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【Bar風花】第二章 太陽の赤と潮騒の白 〜鉄の女王と深窓の令嬢による優雅なサボタージュ〜

前書き


※超短編・初夏の陽射しが眩しいお昼の日常回です

※深刻な事件は起きません。ただ、極上のパスタと大人の女性の絆を

※皇グループの重圧から少しだけ逃れる、優雅なサボタージュをお届けします


風花町・路地裏に佇む橘法律事務所。

完璧な深窓の令嬢にして有能な秘書官である天野里美が、大きなため息とともに駆け込んできた。

「お姉様、私と一緒に美味しいランチへ逃避行しませんか?」

孤高のプロフェッショナルである橘弁護士が見せた、姉のような優しい微笑み。

太陽のジェノベーゼと、潮騒のボンゴレビアンコ。

二人の女性が肩の力を抜き、極上のイタリアンで心を解きほぐすひととき。

どうぞ、初夏の風花町へ、そっと助手席に乗り込んでみてください。

 初夏の陽射しが、風花町(かざはなちょう)の石畳に濃い影を落とし始めた午前十一時。湿り気を帯びた南風が、町のあちこちに植えられた柑橘の葉を静かに揺らしている。

 路地裏にひっそりと佇む橘法律事務所。

 その一階に設けられた薄暗いガレージの静寂を、重厚かつ洗練された直列六気筒の排気音が滑らかに切り裂いた。

 オレンジ色の街灯などなくとも、その車体は空間を支配するほどの存在感を放っている。

 BMWの最高峰ツアラー、K1600GTL。リキッド・シルバーの美しいボディが、初夏の熱気を孕んだ風を切り裂いてきた余韻を残し、しっとりと熱を帯びて停まった。チ、チ……と金属が冷えていく微かな軋み音は、走り終えた名馬の息遣いにも似ている。

 ヘルメットを脱ぎ、艶やかな漆黒の髪をさっと整えたのは、(すめらぎ)グループ会長秘書官にして風花支社責任者である天野里美(あまのさとみ)だ。

 深窓の令嬢としての隙のない身なりを確認すると、彼女は張り詰めた肩の力を少しだけ抜き、木製の階段を上がって二階の事務所へと向かった。



 

第一章 ダージリンの温度と、見透かす瞳

 

「あら、天野様。ようこそいらっしゃいました」

 オーク材のドアを開けると、事務所の空気を清浄に保つような凛とした声が出迎えた。

 二十代前半の聡明な事務員、一条結(いちじょうゆい)が、黒い瞳を優雅に細めて微笑んでいる。

 その穏やかな笑顔には、里美が今日、本当は何を目的にここへ逃げ込んできたのかを完全に見透かすような光が宿っていた。

 結はあえて何も言わず、ただ里美の来訪を日常の風景として受け入れる。

 里美は少しだけ気恥ずかしそうに微笑み返し、奥の執務室へと足を踏み入れた。

 デスクでは、仕立ての良いダークスーツに身を包んだ橘栞(たちばなしおり)が、左耳のブラック・ダイヤモンドを静かに輝かせながら分厚い書類に目を通している。

 ピンと伸びた背筋と無駄のない佇まいは、妥協を許さない孤高のプロフェッショナルのそれだ。

「橘弁護士、風花支社の次期開発案件について、急ぎ直接ご相談したいことがありまして……」

 里美は、いかにも有能な秘書官といった洗練された所作でファイルを差し出した。

 言葉の端々にビジネスライクな緊張感を滲ませる。

 しかし、栞はファイルに一瞥をくれただけで万年筆を置き、ふぅ、と小さく息を吐いた。

「里美さん。この程度の確認事項なら、暗号化されたメール一通で事足ります。本来であれば顧問弁護士の私が支社へ赴くのが筋ですしね。……貴女、また会長の無茶振りに疲れて逃げ込んで来ましたね?」

