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【Bar風花】第二章 クラシックメイドは濁流を啜る 〜ニンニクの呪文と、ライムピールの洗礼〜

【前書き】


※本作は、風花町櫻庭家、彼らの静かな日常の一幕を描いた短編です。

※戦闘描写はございません。ただ、少しばかり、お腹の空く匂いが漂うお話です。

※Barの格調高い空気と、男たちの戦場の熱気が交差するギャップをお楽しみください。


 山々から吹き下ろす、ひんやりとした風がそよぐ風花町。

 今宵は、いつも穏やかな聖母のようなお姉ちゃんと、ルポライターの天ちゃんが、少し無骨な異界へと迷い込むお話です。

 ガッツリとした熱気の後に待つ、美和さんの冷徹で優しい調律の処方箋。

 どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてください。

第一章:『漢塾』の呪文と、聖母の天地返し


 風花町の夕暮れは、まるで一幅の淡い水墨画のように静かに、そして確実に街を染めていく。


 山々から吹き下ろす風はひんやりと心地よく、どこか遠くで散った桜の、あるいはこれから実を結ぶ柑橘の、かすかな名残りのような匂いを孕んでいた。


 だが、櫻庭天が握る愛車のフロントガラスの向こうに現れた景色は、その静謐な空気感を真っ向から否定するような、ひどく無骨で、黄色い自己主張に満ちたものだった。


 黄色い看板に、太く、殴り書きされたような黒い文字。


――『漢塾』。


 「……千草お姉ちゃん。本当に、ここでいいんだよね?」


 天はハンドルを握ったまま、助手席へおずおずと視線を向けた。


 そこに座る千草は、普段と変わらない、世界をすべて包み込むような慈愛の笑みを浮かべている。


 だが、その格好はどう見てもこの男たちの戦場に相応しいものではなかった。


 どこまでも上質で、細部まで丁寧に仕立てられた、気品あるクラシックデザインのメイド服。


 漆黒のロングスカートと、雪のように白いエプロン。


 彼女が動くたびに、まるで英国の歴史ある邸宅の図書室にいるかのような、錯覚さえ覚えさせる静かな品格が漂う。


 「ええ、天ちゃん。ここよ。風花町の街角で、ずっと気になっていたの。男の子たちが、まるで巡礼でもするかのように吸い込まれていく場所。どんな美味しいものが待っているのかしら」


