのね」
「私のバイト先で出してる『美味しくなる萌えの呪文』なんて、この本物の前には何の役にも立たないわ……」
未華子が呆然と呟くと、隣の胡桃が「当たり前でしょ、美和さんは本物のプロなんだから!」と笑いながら彼女の肩を叩いた。
お互いに異なるアプローチで「客の心を満たす」仕事を専門とする彼女たちだからこそ、美和の指先一つに込められた、妥協のない哲学の重みが誰よりも深く理解できる。
昼下がりの庭に、少女たちの感嘆の声と、冷たいグラスが触れ合う心地よい音が響き渡っていた。
氷とガラスが奏でる涼やかな旋律
美しい所作で一杯ずつ丁寧に注がれるドリンクは、まさに極上の芸術品だった。
「ノンアルコールでこれほど満たされるなんて、思ってもみなかったわ」
彩子が感心したようにため息を漏らす。
「最高のお料理と、最高の『調律』。これ以上の贅沢はありませんね」
佳苗も誇らしげにグラスを掲げ、風花町の心地よい風の中で冷たいひとときを堪能した。
第四章:暴走機関車と、それぞれの現在地
宴が中盤に差し掛かると、櫻庭家の庭はさらに賑やかさを増していった。
「ちょっと千草様! さっきから天様のダッチオーブン料理を、さもお自分がすべて仕上げたかのような顔でサーブするのはおやめになって!」
天野里美が、普段の完璧な秘書官の仮面をどこかへ置き忘れたような顔で、千草に詰め寄っていた。その手には、天ちゃんが作った夏野菜のラタトゥイユの皿が握られている。
「あら、里美様。わたくしはただ、一番美味しいタイミングで皆様の元へお届けするのがメイドとしての義務だと心得ているだけですわ。それに、天様のお料理のポテンシャルを120%引き出したのは、わたくしの火加減の調整があってこそですもの」
「なんですって……! 今日は私が天様御夫妻の完璧なサポートをすると誓って参りましたのに!」
エプロンのポケットを揺らしてフンスと胸を張る千草と、大粒のヘマチタ産アレキサンドライトを揺らして周りへの愛と独占欲を萌え上がらせる里美。その熱量あふれる対立ぶりに、美和と天ちゃんは顔を見合わせ、ただ温かくクスクスと笑い合う。
紅蓮華のメンバーたちは、その「櫻庭家の賑やかな身内揉め」を、美味い肉を咀嚼しながら呆然と、しかし楽しそうに見物していた。
一方、テーブルの隅では、由美が手元のスマートフォンを何度も気にしながら、肉を突いていた。
「なーに色気づいた顔してスマホ見てんのよ、由美」
彩子が意地悪くその背中を突っつく。
「あ、彩子さん! 違いますよ、ただ……その、交機の彼氏が、今日の夜勤のシフトが終わったら、近くまで迎えに来てくれるかもって言うから……」
「へえー、警察官の彼氏ねぇ。紅蓮華の旗持ちが、よりによってお巡りさんとね。スピード違反で捕まったら、身内で揉み消してもらえるわけ?」
胡桃がニヤニヤしながらからかう。
「揉み消せるわけないでしょ! むしろ『由美、またあの爆音CBXの後ろに乗って旗持ってたろ!』って、交機の身内だからこそ余計に厳しく説教されるんだから!」
「あはは! それは傑作ね。まあ、里美ちゃんもちゃんと由美ちゃんを後ろに乗せて走ってくれてるんだから、彼氏さんにも大目に見てあげてほしいわね」
現役メンバーたちのそんな他愛のない、しかし確かな絆を感じさせる掛け合いを、彩子は少し離れた場所から、煙草を咥えずに静かに見つめていた。
「いい仲間たちね、彩子さん」
美和が、新しく淹れた冷たいお茶を彩子に手渡しながら、そっと隣に腰掛けた。
「ええ……。私が現役だった頃とは、また少し時代もチームの空気も違うけれど。でもね、あいつらがバイクっていう鉄の塊を通じて、お互いを信じて、こうして笑い合えているのを見ると、悪くないなって思うのよ」
彩子は、酒精色のロードライトガーネットを耳元で揺らしながら、美和に視線を向けた。
「美和さんや天ちゃんが、この風花町で私達をこうして温かく迎えてくれるから、あいつらも安心して羽を休められるの。本当に、ありがとうね」
「私達の方こそ、皆様の若いエネルギーにたくさんの元気をいただいています。ここはね、いつでも誰もが、肩書きや背負っているものを下ろして、ただの『一人の人間』に還るための場所ですから」
美和のワインレッドの瞳が、夕暮れの柔らかい茜色の光を吸い込んで、まるで極上のヴィンテージワインのように深く、優しく揺れていた。
茜色の風と、受け継がれる絆
賑やかな笑い声が交錯する庭に、夕暮れの穏やかな風が吹き抜ける。
「みんな、本当にいい顔をするようになりました」
彩子が目を細めながら呟く。
「居場所があるということは、それだけで人を強く、優しくするものですから」
美和の温かい言葉に、彩子は静かに頷き、手元のお茶をゆっくりと味わった。
第五章:開かれたガレージの怪物たち
