【Bar風花】第二章 鉄刀木の上の桜色 〜ルポライターの初な酩酊と、異色瞳に咲く幸せの笑顔〜
【前書き】
※ 本作は、いつもの『Bar風花』の閉店後を舞台にした、静かでとても甘い日常回です。
※ 普段は完璧に理性を保っている天ちゃんが、初めて見せる可愛い酩酊姿を描いています。
※ 半世紀以上の時を閉じ込めた伝説のラム酒と、二人の特別な時間の余韻をお楽しみください。
最後のお客様が帰り、静かな真鍮の鍵の音が店内に響くとき。
いつも美和を支える夫の頬は、微かに桜色へと染まっていました。
鉄刀木の一枚板を挟んで、長い間大切に守られてきたバーテンダーとしての「結界」。
それが、愛する人のたったひとつの愛おしいわがままによって、静かに溶けていきます。
どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてください。
第一章:最後のお客様が帰ったあとに
その夜の『Bar風花』は、開店から途切れることなく常連たちの温かな賑わいに包まれていた。
地元の旦那衆がおしゃべりに花を咲かせ、響子ちゃんが季節のフローズンカクテルに瞳を輝かせて写真を撮り、誰もが心地よく酔っ払って、満足そうに重厚なオーク材の扉を開けて帰路についていった。
カチャリ、と真鍮の鍵が閉まる音が店内に響く。
完全な閉店。人の気配が消え、澄みきったひんやりとした空気が戻ってきた空間には、遠くからピアノの残響のような静かなBGMだけが流れている。
「ふぅ……今夜も、みんなたくさん笑ってくれて嬉しかったわね、天ちゃん」
美和は白のバーコートのボタンを一つ外し、ふわりと髪を揺らして、カウンターの最奥にぽつんと座っている夫へと微笑みかけた。
天は、今夜の営業中、ずっとその席で静かに文庫本を広げながら、美和の仕事を見守っていた。だが、いつもならすぐに立ち上がって片付けを手伝うはずの彼が、今夜は鉄刀木の一枚板に肘をついたまま、微動だにしない。
「……天ちゃん?」
美和が覗き込むと、天の端正な顔は、耳の裏までほんのりと桜色に染まっていた。
その手元にあるロックグラスの中では、美和が彼の好みに合わせて選んだ、重厚なピート香のするアイラウイスキーが、最後の一滴まで綺麗に空になっている。いつもなら一杯をゆっくりと舐めるように飲む彼が、今夜は、ルポの大きな仕事が一段落した安堵からか、無意識のうちに少しピッチが早くなっていたようだった。
「……あ、美和さん」
天がゆっくりと顔を上げた。
右のワインレッドと左のアンバーの異色瞳が、天のいつもと違う「とろんとした眼差し」を捉える。その瞬間、美和の胸の奥が、小さな歓喜でキュッと跳ねた。
(――あ。天ちゃん、酔っ払ってる……!)
第二章:世界で一番贅沢なホスピタリティ
「ごめんなさい、片付け、手伝わないといけないのに……なんだか、グラスがすごく重たくて」
「いいのよ、そのままでいて。今夜は、天ちゃんが『最後のお客様』なんだから」
美和はクスリと悪戯っぽく微笑むと、カウンターの中に留まり、バーテンダーとしての最高のホスピタリティを夫のためだけに起動させた。
彼女が手に取ったのは、クリスタルガラスの表面に霜のような細かな細工が施された、アンティークの美しいオールドファッションドグラス。冷凍庫から取り出した、ダイヤモンドのように磨き上げられた丸氷が、グラスの中でカランと涼やかな音を立てる。
美和がバックバーの奥から静かに引き出したのは、天がまだ飲んだことのない、伝説的な長期熟成ラム――『ラパラン 1952』だった。
半世紀以上の歳月が育んだ深い琥珀色の液体が氷を伝い、ゆっくりとグラスを満たしていく。立ち上る、ドライフルーツやシナモン、そしてオーク樽の気が遠くなるほどに甘美で複雑な香り。
「はい、どうぞ。お仕事、本当にお疲れ様。これはね、頑張った天ちゃんを優しく温めてくれる、魔法のお薬よ。……それと、お水もちゃんと飲んでね?」
美和はクリスタルのロックグラスの傍らに、そっと冷えたチェイサーのグラスを滑らせた。天はその両方を、包み込むようにして大切そうに受け取った。
いつもなら「ありがとう、美和さん」と、凛とした敬意を払う彼が、今夜はグラスを口元に運ぶ前に、ふにゃりと眉を下げて、ただの男の子のような笑顔を浮かべた。
