【Bar風花 閑話】第二章 狐白の里帰り
前書き
※超短編・白狐の優しい里帰り話です
※完熟白桃の和菓子と、神様たちの優しい会話
※戦闘も恋愛もありません。ただ温かな日常です
開店前の静かなBar風花に、白狐・狐白が帰ってきた。
鹿島の祐徳稲荷神社から、杉と線香の匂いを纏って。
里美さんが一ヶ月前から予約していた完熟白桃の和菓子を、
横からかっさらって神様に届けるために。
美和さんはすぐに気づき、優しく微笑む。
そして神殿の奥では、祐徳院様や大宮売大神たちが、
狐白のやんちゃな里帰りをくすくすと話題にしていた――
静かで、優しく、ほんのり微笑ましい夜の話です。
どうぞ、のんびりお付き合いください。
第一章:開店前の静けさ
お客が一人もいない開店直後の店内は、まるで時間が止まったかのように澄みきっていた。
程良く空調の効いた空気はひんやりと静かで、耳障りにならないボリュームの静かな音楽だけが、遠くからそっと流れている。BGMはほとんど旋律というより残響に近く、古いレコードの針が落ちる微かなノイズと、ピアノの最後の音が消えていくような余韻が、空気の中に薄く溶けていた。
薄暗い店内には、直接照明と間接照明が絶妙に配置され、柔らかな光の層が空間を仄かに浮かび上がらせている。入って右手には、立派な鉄刀木の一枚板を丁寧に加工したカウンターが横たわっている。深い黒に近い赤褐色の木肌は、照明を受けて静かに艶めき、何十年もの年月が刻んだ細かな傷や指の跡が、控えめな光沢となって浮かび上がっていた。
カウンターの上には、余計なものは一切置かれていない。バーマットの上に一本のバースプーンが入った水の張った大きなブランデーグラスがぽつんとあり、その脇に柑橘系のフルーツ——レモン、オレンジ、ライム——が美しく盛られた籠が一つあるだけだ。
カウンターとほぼ同じ高さに設けられた戸棚には、クリスタル製のグラスが種類別に整然と収められている。リーデル、バカラ、ウォーターフォード、あるいは古いアンティークのものまで——明らかに高価で、歴史あるメーカーの品々が、美しく透明な光を反射しながら静かに並んでいた。磨き上げられたガラスの表面は、照明に当たるたびに細かな虹色の輝きを放ち、店内の薄暗さの中でひときわ存在感を主張している。
店内全体に漂うのは、微かに香る桜の花の匂い。生花を近くに置いているような強い香りではなく、遠くの春の風が運んできたような、かすかで儚い甘さだ。壁の奥まった一角に飾られた、墨と淡い桜色だけで描かれた小さな一枝の絵——シンプルな額縁に入れられたその絵の近くから、静かに香りが漂っているようだった。
開店直後のこの空間には、人の気配が一切ない。ただ、磨き上げられた鉄刀木と黒革のカウンター、透明に輝くクリスタルのグラス、整然と並ぶボトルたち、そして微かに香る桜の余韻だけが、静かに息づいている。ここは、誰かが来るまでのわずかな時間さえも、丁寧に大切に守られている場所だった。
第二章:おかえり、狐白
「——おかえり、狐白。どこへ行っていたの?」
カウンターをリネンで拭いていた櫻庭美和が、ふと手を止めて足元へ視線を落とした。黒革のローチェアーの隙間から、いつの間にか紛れ込んでいた白い影が、ふらりと姿を現す。
美和はしゃがみ込み、その真っ白な体をそっと撫でた。ワインレッドとアンバーの左右で異なる瞳が、いたずらっぽく、それでいて慈しむように細められる。撫でる手が一瞬だけ止まり、美和は小さく鼻を鳴らした。
「……やっぱりね。あなた、またずいぶんと遠出をしていたでしょう」
きゅん、と狐白はとぼけるように小首を傾げ、何食わぬ顔で前足を舐めはじめる。
だが、その手入れの行き届いた真っ白な毛並みからは、風花町の柔らかな桜の香りとは明らかに違う、深い杉の木立の匂いと、古い石壁に燻るお線香の仄かな残り香が漂っていた。
カウンターの端でルポの原稿を整理していた櫻庭天が、万年筆を置いてふふっと穏やかに笑う。
「お土産の和菓子がどこにもないってことは、今回は買い食い目的の散歩じゃなかったみたいだね」
「ええ。この匂いは、鹿島の山の奥……石壁の庵の匂いよ。あの方のところに、またご挨拶に行っていたのね」
美和はしゃがんだまま、狐白の首元に結ばれた朱色の飾り紐を優しく整えてあげる。小さな鈴がチリン、と切ないほど綺麗な音を立てて店内に響いた。
「内緒で行っているつもりでしょうけれど、お狐様の鼻を持ってしなくても、私にはちゃんと分かるわ。あの方、なんて仰っていた?」
狐白はただ、嬉しそうに目を細めて、美和の温かい手のひらに額を擦りつけるだけだった。美和は少しだけ遠い目をしながら、立ち上がってボトル棚を見上げる。
「そう……相変わらず、お元気そうで良かった。今度は私からも、美味しいお茶でも持たせなきゃね」
第三章:完熟白桃の奪還作戦
万年筆を握っていた天が、ふっと記憶を呼び起こすように顔を上げた。
「お届けといえば、もしかして……昨日、里美さんが『信じられない暴挙に遭いました!』って、もの凄い剣幕で電話してきたアレかい?」
「ええ、そのアレよ」
美和は可笑しそうに、手元に用意したライムの籠を整えながら口元を伏せた。
「風花町の老舗が年に一度だけ仕込む、特産の完熟白桃を丸ごと使った最高級の和菓子。里美、一ヶ月前から予約して、昨日の仕事終わりに執念で受け取りに行ったらしいのだけど……お屋敷の門をくぐった瞬間に、白い影に横から文字通り『かっさらわれた』んですって」
きゅん!