 冷徹で鋭い指摘。里美が被っていた『有能な秘書官』の仮面が、音を立ててあっさりと崩れ落ちる。

「うぅ……さすが橘お姉様、お見通しですね……」

 里美はがっくりと肩を落とすと、デスクに突っ伏して上目遣いで栞を見つめた。

「もう今日は、朝から会長の思いつきに振り回されて限界なんです。お姉様、お仕事は少しだけ結さんに任せて、私と一緒に美味しいランチへ逃避行しませんか?」

 皇グループ風花支社のトップとは思えない、無防備なポンコツ秘書官の素顔。

 BMWというドイツの至宝を愛する者同士であり、心を許せる姉のような存在である栞の前にだけ見せる特別な姿だった。

「私は今、午後の公判に向けた最終調整の……」

 栞が論理的な正論で断ろうとしたその時、結が絶妙なタイミングで、淹れたての紅茶を二人の前にそっと置いた。

 カップから立ち昇るのは、マスカットフレーバーとも称されるダージリンの最高級茶葉の香り。

 茶葉の開き具合、湯の温度、抽出時間を秒単位で計算し尽くした一杯。

 それは熟練のバーテンダーが客の疲労度を見抜き、最適なカクテルを調酒する所作に似ている。

 黄金色の水面が、里美の強張った神経を優しく解きほぐしていく。

「先生、午後の公判資料のインデックス化とリスク精査は、すでに私が完了させております。スケジュールにも、二時間ほどの余白を確保済みですわ」

 結のおっとりとした声で告げられたのは、人間コンピュータたる彼女の完璧なアシストだった。

 さらに、デスクの下で丸くなっていたコーギーの『ぷりん』と『ちび』が、お出かけの空気を察知して栞の足元にすり寄ってくる。

 短い脚で精一杯背伸びをし、愛くるしい瞳で見上げてくる二匹の守護獣。

 有能すぎる事務員と、無条件の愛を向ける愛犬たちによる見事な挟み撃ち。

 これにはさすがの鉄の女王も、論理の盾を下ろすしかない。

「……はぁ。結、貴女は本当に恐ろしい事務員ね」

 栞の唇に、鉄の仮面ではない、姉のように深い慈愛に満ちた微笑みが浮かぶ。

「分かりました、里美さん。貴女のその急ぎの『相談案件』、ランチの席でじっくりと聞かせてもらいましょう」

「やったぁ! さすが橘お姉様!」

 パッと花が咲いたように喜ぶ里美を見て、栞も思わず肩を揺らして笑った。

 ダージリンの香りが、二人の間の空気をどこまでも柔らかく満たしていく。



 

第二章 漆黒のクーペと、小さな厨房の魔法

 

「今日はお姉様の助手席に乗せてくださいな」

 一階のガレージ。里美の提案に頷き、栞は漆黒のBMW M8クーペ コンペティションのエンジンを静かに目覚めさせた。

 V型八気筒ツインターボの野太くも洗練された咆哮が、ガレージの壁に低く響く。

 里美のK1600GTLが『自らの手で風を切り裂くための翼』だとするなら、栞のM8クーペは『大切な者を守り抜くための堅牢な城』だ。

 結と二匹のコーギーに見送られながら、重厚なクーペは初夏の風花町へと滑り出した。

 二人が訪れたのは、風花町郊外にあるこぢんまりとしたイタリアンレストランだった。

 派手な看板はないが、地元産の食材を慈しむように調理するシェフの腕は、確かな常連客を惹きつけて離さない。

 柔らかな日差しが差し込む無垢材のテーブル席で、二人はメニューを開いた。

「私は、ペスカトーレのセットをお願いします」

 里美が注文したのは、太陽の恵みをたっぷり受けた濃厚なトマトソースに、海の幸が贅沢に絡み合う一皿。

「私は、ボンゴレビアンコのセットで」

 栞が選んだのは、アサリと白ワイン、そしてガーリックオイルで仕上げるシンプルなパスタだった。

 厨房の奥から、オリーブオイルがパチパチと爆ぜる軽快な音が聞こえてくる。バーテンダーがシェイカーを振るリズムで客の心を整えるように、この店のシェフはフライパンを振る音で客の食欲と期待を静かに高めていく。

「それで、今日の会長はどんな無理難題を仰ったの?」

「聞いてくださいお姉様! 今朝なんて突然、次期開発エリアの視察に『私もお忍びで歩きたいから、目立たない服装を用意なさい』って……。あの神々しいオーラを放つ会長に、目立たない服なんてこの世に存在しません!」

 フォークが運ばれてくるまでの間、里美が可愛らしく愚痴をこぼし、栞が相槌を打つ。

 栞は決して否定せず、かといって過剰に同情するわけでもなく、ただ里美の言葉の淀みを掬い取るように静かに聞いていた。優秀なバーテンダーが客の愚痴をグラスの氷とともに溶かしてしまうような、見事な傾聴の技術だ。



 

第三章 太陽の赤と、潮騒の白

 