楽しい時間は瞬く間に過ぎ去り、風花町の空は、濃い群青色から徐々に深い夜の帳へと移り変わろうとしていた。
虫の声が蝉から鈴虫へとバトンタッチを終える頃、お腹も心も満たされた紅蓮華のメンバーたちは、名残惜しそうにヘルメットを抱え、駐車場へと歩き出した。
「天ちゃん、美和さん、千草さん、ごちそうさまでした! 本当に美味しかったです!」
胡桃たちが深々と頭を下げ、それぞれの愛車のエンジンに火を入れようとした、その時だった。
「……ん? なんだあれ」
佳苗が足を止め、母屋の横へと視線を向けた。
そこには、普段は固く閉ざされている大型ガレージがある。そのシャッターが、メンテナンスのためか膝の高さほどまで静かに持ち上がっており、隙間から仄かな暖色のガレージライトが漏れていたのだ。
バイク乗りとしての好奇心を抑えきれず、留美子たちが吸い寄せられるようにそっと覗き込む。
「うそ……マジで……!?」
そこに浮かび上がった光景を目にした瞬間、総長の彩子をはじめ、現役メンバー全員の身体が、まるで落雷に打たれたかのようにその場で完全に硬直した。
「……っえ……?」
未華子の口から、ひび割れたような小さな声が漏れる。
ガレージの奥に整然と並んでいたのは、彼女たちがこれまでストリートや雑誌の中でしか見たことのない、あるいは想像すらしたことのない、文字通りの「怪物」たちだった。
まず、右手に静かに佇むのは、宇宙航空部門の技術を結晶させた、カーボンカウルを全身に纏ったモンスター――Kawasaki Ninja H2 CARBON。
グリーンのトレリスフレームが、スポットライトを浴びて不気味なほど美しく浮かび上がり、スーパーチャージャーのインテークが、まるで大気を喰らう獣の顎のように開いている。
「H2カーボン……実物、初めて見た……。美和さん、まさかこれ、貴方の……?」
メカマニアである未華子が、完全に呼吸を忘れた目でその流体力学の結晶を見つめていた。美和は、いつもの凛とした笑みを崩さないまま、小さく頷いた。
そして左手、一際異彩を放つイタリアン・レッド。
サーキット専用機としてのDNAをそのまま公道へと持ち込んだ、Ducati Panigale V4 R。
鋭利なウィングレットが左右に広がり、乾式クラッチのケースが、その過酷なまでの戦闘力を雄弁に物語っている。
「……Panigale V4 R……」
彩子が、咥えようとした煙草を持つ手を完全に止め、その引き締まった目元を驚愕に染めた。
「おいおい……冗談だろ。これ、市販車だけど中身は完全にモトGPマシンじゃない。誰がこんなじゃじゃ馬を乗りこなすのよ」
「ふふ、たまにはわたくしも、この糊の利いたエプロンを脱ぎ捨てて、風の彼方へと駆け抜けたくなりますのよ?」
千草が、エプロンの裾を優しくつまみながら、悪戯っぽく、しかし絶対的な自信をその瞳に宿して微笑んだ。
だが――そんな世界最高峰のハイテクマシン2台に挟まれ、中央に鎮座する「その1台」を見た瞬間、佳苗はあまりの衝撃に足の震えを止められなくなった。
そこにいたのは、鮮やかなファイヤークラッカーレッドと鈍く光るガンメタルの外装を纏った、Kawasaki GPZ900R Ninja。
フロントとサイドのカウルを残し、アンダーカウルを潔く取り払ったその姿は、一見すれば往年の定番カスタムに見える。だが、佳苗の乗るGPZ400Fとは、放っている存在感の「密度」が違いすぎた。
「な、に……これ……?」
佳苗が吸い寄せられるように一歩、前に踏み出す。
エンジンブロックの隙間から覗くのは、900R純正のそれではない。水冷4ストローク並列4気筒、ZZR1100の心臓部が、完璧なアライメントでそのフレームにスワップされていた。組み込まれたヨシムラ製のパーツ類や、極限まで詰められた補機類の造形。単なるエンジン載せ替えにとどまらず、1100ccの領域すら超えてスープアップされているであろう『怪物』の気配に、留美子たちの背筋が震えた。
排気を受け止めるのは、チタンの焼き色も禍々しいデビル(devil)の4-1集合管。さらに足回りにはオーリンズの倒立フォークとブレンボのキャリパーが奢られ、現代のメガスポーツをねじ伏せるための冷徹な補強がフレームの随所に施されている。
「フレーム補強に、ZZRのエンジンスワップ……それだけじゃない。インテークの奥にある、あの配管と……テールカウルの中に隠されてる、あのカーボンラップのボトル、まさか……」
未華子が指を震わせながら、そのマシンの「もっとも異常な部位」を凝視した。
ウェット式のスプレーバー、そして左グリップの親指が届く位置に配置された、安全スイッチ付きの小さなボタン。
「……NOS……!?」
未華子の悲鳴のような声が、静かなガレージに響いた。