 天は心中でそっと溜息をついた。


 ルポライターとしての好奇心は旺盛な方だが、これから挑む場所の特殊性を、天は知っている。


 そこは単なる飲食店ではない。


 独自の規律と、無言の圧力、そこで課される冷徹な時間制限に支配された、一種のコロシアムなのだ。


異界の行列


 車を停め、行列の最後尾に並ぶ。


 豚骨を限界まで煮込み、醤油の塩気と混ざり合った、暴力的とも言える匂いが鼻腔を衝く。


 まわりを見渡せば、お腹を空かせた部活帰りの男子高校生や、タオルを頭に巻いたガテン系の男たち。


 誰もがスマホを見つめるか、あるいはこれから迎える戦いに向けて精神を統一するように、口を真一文字に結んでいる。


 そこに、クラシックメイド服姿の絶世の美女が並んでいるのだ。


 周囲の塾生たちがざわつき始めるのは、当然の摂理だった。


 「お、おい……あのお姉さん、並ぶ店間違えてないか? ここ『漢塾』だぞ」


 「コスプレ……? いや、あの服、生地がめちゃくちゃ良さそうだぞ。っていうか、すげえ美人……」


 ヒソヒソと交わされる声を、千草は鈴を転がすような笑みで受け流している。


 「みんな、とても真剣なお顔をしているわね。天ちゃん、これは期待できそうよ」


 「お姉ちゃん、ここは独自のルールがあってね。お喋りは最小限に、前の人が動いたら自分も動く。それが鉄則んだ」


 天は小声で、事前に頭に入れておいた流儀を説明した。


 ラーメンを美味しく食べるコツは、余計なストレスと雑念を消し去ること。


 そのためには、この異界のルールに敬意を払い、同化しなければならない。


券売機の前で


 やがて列が進み、店内に案内される。


 券売機の前で、天は自分の選択を迷わなかった。


 「小ラーメン」のボタンを押し、食券を取る。


 天の目的は、夜に妻・美和が営む『Bar風花』で、彼女の作る極上のカクテルとお腹に優しいおつまみを美味しく味わうことだ。


 ここで胃袋を完全に破壊されるわけにはいかない。


 一方、千草は券売機の上にある説明書きを、慈母のような優しい目で見つめていた。


 「大ラーメンは麺四百グラム以上……。豚増し、というのがあるのね。天ちゃん、私はこれにするわ」


 「えっ!? ちょっと待って、お姉ちゃん! 大は本当に命に関わる量が――」


 「大丈夫よ。塾長さんが丹精込めて作ったものですもの。その愛を、すべて受け止めなくては失礼でしょう?」


 カチャン、と軽やかな音を立てて、千草は「大ラーメン」と「豚増し」のボタンを迷わずプッシュした。


 天の顔が引き攣る。


 神の胃袋のキャパシティが人間とは違うと分かってはいても、目の前で繰り広げられる光景には、ただただ圧倒されるしかなかった。


 2人は使い込まれたカウンターに座る。


 厨房の中では、額に汗を浮かべた店主――塾長が、巨大な鍋で太麺を茹で上げ、無骨な手つきで丼にタレを注いでいる。


 そこには奇をてらわない、けれど素材の良さを最大限に活かして客の胃袋を満たそうとする、職人の強固な意志が溢れていた。


 天は食券を置くタイミングで、静かに助手へと告げた。


 「麺少なめでお願いします」


 「少なめ、入ります」


 これなら普通のラーメンより少し多いくらい。


 知的なルポライターとしてのスマートな防衛策だった。


宣戦布告のコール


 正式なコールの時間が近づき、店内に独特の緊張感が走る。


 茹で上がった麺が丼に分けられ、塾長が鋭い眼光で千草を睨み、顎を小さくしゃくった。


 「――ニンニク入れますか?」


 店内の空気が一瞬で張り詰める。


 まわりの男たちが、メイド服の美女がどう応えるかに注目していた。


 だが、千草は慌てることなく、よどみない美声で、まるでお気に入りのハーブティーを注文するかのように、流麗に呪文を唱えた。


 「『ヤサイマシマシ、ニンニク、アブラカラメ』でお願いするわ」


 「なっ……!?」


 隣の男子高校生が、危うく手元のコップを落としそうになった。


 ヤサイマシマシを上限なしで受け付ける『漢塾』において、そのコールは完全なる宣戦布告。


 完璧なクラシックメイド服姿から放たれたその言葉の重さは、長年この塾に通い詰めた猛者をも一瞬で平伏させるほどの、絶対的な風格に満ちていた。



 

第二章:聖母の天地返し、聖域の異変


 ドン、と鈍い音を立てて、千草の前に着丼したのは、もやしとキャベツが天空に向かってそびえ立つ、文字通りの「圧倒的な山脈」だった。


 その麓には、分厚く凶悪な塊のような豚が、脂の輝きを放ちながら鎮座している。


 天の前に置かれた「麺少なめ」が、まるで小鉢かミニラーメンに見えるほどの、圧倒的な質量だった。


 「まあ……素晴らしいわ」


 千草は感嘆の吐息を漏らし、「いただきます」と上品に一礼した。


 正式に、そしてしなやかな動作でメイド服の袖が汚れないようさばきながら、箸をスープの奥深くへと差し込んだ。


 ここからが、漢塾という迷宮を攻略するための第一歩――「天地返し」である。


 千草は手首を滑らかに返し、器の底から極太のオーション麺を引っ張り出した。


 スープをたっぷりと吸い、琥珀色に染まった波打つ極太麺が、白いヤサイの山と鮮やかに入れ替わる。


 その一連の動作の流麗さは、まるで熟練の職人が道具を操るかのようだった。


 一口、麺を強烈に啜る。


「――っ」


 千草の瞳が、一瞬で輝きを増した。


 「なんて力強い小麦の風味……。そして、このスープ。豚さんの骨と肉から極限まで引き出された旨味が、醤油のキリッとした塩気と混ざり合って、お口の中で爆発するようだわ。背脂の甘みが、その尖った塩気を優しく包み込んでいて……これは、計算し尽くされた『調和』ね」