狐白は「実力行使よ」と言わんばかりに、カウンターの足元でふんぞり返り、金色の瞳をキラリと輝かせて胸を張る。
「里美から力尽くでお菓子を奪うなんて、あなたも相当に命知らずね。でも、それを自分で食べずに、そのまま鹿島の山まで走るなんて……」
美和は苦笑しながらも、目の前の愛らしい使い魔の忠義に胸を打たれていた。
天野里美——その正体は、天孫降臨の折に先頭に立って道を切り拓いた最強の供奉の神、天宇受売命。現代では皇グループの完璧な秘書官として振る舞いながらも、身内に対しては凄まじい突破力を発揮する彼女から、正面切って獲物を奪える存在などそうそういない。
それが出来たのは、狐白がただの野狐ではなく、祐徳稲荷神社の奥深く、命婦社にその名を連ねる格式高い白狐の霊だからに他ならなかった。
「祐徳院様、なんて仰っていた?」
美和の問いかけに、狐白は満足そうに目を細める。
「そう……『相変わらずやんちゃで、優しい子ね』って、笑いながらお菓子を召し上がってくださったのね。里美には悪いことをしたけれど、あの方のあんなに嬉しそうな気配を連れて帰ってきてくれたんだもの。今回は、あなたの勝ちにしてあげる」
天は万年筆を静かに置き、苦笑いを浮かべた。
「でも、次に里美さんがここに来るときは、相応の覚悟をしておいた方が良さそうだね、狐白。彼女の食い意地……いや、執念を甘く見ない方がいい」
第四章:石壁の庵に宿る薫香
風花町から遠く離れた、佐賀県鹿島市。
夜霧が山を包み込み、静まり返った祐徳稲荷神社には、狐白が夜霧に紛れて駆け去った後も、彼が残していった完熟白桃の瑞々しく甘い香りがほんのりと漂っていた。
「鎮西日光」と称される鮮やかな極彩色の社殿が、月の光を浴びて幽玄に浮かび上がっている。清水の舞台よりも高いと言われる本殿の遥か下、岩壁の中腹に佇む石壁社の奥から、絹が擦れ合うようなたおやかな声が響いた。
「ふふ……相変わらず、せっかちで、それでいて酷く優しい子ですねえ。現世の風花町というのは、随分と贅沢で馨しいお菓子がある民の里のようで。大宮売様、あなたも一つ、いかがですか?」
声をかけたのは、江戸時代に実在し、領民のために祈り続けて生き神となった鍋島直朝公の夫人——萬子媛、またの名を祐徳院様。
その問いかけに、格式高い本殿の奥から、困ったような、けれど愛おしくて堪らないといった風にクスクスと鈴を転がすような笑い声が応じる。
「あら、祐徳院様。それは現世の私——里美が、一ヶ月も前から指折り数えて楽しみにしていた、それはそれは見事な白桃の和菓子でございますのよ? まさかあの子、現世の私の目の前で文字通り横っ飛びにかっさらっていったかと思えば、こちらへ直行していたとは……」
本殿に祀られし三柱の一尊、大宮売大神。神道において天宇受売命と同一視される美と気品の女神は、あきれたように溜息をついた。
「しかも、現世の私には絶対に知られたくないからと、私の足元で『ごめんね』などと殊勝に小さく鳴いて。現世の私は今頃、お屋敷の自室で『私の桃が! あの白い毛玉め——!』と地団駄を踏んで涙ぐんでおりますのに、本体の私に免じて許せというのですから、本当に知恵の回るお狐様ですこと」
「まあ、それは里美様にはお気の毒なことをいたしましたね」
萬子媛は、狐白が丁寧に供えていった竹皮の包みを愛おしそうに見つめながら、遠い時代に思いを馳せるように、優しく目を細めた。京都の公家からこの肥前の地へお輿入れした数百年前に、彼女が手を引いて連れてきた御分霊の中に、あのやんちゃな子狐がいたのだ。
「でも、あの子が私を忘れることなく、そうして現世の神々の目を盗んでまで、こうして会いに来てくれる。それだけで、この古い石壁の庵も、一時に春が訪れたように華やぐというものです。あの子の毛並みに、ほんのりと桜の匂いが混ざっておりました。……木花咲耶姫様も、天様も、あの風花町の『Bar』という不思議な庵で、仲睦まじく、穏やかに暮らしていらっしゃるのでしょうね」
「ええ。主君も美和様も、神代の激しい運命をすべて乗り越えて、今はただお互いを一人の男と女として、深く、静かに慈しみ合っておられます」
