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【Bar風花】第二章 宝石のパフェと秘密の足音 〜有能な事務員とルポライターは、午後の陽だまりで共犯者になる〜

前書き

※ 仕事の合間、誰にでもある、ほんの少しの寄り道のお話

※ 戦闘も波乱もありません。ただ、至高の糖分とささやかな背徳感だけ

※ 読後の「カザハナのパフェ」による飯テロにご注意ください

 風花町の昼下がり。

 鉄の規律を纏う秘書と、穏やかなルポライターが、パティスリーのガラス越しに視線を交わす。

 お互いの「主」には絶対に秘密の、甘い甘いエスケープ。

 それは、完璧さを求められる日々の職務の中で、人間の心をそっと救うための、ささやかな一杯の余白。

 どうぞ、そっとカウンターの向こう側を覗いてください。

 風花町の路地裏には、夜ごとに異なる風が吹く。

 だが、その日の昼下がりに商店街を吹き抜けていたのは、初夏の始まりを告げる、どこか気怠く、それでいて肌にまとわりつくような湿った風だった。

 橘法律事務所の優秀な秘書、一条結は、その風を受けながらアスファルトの歩道を端然とした足取りで歩いていた。

 カン、カン、と小気味よく響くヒールの音は、彼女の心の迷いを一切映していないように聞こえる。

 小気味よい音が、彼女の毅然とした佇まいを際立たせていた。

 小脇に抱えた厚手のレザークリップファイルには、先ほど公証役場と裁判所で手続きを終えたばかりの重要書類が、一分の隙もなく収められている。

 事務用品の買い出しもすべてリスト通りに消化し、あとは事務所へ戻るだけだった。

 橘栞弁護士の自慢の右腕として、結の行動には常に「鉄の規律」が働いている。

 だが、その規律という名の防壁が、商店街の角を曲がったところで突如として揺らいだ。

 結の足が、吸い寄せられるようにピタリと止まる。

 彼女の視線の先にあるのは、周囲の古いアーケードからそこだけ浮き上がったような、白を基調とした洗練された佇まいの店舗だった。

 フランスの街角を思わせる木製のドアと、美しく磨き上げられた大きなショーウィンドウ。

 そこは、フランスの格式あるパティスリーで修行を積んだ若きシェフが営む、町一番の有名店『パティスリー・カザハナ』だった。

 ガラスの向こう側には、色鮮やかな季節のフルーツ、ベルベットのような艶を放つチョコレート、そして職人の手技によって精密に絞り出された純白の生クリームが、まるで宝石のように輝きながら整然と並んでいる。

(……あ、あのお店の、季節限定のタルト……。それに、噂の特製パフェ……)

 結はおっとりとした外見に反して、その本質は極めて純度の高い甘党、それも「ただ食べる」だけではなく、職人の技術とその背景にある手間に敬意を払うタイプの、偏愛的な糖分愛好家だった。

 カクテルが緻密な比率で成り立つように、フランス菓子もまた、数グラムの狂いがすべてを台無しにする緻密な構造物であることを、彼女は知っている。

 ガラスの向こうの美しいスイーツたちを前に、結の胸の中で激しい葛藤の嵐が吹き荒れた。

(どうしましょう……。でも、今はまだお仕事の途中です。それに、栞先生に内緒で寄り道なんて、そんな不誠実な真似はいけません……。何より、この体型を維持しなくては、先生の隣に立つ秘書として示しがつきませんわ……)

 心の中でそう自分に言い聞かせ、背筋を伸ばそうとする。

 しかし、一度釘付けになった視線は、どうしても動かない。

 結はガラスに顔を近づけ、まるでおねだりをする小さな子狸のように、そわそわとしながらショーウィンドウを覗き込み続けていた。



 

第一章:秘密の足音、偶然の共犯者

 