 やがて、白い陶器の皿が二人の前に置かれた。

 里美の前に供された『ペスカトーレ』。

 丁寧に湯剥きされた地元産の完熟トマトは、オリーブオイルの中でじっくりと熱を加えられ、強烈な甘みと酸味を凝縮させている。

 そこへ、大ぶりのエビやイカ、ムール貝といった海の幸がふんだんに盛り込まれ、芳醇なエキスをソースの隅々にまで行き渡らせていた。

 一口食べれば、魚介の複雑で濃厚な旨味が口いっぱいに広がり、後からトマトの爽やかな酸味が初夏の風のように鼻腔を吹き抜ける。

 複雑に絡み合った重圧を抱える里美の心身に、海と太陽の鮮烈な活力を与え、同時に不要な熱をすっきりとリセットしてくれる。

 まさに今の彼女に必要な調和を保った一皿だった。

 

 一方、栞の前に置かれた『ボンゴレビアンコ』。

 これはごまかしの利かない料理だ

 。大粒のアサリを白ワインで一気に蒸し上げ、その極上のエキスを一滴残らずパスタに吸わせる。

 フライパンの中でオリーブオイルと茹で汁が激しくぶつかり合い、白濁した乳化ソースへと変わる瞬間。

 ニンニクの香りはあくまで下支えであり、主役はどこまでも海が持つ純粋な旨味だ。

 栞はフォークにパスタを巻きつけ、静かに口に運ぶ。

 余計な装飾を削ぎ落とし、素材の真実だけを引き出した味わい。

 それは、法廷という場で真実のみを武器に戦う橘栞の生き様そのものだった。

 飾り立てず、ただ本質だけを追求する。

 だからこそ、その旨味は底知れず深い。

 美味しい料理と、立場を忘れて語り合える特別な時間が、里美の心を確実に解きほぐしていく。

 極上の料理には、胃袋を満たすだけでなく、硬直した魂のシワを優しく伸ばす力があった。



 

第四章 ミントの余韻と、優雅なサボタージュ

 

 食後に運ばれてきたのは、風花町産のベリーを贅沢に煮詰めたソースがかかった純白のパンナコッタと、透き通るようなペパーミントティーだった。

 スプーンですくった滑らかなパンナコッタは、舌の上で優しく解け、生クリームの濃厚なコクとベリーの鮮烈な甘酸っぱさが幸せな余韻となって広がっていく。

 そして、ミントティーの清涼な香りが、満たされた胃の熱をすっきりと冷まし、午後に向けて思考を澄み渡らせていった。

 鋭い苦味で無理やり目を覚まさせるのではなく、甘やかな優しさと爽やかな風で背中を押す。

 それは夢のようなランチタイムの終わりを告げ、二人を再び戦場へと送り出すための、心地よい(アンカー)の役割を果たしている。

 温かなミントの最後の一滴を飲み干す頃には、里美の表情から甘えは完全に消え去っていた。

 その瞳には、皇グループ風花支社を背負って立つ、凛とした責任者の光が戻っている。

「お姉様、急なお誘いに付き合ってくださって、本当にありがとうございました。おかげで午後の業務も完璧にこなせそうです」

「ええ。貴女が倒れてしまっては、顧問弁護士である私も困りますからね。いつでも息抜きにいらっしゃい」

 会計を済ませた栞の横顔は、誰の色にも染まらない孤高のプロフェッショナルでありながら、身内に対する深い優しさに溢れていた。

 

 レストランを出て、再びM8クーペの助手席に乗り込む。

 窓の外を流れる風花町の穏やかな景色を眺めながら、里美は左耳で密やかに光る栞のブラック・ダイヤモンドを見つめた。

 巨大な組織の重圧の中で戦う自分にとって、橘法律事務所と、そこで待っていてくれる姉のような存在がどれほど救いになっていることか。

 白銀の直列六気筒で駆け込み、漆黒のV型八気筒の揺りかごで癒やされる、優雅なサボタージュ。

 初夏の澄んだ空気の中、二人の女性を乗せた車は、午後の戦場へと向かって静かに、そして力強く風花町を走り抜けていく。

 午後にはまた、それぞれの場所で、彼女たちの戦いが始まるのだ。

あとがき


橘弁護士と天野秘書官の優雅なサボタージュ、いかがでしたでしょうか。

今回はBarの夜の顔から離れ、太陽の下で戦う彼女たちの日常と素顔、そして美味しいイタリアンを描いてみました。

読者の皆様も、ボンゴレビアンコやジェノベーゼが食べたくなっていただけたなら幸いです。


面白い、美味しそうと思ってくださったら、ぜひブックマークや評価、感想をいただけますと励みになります!


また次の話で、カウンターでお待ちしています。


天照(Bar風花)

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