【Bar風花】第二章 硝子の向こうの初な酩酊 〜鉄刀木に落ちた2つの薔薇〜
【前書き】
※本作は神話の神々の現身たちが織りなす、日常と聖域の物語です。
※今回は戦闘描写はなく、大切な人の訃報に接した男の哀悼を描く、少し切ないシリアス回です。
※重厚なバーボンの焦燥と、夜の闇に咲くカクテル、そして常連たちの温かな調律にご注意ください。
ある夜の『Bar風花』の鉄刀木のカウンターに、ポツリと落ちた声なき涙の染み。
大切な友の突然の喪失を前に、理性を失うほど深く酩酊していくルポライター・櫻庭天。
これは、言葉を失った男の孤独な横顔と、それを言葉にせず丸ごと抱きしめる、静謐な夜の調律の記録。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてください。
第一章:語らぬルポライターと四輪の薔薇
その夜の『Bar風花』の空気は、どこかいつもと違っていた。
外の細い路地には、淡い橙色のランタンが蝋燭のように揺らめき、店内には古いレコードの残響のような静かなBGMが流れている。いつも通りの、澄みきった風花の夜。
だが、鉄刀木の一枚板の最奥――天の「定位置」に漂う空気だけは、ひどく重く、冷えていた。
「…………」
天は、何も言わなかった。
ただ、目の前に差し出されたクリスタルグラスを、いつになく激しい所作で掴むと、喉を鳴らして一気に煽る。ゴトリ、と重厚なアンティークの硝子が、鉄刀木の深く黒い赤褐色の木肌に、鈍い音を立てて置かれた。
親しくしていた作家、そして、共に時代を歩んだ友人の突然の訃報。
ルポライターとして、言葉を紡ぐプロとして、あまりにも突然失われたその「友の足跡」の重みに、天の心は音を立てて軋んでいた。しかし、彼はそれを言葉にして美和にぶつけることはしなかった。ただ、痛みをアルコールで麻痺させるように、静かにグラスを重ねていく。
美和は、何も言わなかった。
右のワインレッド、左のアンバーの異色瞳は、夫の凍てついた横顔をすべて見通していた。けれど、「どうしたの」とも「飲みすぎよ」とも言わない。それは彼女がこの聖域に設けた、無言の、けれど絶対のホスピタリティだった。
美和はただ、指紋一つない一本のボトルをバックバーから静かに引き出し、天のグラスが空になるたび、優しくチェイサーのグラスを滑らせながら、一寸の狂いもない所作で琥珀色の液体を注ぎ続けた。
ラベルに立体的に刻まれた、四輪の紅い薔薇。――『フォアローゼズ シングルバレル』。
他の一切の原酒とブレンドされず、ただ一つの樽の個性だけを貫いてボトリングされたその50度のバーボンは、今夜の天の深い孤独そのもののようだった。
爆発的なバニラの甘みの奥から、オークの鋭いトゲが容赦なく天の喉を焼き焦がす。
ゴトリ。
また、グラスが置かれる。
その鉄刀木の一枚板の上、少し手前の美しい木肌に、ポツリ、ポツリと、小さな水の跡が広がっていった。
それは、余計なものは一切置かないはずの神聖なカウンターの上に落ちた、天の、声なき涙の染みだった。
第二章:常連たちの調律
黒革のローチェアーには、数人の常連たちが腰を下ろしていた。
いつもなら、スマホで綺麗なカクテルの写真を嬉しそうにパシャリと撮っている山﨑響子も、今夜はカメラを向けようとはしなかった。隣の席に座る橘栞弁護士も、いつもなら法廷での鋭さを微かに残した知的な瞳を緩めているはずが、今夜はどこか厳かで、優しい光を宿している。
いつも店を包むはずの常連たちの楽しげなおしゃべりは、今夜は、天の静かな涙の邪魔をしないよう、驚くほど静かな、囁き声のような温度に調律されていた。
「……天ちゃんが、酔ってる」
響子が、ストローの先の氷を小さく鳴らしながら、隣の栞にだけ聞こえるような微声で呟いた。その瞳には、いつもの天真爛漫な輝きではなく、年上の友人に対する深い心配の色があった。
「ええ……。初めて見たわ」
橘栞は、自分のハーフロックのグラス見つめたまま、静かに深く頷いた。
どんな時も一線を画し、美和の夫として、一人の紳士として、この店で最も美しい立ち振る舞いを見せていた櫻庭天。その彼が、カウンターに涙の跡を滲ませるほど、深く、深く酩酊している。
普通なら、バーでのそんな姿は「無粋」とされるのかもしれない。
けれど、響子も、栞も、あるいは他の常連たちも、誰一人としてそれを不快に思う者はいなかった。彼らの心の底には、いつもこの店を、そして美和を大切に守ってくれている天への、家族のような愛おしさと敬意が流れていたからだ。