 千草は、まるで最高級の料理のソースを紐解くように、けれど気取らず一心不乱に麺を口へと運んでいく。


 それは疲れた身体にじわりと染み渡る家庭の温かさというよりも、身体の芯から生命力を強制的に呼び覚ます、荒々しい「命のスープ」だ。


 ヤサイのシャキシャキとした食感、ニンニクの鮮烈な辛み、精度高く乳化した液体アブラのコク。


 それらが極太の麺に絡み合い、噛むたびに幸福感が脳へと突き抜けていく。


 「この豚さんも、とてもよく煮込まれていて、ホロホロと解けるようだわ。味付けもしっかりしていて、お野菜と一緒にいただくと、ちょうど良い塩梅になりますね」


 千草の食べる姿は、クラシックメイド服も相まってどこまでもエレガントで美しい。


 だが、そのスピードは一切落ちなかった。


 ロットの崩壊を恐れて焦る周囲の男たちを尻目に、千草は山のようだったヤサイと、四百グラムを超える極太麺を、涼しい顔で次々と胃袋へと収めていく。


 天は自分の「麺少なめ」を、ちょうど良く味わいながら食べ終えた。


 スープの濃厚さに圧倒されつつも、確かにこのジャンクの極みの中にある、作り手のこだわりと情熱を感じ取っていた。


表現者同士の交流


 天が箸を置いたとき、隣の千草は、大きな白い丼を両手で持ち上げていた。


 優雅に音を立てずに、最後の一滴までスープを飲み干す。


 いわゆる「完まく」である。


 「ごちそうさまでした。とっても美味しゅうございました」


 千草は白い丼をカウンターの上へ上げ、セルフサービスのコップをまとめると、カウンターに置いてある布巾を手に取った。


 放置することなく、自分の前のテーブルを、一筋の汚れも残さないようにピカピカに拭きあげた。


 その完璧な作法と、圧倒的な喰いっぷり。


 厨房の奥でそれを見届けていた塾長は、腕組みをしたまま、無骨な顔に、職人としての心からの敬意を滲ませた笑みを浮かべ、静かに頷いた。


 言葉はなくとも、そこには「見事な食いっぷりだった」という、表現者同士の確かな魂の交流があった。


 「付き合ってくれてありがとう、天ちゃん。とってもいい経験になったわ。……さあ、美和ちゃんの待つお店へ行きましょう?」


 店を出て、風花町の心地よい夜風を浴びながら、千草はお腹をさすることもなく、すっきりとした表情で微笑んだ。


 天はただただ、このお姉ちゃんの神格と胃袋は一体どうなっているんだと畏怖の念を抱きながら、愛車のキーを開けることしかできなかった。


 だが、天は完全に失念していた。


どれだけエレガントに食べ終えようとも、クラシックメイド服の千草お姉ちゃんが、あの『漢塾』でしっかりと「ニンニク・アブラカラメ」を摂取したという、逃れようのない、あまりにも強烈な事実を。



 