「……すごく、いい匂い。美和さんのお酒は、本当に、世界で一番美味しいです」
「まだ飲んでないじゃない」
「飲む前から分かるんです。だって、美和さんが僕のために、心を込めてビルドしてくれたんだから」
トロンとした口調で、まっすぐに好意をぶつけてくる夫。 Barでの「凛としたプロの顔」を維持しようとする美和だったが、そのストレートな甘え方に、頬がみるみるうちに赤くなっていく。
第三章:格式高き結界の崩壊
天はラムを小さく一口含むと、「ん……」と満足げに目を細め、そのまま鉄刀木のカウンターの上に、こてん、と頭を横たえてしまった。
長年使い込まれて艶を帯びた黒褐色の木肌に、天の柔らかな髪が広がる。
Bar風花において、カウンターに突っ伏して眠るなど、本来なら常連たちが自主的に最も忌避する「無粋な行為」の極みである。しかし、美和にとっては、これ以上ない愛おしい光景だった。
「天ちゃん?」
「……美和さん」
「なぁに?」
「僕、今夜は……ちょっとだけ、わがままになってもいいですか」
天はカウンターに頬をつけたまま、上目遣いで美和の異色瞳を見つめた。
いつもは「美和の夫」として完璧に理性を保っている彼が、生まれて初めて見せる、独占欲の滲む甘え。
「いいわよ。どんなわがまま?」
「……こっちに、きてください。カウンターの向こうじゃなくて、僕の隣に」
その言葉は、美和が何年も大切に守ってきた「カウンターという名の結界」を、一瞬で溶かしてしまった。
「――ずるいわ、天ちゃん。そんな風に言われたら、私、バーテンダーでいられなくなっちゃう」
美和は愛おしさが限界を突破し、弾かれたようにバックキッチンの通用口からカウンターの外へと回り込んだ。
本皮張りの黒いローチェアーに座る天のすぐ隣。美和がそっと近づくと、天は待っていましたと言わんばかりに、長い腕を伸ばして彼女の細い腰をぎゅっと抱きしめた。
第四章:櫻庭家の特別な夜の余韻
「……あったかい。美和さんの匂いがする。桜の、いい匂い」
「もう、天ちゃん、シャツにウイスキーとラムの匂いがしっかり染み込んでるわよ。……でも、嬉しい。天ちゃんが私の前で、こんなにクタクタになるまで酔っ払ってくれて」
美和はバーコートの袖で、天の熱い額にそっと触れ、愛おしそうにその髪を指で梳いた。
いつも自分を支え、守ってくれる夫が、今夜は腕の中で心地よさそうに、小さな寝息を立て始めている。
誰もいない、薄暗いアンバー色の照明に照らされた店内。
磨き上げられたクリスタルのグラスたちが、二人の静寂を祝福するように、虹色の微かな光を反射している。
「おやすみなさい、私の大切な天ちゃん。明日、目が覚めたら、千草お姉ちゃんに自慢しちゃおうかしら。『天ちゃんが初めて、私にマシマシで甘えてくれたのよ』って」
美和は夫の額に優しいキスを落とすと、夜の静寂の中で、世界で一番幸せな笑顔を咲かせるのだった。
【あとがき】
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、大きな仕事を終えた天ちゃんが『Bar風花』で初めて心地よく酔っ払い、美和さんにマシマシで甘えてしまうという、櫻庭家夫婦の初めての「綻び」を描いたお話でした。
作中に登場した『ラパラン 1952』は、半世紀以上もの気の遠くなるような歳月をオーク樽の中で眠り続けた、まさに伝説的な長期熟成ラムです。ドライフルーツやシナモンのような複雑で甘美な香りは、いつも頑張っている天ちゃんへの美和からの最高のホスピタリティ。
普段は「美和の夫」として一線を引いた敬意を払い、完璧な理性を保っている天ちゃんが、カウンターに突っ伏して「こっちにきて」と上目遣いでねだる姿は、美和でなくとも胸がキュンとしてしまいますね。
カウンターという名の結界を軽々と超えて、嬉しそうに寄り添う二人の姿に、執筆しながらとても温かい気持ちになりました。
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グラスの中に溶けていく丸氷の音とともに、また次の一杯でお会いしましょう。
天照(Bar風花)