「……今日は、私たちが天ちゃんを見守る番ね」
栞の小さな呟きに、響子はただ、何度も小さく頷いた。
響子は写真を撮るのをやめ、栞は長居するのをやめ、みんなが「天ちゃんが、美和さんの前で安心して壊れられるように」と、そっと気配を消すように、それぞれのグラスを静かに傾けていた。
第三章:結界の向こうの一輪
夜が更け、常連たちが「お先に」と、いつも以上に静かに、けれど温かい目配せを美和に残して扉の向こうへ去っていった。
カチャリ、とオーク材の扉が閉まり、店内には完全な静寂が訪れる。
天は、ついに力尽きたように、涙の染みが広がる鉄刀木のカウンターの上に、こてん、と頭を横たえてしまった。長年の使用で磨き上げられた黒褐色の木肌が、彼の熱い体温を静かに吸い取っていく。
「…………」
無言のまま、美和は静かに動いた。
手に取ったのは、大ぶりの美しいロックグラス。冷凍庫から取り出した、ダイヤモンドのように磨き上げられた純度の高い氷が、グラスの中でカランと涼やかな音を立てる。
美和はそこへ、深く芳醇なゴールドラムを45ミリリットル、正確に注ぎ入れた。続けて、丁寧にドリップして冷やしておいた漆黒のアイスコーヒーを、氷を伝わせるようにして静かに、静かに注いでいく。
仕上げにほんの少しのガムシロップを落とし、バースプーンで一度、二度、優しく氷を回して軽くステアした。
琥珀色と漆黒がグラスの中で静かに混ざり合い、アンバーの照明に透けて深い闇を形成していく。――カクテル『ブラック・ローズ』。
「天ちゃん。50度の薔薇は、少し痛すぎたでしょう? ……こっちの薔薇を、飲んで」
美和の優しい声に、天はゆっくりと顔を上げた。
差し出されたグラスから、氷が小さく音を立てる。震える手でそれを口元に運んだ。
ラムの温かなコクと、コーヒーの清涼な苦味が、バーボンに焼かれた天の喉を、そして冷え切った胸の奥を、全幅の優しさでじんわりと包み込んでいく。それは、闇の中に咲く、美和という一輪の温かい薔薇そのものだった。
「……おいしい、です。温かい……」
「がんばったわね、天ちゃん」
美和はバーコートのボタンを一つ外すと、バックキッチンの通用口からカウンターの外へと回り込んだ。
本皮張りの黒いローチェアーに座る天のすぐ隣。美和がそっと近づくと、天は待っていましたと言わんばかりに、長い腕を伸ばして彼女の細い腰をぎゅっと抱きしめた。
「ごめんなさい、片付け、手伝わないといけないのに……なんだか、グラスがすごく重たくて」
天は美和の腰に顔をうずめたまま、掠れた声で呟く。いつもは完璧に理性を保っている彼が、生まれて初めて見せる、弱さと甘え。
「いいのよ。何ひとつ、汚れてなんかいないわ。ここはね、天ちゃんがいつでも帰ってきて、どんな重荷でも下ろしていい場所なの。泣いたって、私は世界で一番嬉しいのよ。あなたが、私を頼ってくれているんだから」
「……あったかい。美和さんの匂いがする。桜の、いい匂い」
美和はそっと手を伸ばし、天の柔らかな髪を、壊れ物を労るように優しく、何度も梳いた。
薄暗いアンバーの光の中、バカラのグラスたちが二人の静寂を祝福するように、虹色の光を静かに反射していた。
『Bar風花』の格式の高さも、ホスピタリティも、すべては今夜、この傷ついた一人の男を、世界で一番優しく包み込むためにあった。
【あとがき】
お読みいただき、ありがとうございました。
どんな時も一線を画し、紳士として美和さんを愛し続けてきた天ちゃんが、今夜は生まれて初めてその重い鎧を外し、脆く、傷ついた一人の男として涙を流す姿を描きたくて筆を執りました。
50度の鋭いトゲを持つ『フォアローゼズ シングルバレル』で喉を焼き焦がす天ちゃんの深い孤独と、常連の響子や栞たちがそっと気配を消して彼を守ろうとする「優しさの温度」を感じていただけていれば幸いです。
そして夜の終わりに、美和さんが差し出したロックスタイルの『ブラック・ローズ』。ラムのコクとコーヒーの苦味が、皆様の心にも温かな余韻を残せることを願っております。
もしこの天ちゃんの初めての甘えや、美和さんの底なしの包容力がお気に召しましたら、画面下の【ブックマーク追加】や【☆☆☆☆☆】での評価、応援の感想をいただけますと、天ちゃんの心を癒やした美和さんの大きな励みになります。
また次の夜に、皆様とお会いできるのを楽しみにしております。
天照(Bar風花)