第三章:調律師の処方箋


 夕方。


 西の空に、燃えるようなアンバー色と、深いワインレッドのグラデーションが広がる頃、天と千草は『Bar風花』の前に辿り着いた。


 細い路地の奥、街灯の橙色の光がわずかに届くだけの場所に、ぽつんと暖かな明かりが灯っている。


 重厚なオーク材の扉は、路地の暗がりの中で静かに存在を主張し、真鍮のプレートには『Bar 風花 -kazahana-』の文字が控えめに浮き彫りされている。


 カラン、と静かで、どこか格式高い音が店内に響く。


 一歩足を踏み入れると、そこはお客が一人もいない、開店直後の澄みきった空間だった。


 程よく空調の効いた空気はひんやりと静かで、耳障りにならないボリュームの静かな音楽だけが、遠くからそっと流れている。


 BGMは旋律というより残響に近く、古いレコードの針が落ちる微かなノイズと、ピアノの最後の音が消えていくような余韻が、空気の中に薄く溶けていた。


 薄暗い店内には、直接照明と間接照明が絶妙に配置され、柔らかな光の層が、鉄刀木の一枚板のカウンターを仄かに浮かび上がらせている。


 カウンターの上には余計なものは一切なく、バースプーンが入った大きなブランデーグラスと、柑橘系のフルーツが美しく盛られた籠があるだけだ。


 すべてが磨き上げられ、丁寧に大切に守られている、静謐な聖域。


 正式な開店を迎えたこの空間には、微かで儚い桜の花の匂いが、壁の一角から優しく漂っている。


 カウンターの向こう側では、櫻庭美和が、凛としたプロの衣装に身を包み、クリスタルグラスを丁寧に磨き上げていた。


 その右目はワインレッド、左目はアンバー。


 異色瞳の美しい双眸が、二人を迎え入れる。


 千草はお気に入りのメイド服の裾を軽やかに揺らし、いつものように穏やかな、聖母の微笑みを浮かべて口を開いた。


 「美和ちゃん、ただいま」


 その、たった一言の、家族を想う温かい言葉が店内に響いた――次の瞬間だった。


破られた静謐


 ドォ、と、目に見えない強烈な衝撃波が、Bar風花の聖域を襲った。


 ひんやりと澄みきった空気も、古いレコードの針が落ちるような静かなBGMの余韻も、底に漂っていたあの儚く甘い桜の香気が――すべてが、圧倒的な『漢塾』仕込みの、ガッツリとした濃厚極まるニンニク臭によって、一瞬にして、容赦なく上書きされたのだ。


 「――っ!?」


 カウンターの中でグラスを拭いていた美和の手がピタりと止まった。


 その美しい異色瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれる。


 彼女はプロとしての凛とした姿勢を瞬時に崩し、本能的に一歩、二歩と後ずさりした。


 「お、お姉ちゃん……!? 一体、何を食べて帰ってきたのーーーっ!?」


 美和の悲鳴に似た叫びが、静かな店内に響き渡る。


 背後からおずおずと入ってきた天は、美和の視線から逃れるように、そっと両手で頭を抱えて俯いた。


 「あら? 匂うかしら。とても美味しいラーメンをいただいてきたのよ。お醤油と豚さんの旨味が詰まった、素晴らしい『文化』だったわ」


 千草は「あら、失礼」と可愛らしく小さな白手袋の手で口元を押さえたが、時すでに遅し。


 彼女が言葉を発するたびに、『漢塾』の塾長が魂を込めて仕込んだニンニクの香気が、Barの格調高い空気を容赦なく塗り替えていく。


 「お姉ちゃん、Barはね、お酒の香りと、空間の静けさを楽しむ場所なのよ……。これじゃ、デリケートなウイスキーの香りも、フレッシュな柑橘のニュアンスも、全部ニンニクに負けちゃうわ!」


 美和は顔を真っ赤にしながら、大慌てでカウンターの端にある換気扇のスイッチを強に回した。


 ブーーン、と無骨な音が回り始める。


 天はそっとカウンターの本皮張りの黒いローチェアーに腰掛け、苦笑交じりに言った。


 「ごめん、美和さん。僕が止めるべきだったんだけど……お姉ちゃんのあの嬉しそうな顔を見たら、どうしても券売機の前で引き返せなくて」


 美和は溜息をつき、髪を軽くかき上げた。


 だが、その瞳には、すぐに別の光が宿った。


 それは、どんなに想定外のコンディションのゲストが目の前に現れようとも、その一瞬の夜を最高の一杯で整えてみせるという、技術者としての強いプライドと哲学だった。



 

第四章:エメラルド・エリクサー


 「……仕方のない人たちね、本当に」


 美和は小さく首を振ると、カウンターの奥の戸棚に目を向けた。


 そこにはリーデル、バカラ、ウォーターフォードといったクリスタル製のグラスが整然と収められ、美しい透明な光を反射している。


 「お姉ちゃん、そして天ちゃん。あのラーメン……いえ、『漢塾』という場所のスープは、強烈な塩分と過剰なまでの動物性脂、数日残るほどのニンニクのアリシンという成分で構成されているわ。それは確かに美味しいけれど、食後の身体には強烈な負荷がかかっている状態なの」


 美和はそう言いながら、バックバーから一本のボトルを手に取った。


 深い琥珀色の液体が入った、クラシカルなラベルのボトル。


 フランスの伝統的な薬草リキュール――『シャルトリューズ・ヴェール(緑)』だった。


 「お酒を扱う人間にとって、カクテルとはゲストの心と身体を調律するための『処方箋』。今のお姉ちゃんたちの身体に必要なのは、重たい脂の消化を助け、ニンニクの強烈な刺激で疲弊した胃腸を優しく労わるアルコールよ」