大宮売大神の声が、夜の帳に優しく溶けていく。
「現世の私は少々、海里様に熱を上げすぎて暴走しがちでございますけれど……それもまた、美和様たちの守るあの町が、それだけ温かく、人を生かす光に満ちている証拠でございます」
「それは何よりのことでございます。大宮売様、今夜あたり、あの子は風花町に戻って、美和様たちの前で小さくなってお仕置きでも受けているかしら?」
「いいえ、美和様のことですから、あの子の健気な『里帰り』をすべてお見通しで、きっと里美には内緒で、大好物の油揚げでもお皿に盛ってあげているはずですわ」
その時、稲荷総本宮の奥座敷、あるいは風花町の豊かな実りを見下ろす空の上から、さらに大らかな気配が降ってきた。
「あははは! 意地を張って本人には謝らないくせに、神殿の裏で小さくなっているなんて! どこでそんな可愛い処世術を覚えてきたんだい?」
穀物と衣食住を司る最高峰の神——倉稲魂大神がお腹を抱えて笑っていた。
「あ奴、なかなか粋な真似をするじゃないか。現世の里美の悔しがる顔も含めて、実に見事な立ち回りだ! しかしおいおい、私の眷属の不始末を口実に、随分と贅沢な女子会をキメているじゃないか。ずるいぞ、私にもその美味い和菓子を分けておくれよ」
神殿の奥と石壁の庵の間で、そんな睦まじい会話が交わされた後、祐徳稲荷神社の境内は再び、元の静謐な神域の静けさへと戻っていった。
第五章:今夜の特等席
「……ふふ、あの子ったら、本当に素直じゃないんだから」
開店前の薄暗い店内で、鉄刀木のカウンターに置かれた籠のライムを整えながら、美和がくすくすと鈴を転がすように笑った。
「どうしたの、美和さん」
カウンター席に座っている天が、不思議そうに頭を上げる。
「今ね、祐徳の大宮売のほうから、かすかに風が届いたの。——『あのお転婆な白い子が、神殿の裏でこっそり手を合わせて、ごめんねって呟いて去っていきましたよ』って」
天は一瞬きょとんとした後、すべてを察して、あたたかな目元をさらに緩めた。
「なるほど。里美さん本人には絶対に頭を下げたくないから、あちらの本体に直接お詫びをしに行ったわけだ」
「ええ。里美の現身があれだけお屋敷で『私の桃の和菓子が——!』って怒り狂っているのを知っているから、さすがに少しだけ後ろめたかったのね。神様としての里美は、『可愛いから許してあげるのに、現世の私が大騒ぎしてごめんなさいね』なんて、クスクス笑っていたわ」
カウンターの足元で、何食わぬ顔で丸くなっていた狐白が、図星を指されたように「きゅ、う……」と小さく耳を伏せる。
美和はしゃがみ込み、その白いおでこを指先で優しく小突いた。
「大宮売大神には許してもらえても、今夜ここへ来る里美は、まだお菓子を奪われた怒り心頭のままだからね。……ほら、里美が来たら、この大好きな油揚げの一皿でも差し出して、上手にご機嫌を取りなさい?」
狐白はちぇっ、と不承不承といった様子で尻尾を揺ラしたが、その金色の瞳には、どこかホッとしたような安堵の光が浮かんでいた。
ウガノミタマノオオカミが遣わしたこの白狐は、今やこの『Bar風花』にとって、なくてはならない大切な家族の一員だ。神代の激しい運命を終えた二人が、静かに営むこの小さなカウンター。そこは、傷ついた現世の人間だけでなく、古い神々にとっても、一番の「癒やしの特等席」なのかもしれない。
「さあ、天ちゃん。そろそろ扉の鍵を開けてちょうだい。今夜も、迷える人たちがこの灯りを目指してやってくるわ」
「そうだね、美和さん。美味しいお酒を用意しよう」
重厚なオーク材の扉の向こうから、遠い夜風が桜の香りを運んでくる。静かに、けれど確かに、風花町の夜が更けていく。
あとがき
狐白の里帰り、書いていてずっと微笑んでいました。
里美さんの大好物を奪ってでも神様に会いに行く忠義と、こっそり「ごめんね」と謝る可愛らしさ。
Bar風花が、神様たちにとっても特別な「癒やしの場所」になっているのが、とても嬉しかったです。
短いけど、風花町の優しい時間が詰まった話です。
読んでくださってありがとうございました。
天照(Bar風花)