「あれ? 結さん。そんなところでガラスに張り付いて、一体どうしたんです?」

 背後からかけられた突然の気さくな声に、結の肩がびくっと跳ね上がった。

 慌てて振り返ると、そこには使い込まれた一眼レフのカメラバッグを肩にかけ、何食わぬ顔で歩いてくる櫻庭天――天ちゃんが立っていた。

 フリーランスのルポライターとしての仕事を終えたばかりの、いつもの穏やかな、どこかすべてを受け入れるような優しい笑顔だった。

「あ、あ、天様……! これは、その、決して不真面目に遊んでいたわけでは……」

 普段の有能な秘書の仮面が完全に剥がれ、顔を真っ赤にして弁解しようとする結。

 しかし、天は結の視線の先にある『パティスリー・カザハナ』の看板と、ショーウィンドウの中のケーキを見つめると、全てを察したようにニヤリと悪戯っぽく微笑んだ。

「なるほど、カザハナの誘惑に捕まっていたわけですね。……実は僕も、ちょうどここに入ろうか、迷っていたところなんです」

「天様も、ですか?」

「ええ。美和さんは今頃『Bar 風花』の仕込みで付きっきりですし、千草お姉ちゃんにも見つかったら、絶対に『自分だけずるい』って言われますからね。ライターの仕事って、頭を使い果たすと無性に脳が糖分を求めるんですよ。今はまさに、僕にとっても『秘密のおやつタイム』のチャンスなんです」

 天のその言葉を聞いた瞬間、二人の知性的な瞳の間に、無言の電流が走った。

 一人で入るには、仕事中であるという背徳感や、家族に内緒という罪悪感があった。

 しかし、ここに最高にして最強の「共犯者」が現れたのだ。

 お酒を提供する居酒屋やバーにおいて、一見すると無駄に見える「寄り道」や「一杯の余白」が、どれほど人間の心を救うか。

 天はルポライターとして、そして『Bar 風花』のオーナーの夫として、その「目に見えない価値」を誰よりも理解していた。

 そして結もまた、完璧さを求められる日々の職務の中で、ほんの少しの休息がどれほど明日の活力になるかを知っている。

「美和さんには内緒ですよ、天様?」

「もちろん、結さん。僕からも、栞先生には絶対に秘密です。これは僕たちの、ささやかな防衛策ですから」

 お互いの「主」に隠れて、至高の糖分を貪る。

 その共通の目的を共有した瞬間、結の胸の葛藤は一瞬で霧散し、代わりにワクワクとした子供のような高揚感が胸を支配した。

 二人は意気揚々と胸を張り、洗練されたパティスリーの扉を押し開けた。



 

第二章:カザハナの聖域、至高のオーダー

 

 扉を開けると、チリンと繊細な鈴の音が響き、店内にはほのかに漂う焼き菓子の香ばしい香りと、上質なバニラビーンズの甘い匂いが満ちていた。

 外の蒸し暑さが嘘のように、心地よくコントロールされた冷気が二人を迎える。

 白で統一された空間は、風花町の喧騒から切り離された、まさにスイーツの聖域だった。

 窓際の小さなテーブル席に腰掛けた二人は、革張りのメニューを開いた。

 メニューの文字を追う結の瞳は、まるでこれから法廷で重要な証拠を検証するかのように真剣そのものだ。

「結さん、何をいきますか? 今日は共犯ですから、遠慮はなしです」

「はい……! それでは、私、ずっと憧れていたこれを……」

 結が細い指先で示したのは、この店で最も贅沢な一品。

 そして、天もまた、全く同じメニューに目を奪われていた。

 バーテンダーが客の気分に合わせてグラスを選ぶように、お菓子もまた、その時の人間の状態に呼び合うものがある。

 二人の決断に、一切の躊躇はなかった。

「すみません。この『スペシャル・カザハナ・パフェ』を二つ。それと、今日の気まぐれケーキの『ピスタチオのタルト』も、それぞれ一つずつ。セットで『アールグレイのアイスティー』をいただけますか」

 天がスマートにオーダーを通すと、店員はにこやかに一礼して奥へと下がっていった。

 注文を終えた結の表情は、すでに完全に緩みきっていた。

 これから運ばれてくる至高の糖分を前に、スレンダーな体を少し前傾させ、んんふ、と嬉しそうにおっとりと微笑んでいる。

 その愛らしい幸福感は、見ている天の心まで和ませるほどだった。

「なんだか、悪いことをしているみたいで、いつもより余計に楽しみですね、天様」

「ええ。お酒もそうですが、こういう『少しの贅沢』や『余白』って、生きていく上で絶対に必要なんですよね。効率だけを求めていたら、人間の心は乾いてしまいますから」

 二人は、窓から差し込む午後の柔らかな陽だまりの中で、至至の瞬間が訪れるのを、今か今かと待ち侘びていた。



 

第三章:至福のマリアージュ

 