「ただでさえフルチューンのZZRエンジンで170馬力は出てるはずなのに……あのショット量、ボタンを押したら一瞬で280馬力オーバーまで跳ね上がる。これ、直線なら隣のH2カーボンすら置き去りにする、一瞬だけ地獄の門を開くためのバケモノだよ……!」
「嘘……」
佳苗の拳が、その圧倒的な威圧感を前に、武者震いで小さく震えていた。
トップガン仕様なんてレベルではない。伝統の皮を被りながら、その内側に「常軌を逸した凶暴さ」を完璧にハイドした、隠れた獣。
「あはは、ちょっと夜風に当たりながら、遠くまで調べ物に行きたくなるときがあってね」
天ちゃんが麦わら帽子を指先で少し上げながら、困ったように、しかしどこか悪戯っぽい笑みを浮かべてマシンの傍らに立った。その手つきは、オービックのパイプハンドルをいつでも我が手のように手懐けられる、本物のライダーのそれだった。
美和が隣のH2カーボンに視線を遣い、それから天ちゃんのGPZを見つめて、ほんの少しだけ、カウンターで見せるような悪戯っぽい、そして切なげな瞳を揺らす。
(……天ちゃん。いつもそうやって、私の一歩先を、その悪魔のような咆哮と一緒に駆け抜けていってしまうのですね)
能ある鷹は爪を隠す。だが、その爪は、自分たちの世界を脅かすためのものではない。ただ、自らの誇りと、愛するものを守るために、静かにそこに研ぎ澄まされているのだ。
彼女たちが命を懸けて愛する「バイク」という世界において、櫻庭家が隠し持っていたその圧倒的な「本物」のポーション。
普段は穏やかで、ただ優しい微笑みを湛えている天ちゃんが、その親指一つに「280馬力の狂気」を従えているという事実に、紅蓮華全員の背筋を、心地よい戦慄が駆け抜けていった。
ガレージに息づく、美しき狂気
静まり返るガレージで、マシンたちは静かにその爪を磨いていた。
「こんなバケモノ、滅多にお目にかかれないわ……」
未華子が吐息を漏らすように呟く。
「ええ、まさに櫻庭家の真骨頂ですね」
彩子は感服したように微笑み、本物の凄みに深く浸るのだった。
第六章:帰路の咆哮、神域の余韻
「……ハッ、やっぱり、櫻庭家には敵わないわね」
彩子が、降参したようにふっと笑い、Z400FXのキックペダルを力強く踏み下ろした。
カチン、という金属音の直後、400ccの空冷直4エンジンが目覚め、太い排気音が夜の空気を震わせる。
それに続くように、胡桃のZRX、未華子のRZV、佳苗のGPZ、そして由美のCBXが、次々とその咆哮を上げ始めた。
その排気音の群れは、先ほど目撃したガレージの怪物たちへの、暴走乙女たちからの最大級の「敬意の挨拶」のようでもあった。
「天ちゃん、美和さん! またお店にも行くからね!」
彩子がヘルメットのシールド越しに手を挙げ、クラッチを繋ぐ。
一台、また一台と、テールランプの赤い光の列が、櫻庭家の私道を下り、風花町の夜の静寂へと鮮やかに消えていった。遠ざかっていく排気音の残響が、まるで夏の夜の終わりの花火のように、いつまでも心地よく耳の奥に残る。
(※なお、天野里美は「私の完璧なサポート業務はまだ終わっていません!」と千草と張り合い、結局片付けの最後まで櫻庭家に残り、夜遅くにBMW K1600GTLの重厚なシルキーシックスの音を響かせて帰路につくことになるのだが、それはまた別の話である)
夜風の向こうへ繋がる未来
静けさを取り戻した櫻庭家の庭に、夜風が優しく吹き抜ける。
「賑やかで、良い一日でしたね」
美和が遠ざかるテールランプの余韻を見つめながら呟いた。
「そうだね。またいつでも、みんなで集まるといい」
天ちゃんが微笑み、妻の手を優しく包み込む。風花町の夜は、静かに、そして温かく更けていった。
【あとがき】
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
今回は、夏祭りを無事に終えた『紅蓮華』の少女たちを招いての、櫻庭家流・打ち上げバーベキューをお届けいたしました。
遠火の強火でじっくりと肉汁を閉じ込めたトマホークステーキに、旬の丸ナスの瑞々しい蒸し焼き。そして美和の手による、喉を洗う『ノンアルコール・スノー・パナシェ』。書いていて思わず冷たいビールと極上のステーキが恋しくなるような、夏の恵みを詰め込んだエピソードとなりました。
ラストのガレージで明かされた、櫻庭家の「本物の領域」。
普段はどこまでも穏やかな天ちゃんが、その親指一つに秘めている圧倒的な熱量を、バイク乗りである彼女たちの視点を通して感じていただけたなら幸いです。
もし今回の「大人のBBQと隠された怪物たち」をお気に召していただけましたら、下部の**【☆☆☆☆☆】**からの評価やブックマーク、温かいご感想をいただけますと、執筆の大きな糧となります。
風花町の風が、皆様の元にも心地よく届きますように。
天照(Bar風花)