 美和の動きが変わる。


 先ほどまでの慌てぶりは消え去り、そこには凛とした『Bar風花』のオーナーの姿があった。


 彼女は、シェイカーのボディにたっぷりの氷を満たし、素早くバースプーンを回転させて容器自体を極限まで冷やしていく。


 チカン、チカン、と氷がメタルに当たる澄んだ音が響く。


 冷やされて溶け出た水をストレーナーで切り、美和はシャルトリューズ・ヴェールを正確に計り入れた。


 シャルトリューズはかつて「長寿の霊薬」とも呼ばれ、百三十種類以上ものハーブや薬草、植物のエキスが溶け込んでいる。


 その複雑でスパイシーな香りは、ニンニクのアリシンを包み込み、中和するのにこれ以上ない適役だった。


 そこに、フレッシュなライムの果汁を少々、そして自家製のミントシロップをわずかに加える。


 さらに、アルコールの角を丸め、胃への刺激を和らげるために、少量のクラッシュアイスを滑り込ませた。


 美和がメタル製のシェイカーのトップとストレーナーを嵌め、両手でしっかりと保持する。


 その瞬間、彼女のワインレッドとアンバーの瞳が、鋭く、美しく据わった。


 小気味よく、しかし圧倒的な鋭さで、硬質なシェイキングの音が店内の空間を支配する。


 それは、液体の中に無数の微細な空気の泡を混ざり合わせ、ハーブの香りを爆発的に開かせるための、計算された技術だった。


 美和は、冷え切った小ぶりのゴブレットグラスに、その鮮やかなエメラルドグリーンの液体を静かに注いだ。


 仕上げに、ライムピールを静かに一搾りし、爽快な精油の香りを上に立たせる。


 「はい、どうぞ。Bar風花特製――『エメラルド・エリクサー(霊薬)』よ」


 千草の前に置かれたグラスからは、先ほどのニンニク臭を強引に押さえつけるような、爽快で、どこか神秘的なハーブとミントの、奥深い香りが立ち上っていた。


グラスの中の調和


 「まあ、綺麗……」


 千草は嬉しそうにグラスを傾け、その緑の液体をゆっくりと口に含んだ。


 「――あら、面白いわね。口に入れた瞬間は、ライムとミントの爽やかさが広がるけれど、その奥から、何十種類ものハーブの複雑な苦味と甘みが押し寄せてくるわ。胃のあたりが、じんわりと温かくなっていくのが分かるわね」


 「ええ。シャルトリューズに含まれるハーブ成分が、胃腸の働きを活発にして、脂の消化を助けてくれるわ。それに、ミントとライムの精油成分が、お口の中に残った成分をしっかりとホールドして、洗い流してくれるの」


 美和は少し誇らしげに胸を張った。


 お酒とは、単に酔うための道具ではない。


 人の身体を癒やし、心を解きほぐし、その日一日の体験を「美しい記憶」へと昇華させるための、先人たちの知恵なのだ。


 「さすが美和ちゃんね。最高だわ」


 千草はおいしそうにグラスを飲み干し、ふぅ、と満足そうな吐息を漏らした。


 その吐息からは、先ほどの猛烈なニンニク臭は消え去り、代わりに爽やかな高原の風のような、ハーブの清涼な香りが漂っていた。


 「天ちゃんも、はい。麺少なめにしたとはいえ、アブラのダメージはあるでしょう?」


 美和は天の前にも、同じ緑のカクテルをそっと差し出した。


 「ありがとう、美和さん。……やっぱり、僕はここが一番落ち着くよ」


 天はカクテルを口に含み、その爽快感に目を細めながら、愛おしそうに妻を見つめた。


 『漢塾』の、男たちの熱気と生命力をぶつけ合うような荒々しい食の世界。


 そして、『Bar風花』の、人の孤独によりそい、一日の終わりに静かな調和をもたらす洗練された時間。


 どちらも、誰かのお腹と心を、それぞれのやり方で満たそうとする温かい情熱に満ちている。


 風花町の夕暮れはすっかり夜の帳へと溶け込み、鉄刀木のカウンターの上には、ただ、磨き上げられたグラスの美しい輝きと、優しいハーブの余韻だけが、静かに息づいていた。

【あとがき】


 最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

 今回は、いつもエレガントな千草お姉ちゃんが、男たちの戦場である、あのラーメンに挑むという、少し意外な日常をお届けいたしました。

 ニンニクとアブラの暴力的とも言える調和のあとに、シャルトリューズの緑のエリクサーで身体を調律する美和さんのプロの技。

 読み終えた皆様の元へも、爽快なハーブとライムピールの香りが優しく届いていれば幸いです。


 本作をお気に召していただけましたら、ぜひ【ブックマーク登録】や、下部にある【ポイント評価(★)】、あるいは温かい【感想】などをいただけますと、これからの夜を紡ぐ大きな励みになります。


 皆様の今宵のひとときが、穏やかなものでありますように。

天照(Bar風花)

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