「お待たせいたしました」

 丁寧な声と共にテーブルに並べられたのは、まさに芸術品と呼ぶにふさわしいスイーツたちだった。

 『スペシャル・カザハナ・パフェ』。

 それは、ただ甘いものを積み重ねただけの代物ではなかった。

 透明なクリスタルグラスの中で、風花町特産の柑橘を使った、宝石のように透き通る爽やかなジュレが底を支えている。

 その上には、新鮮な低温殺菌牛乳の香りが生きている濃厚なジャージーミルクのアイスクリーム。

 さらに、カカオの苦味がしっかりと立った、繊細に美しく削られたチョコレートが綺麗な層を成している。

 それはまるで、バーテンダーがグラスの中に完璧な調和をビルドしていくプロセスそのもののようだった。

 そして、今日の気まぐれケーキ『ピスタチオのタルト』。

 ナッティで独特な深い緑色をした濃厚なピスタチオクリームが、サクサクとしたアーモンドの風味豊かなタルト生地――パート・シュクレ(糖質生地)の上に、美しく波打つように絞られていた。

「素晴らしいわ……。いただきます、天様」

 結は長いスプーンを手に取り、パフェを上からそっと掬って口に運んだ。

 一口食べた瞬間、結の異次元の処理能力を持つ脳は、完全に停止した。

 最初に飛び込んでくるのは、ジャージーミルクの圧倒的なコク。

 だが、それが口の体温で溶けていくのと同時に、底から湧き上がる柑橘のジュレが、爽やかな酸味と微かな苦味を連れてミルクの重さを綺麗に洗い流していく。

 最後に残るのは、カカオの濃厚な余韻だけだ。

 それぞれの素材が、お互いの良さを引き立て合いながら、完璧な時間差で味覚を襲ってくる。

「んんふ……幸せです……。美味しすぎて、言葉になりませんわ……」

 結は子狸がご馳走を前にした時のように、頬を緩ませて何度も小さく頷いている。

 天もまた、ピスタチオのタルトをフォークで切り分け、口に運んだ。

 サクッ、と小気味よい音が店内に微かに響く。

「うん、やっぱりここのシェフの腕は確かだ。ピスタチオの濃厚な香ばしさと、バターがたっぷり贅沢に使われたパート・シュクレの食感。この組み合わせは、ちょっと感動的だな。……美和さんたちにも食べさせてあげた……あ、いや、今は忘れるべきですね」

「ええ、天様。今だけは、私たちはただの共犯者です」

 二人は夢中でスプーンとフォークを動かした。

 それは、ただ空腹を満たすための食事ではない。

 作り手のこだわりを受け止め、その技術に感じ入る、極めて贅沢な対話の時間だった。

 濃厚な甘みを存分に堪能した後は、キリッと冷えたアールグレイのアイスティーを口に含む。

 丁寧に水出しされたであろうその紅茶は、渋みが一切なく、ベルガモットの華やかで高貴な香りがストレートに鼻へ抜ける。

 その爽快な香りが、口の中の甘みを上品にリセットし、次の一口への完璧な架け橋となってくれる。

 これ以上ない、至高のマリアージュだった。

 最後の一口まで綺麗に平らげた二人は、深く息を吐き、満ち足りた満足感に浸った。

「結さん、口の横に生クリームがついていませんか? 証拠隠滅は厳密にやらないと、僕たちの命に関わりますから」

「大丈夫です、天様。天様の方こそ、お洋服にピスタチオの欠片が落ちていませんか? そちらの隠蔽工作の方が心配ですわ」

 お互いの口元や服装を厳密にチェックし合い、証拠隠滅が完璧であることを確認すると、二人は満足そうに席を立った。

 天が支払いを済ませ、二人は店を出る。

「それでは結さん、今日の作戦は……」

「ええ、天様。私たちの胸の奥、墓場まで持って行きましょうね」

 二人は笑顔で言葉を交わし、何事もなかったかのようにスマートな足取りで、それぞれの「戦場」への帰路についたのだった。



 

第四章:見破られた共犯者たち

 

 橘法律事務所の重厚な扉を開け、結はいつもの「完璧な秘書」の無表情を貼り付けて入室した。

「ただいま戻りました、栞先生。頼まれていた書類の郵送、および備品の買い出し、全て完了いたしました」

「ええ、お疲れ様、一条」

 デスクで膨大な判例集をめくっていた栞が、眼鏡の奥の瞳をすっと上げた。

 その瞬間、事務所でお留守番をしていた栞の愛犬ぷりんが、結の足元へとトコトコと駆け寄ってきた。

 ぷりんは短い尻尾を振りながら、結のスカートの裾に鼻を押し付け、くんくんと熱心に、かつ異常な執着で匂いを嗅ぎ始めたのだ。

「あら、ぷりんちゃん、どうしたのかしら……」

 結の背中に、冷たい汗が流れた。

 ぷりんは車は嫌いだが、美味しい食べ物の匂いには、警察犬並みに敏感なコーギーだった。

 特に、上質なバターやミルクの匂いには目がない。

 栞は判例集をパタンと閉じ、眼鏡を外して結の顔をじっと見つめた。

 その「気高い銀狐」と称される鋭い瞳が、面白そうに細められる。

 弁護士としての観察眼は、人間の微かな動揺を見逃さない。

「……一条。貴女、ずいぶんとアールグレイの華やかなベルガモットと、上質なピスタチオの香りをまとっているわね。ぷりんがそこまで執拗に匂いを追うということは……パティスリー・カザハナね?」

「ふぇぇ……!」

 一瞬での完全な論理的プロファイル。

 結は子狸のように肩をすくめ、ちぢこまるしかなかった。

 完璧な隠蔽工作は、優秀な弁護士と、本能に従う愛犬の前には無力だった。

 時を同じくして、櫻庭家のガレージ兼自宅。

「ただいまー」

 天は何食わぬ顔でリビングの扉を開けた。

 リビングでは、美和が丁寧な所作で紅茶を入れており、そこへ近所に住む天野里美が、お茶を飲みに遊びに来ていた。

「あら、天ちゃん。お帰りなさい」

 美和が天の顔をじっと見つめた。

 そのワインレッドとアンバーの美しい異色瞳が、妖しくきらめく。

 バーテンダーとしての彼女の鼻と直感は、日常の微かな違和感を絶対に見逃さない。

「天ちゃん。今日の午後、商店街の方から『すっごく甘くて、とっても幸せな気配』が漂ってきたのだけれど……何か心当たりはあるかしら?」

「え? い、いや、何のことかな、美和さん。僕はただ、街の取材をして歩いていただけだよ?」

 天が冷や汗をかきながら一歩後退りした瞬間、ソファに座っていた里美が、おっとりとした令嬢の笑みを浮かべたまま、天の肩をぽんと叩いた。

 その鋭い瞳は、完全に「暴走機関車」のそれだった。

「ふふ、天様。嘘はいけませんわ。天様のカメラバッグのストラップから、パティスリー・カザハナ特製のバニラシロップと、濃厚なピスタチオの甘い香りが検出されておりますわよ? さては、結さんとおデートして、美味しいパフェをご堪能なさったのかしら?」

「な、何で知ってるの!?」

 天は実写的に絶叫し、その場に崩れ落ちた。

 口元をどれだけ拭こうとも、この町の女性たちの鋭すぎる直感と、プロフェッショナルとしての観察眼の前には、二人の「共犯者」の隠蔽工作など、最初から形無しだったのだ。

 良いお酒が嘘を許さないように、本物のスイーツもまた、その幸福な証拠を隠すことを許さない。

 美和は紅茶の入ったティーカップを里美の前へ置くと、天の元へ歩み寄り、最高の優しい笑顔で首を傾げた。

「天ちゃん? 結さんと食べたパフェ、とっても美味しかったのね。……今度の次の日曜日、私と里美にスペシャルパフェをカザハナでご馳走してくれるわよね?」

「……はい、喜んでご馳走させていただきます……」

 両手を上げて完全に降伏した天の姿に、リビングには温かい笑い声が響き渡った。

 秘密の寄り道はあえなく瓦解したけれど、風花町の午後の終わりは、いつものように愛に満ちた、どこまでも甘い余韻に包まれているのだった。

あとがき

 天ちゃんと結さんの「秘密のおやつタイム」、いかがでしたでしょうか。

 今回は少し視点を変えて、Barのグラスではなく、パティスリーのクリスタルグラスに注がれた贅沢なパフェと、濃厚なピスタチオのタルトを軸に、二人の微笑ましい共犯関係を描いてみました。

 完璧に見えるプロフェッショナルたちだからこそ、こうした「余白」の時間が、明日への何よりの活力になるのかもしれません。読んだ後に、無性に冷たいアールグレイと甘いスイーツが恋しくなるような、そんな温かい空気感が伝わっていれば幸いです(隠蔽工作は、あっけなく瓦解してしまいましたが……)。

 もしこのお話を気に入っていただけましたら、ブックマークや評価、ご感想などをいただけますと、執筆の大きな励みになります。

 また次の話で、カウンターでお待ちしています。

天照(Bar風花)

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