9杯目 エメラルド・アイルと、約束の始まり
『Bar風花-kazahana-』
エメラルド・アイルと、約束の始まり
※独立した短編エピソードです
※バー・カクテル・車・ドライブの約束・静かな夜の会話が好きな方向け
※激しい展開はありません。ゆっくりと流れる時間をどうぞ
カウンターの端でグラスを傾けていると、美和さんがふと手を止めてこちらを見た。
「そういえば、今度久住に行こうと思ってるんですよ〜♪」
弾んだ声に、思わず手が止まる。
満開のミヤマキリシマ、黒川温泉、蕎麦街道……彼女の頭の中ではもう完璧なプランが出来上がっている。
そして話題は自然と愛車へ。
「見て見て、可愛いでしょ〜?」
スマホに映ったのは、フィアット500……ではなく、アバルト695 トリブート・フェラーリ。
「じゃあ、絶対一緒にツーリング行きましょうよ!」
目をキラキラさせて提案する美和さんに、こちらも思わず頷いてしまう。
赤いアバルトと、間もなく納車されるGRヤリスが、ピンクの絨毯をバックに連なる光景が、頭に浮かんだ。
そして今夜のメインは、シャルトリューズ尽くしの特別な一杯——V.E.P.を使った「エメラルド・アイル」。
深い緑がグラスの中で静かに揺れ、ハーブの複雑な層が体に染み渡る。
Bar風花へ、ようこそ。
今夜は、約束の始まりと、特別な緑の余韻を一緒に。
次の更新はR8.2.4、12時を予定しています。
カウンターの端で、ゆっくりとグラスを傾けていると、シェーカーを丁寧に磨いていた美和さんが、ふと手を止めてこちらを見てた。
「そういえば、今度久住に行こうと思ってるんですよ〜♪」
その声があまりに弾んでいて、思わずグラスを持つ手が止まる。
普段は落ち着いた大人の色気を漂わせている彼女が、今日はどこか少女のように目を輝かせている。
「ドライブにもちょうどいい距離ですし、何より……満開のミヤマキリシマを見たいんです!」
美和さんは両手を軽く握りしめて、胸の前で小さく振る仕草をした。
山一面が鮮やかなピンクに染まる、あの幻想的な景色を想像しているのだろう。
彼女の頰がほんのり上気しているのが、照明の下でよく分かった。
「そして帰りは、黒川温泉でゆっくり温泉に浸かって……そのあと、蕎麦街道で美味しいお蕎麦を食べるんです〜!」
もう完全にプランが頭の中で完成している様子だ。
ハイテンションのまま、指を折りながら一つひとつ確認するように話す姿が、なんだかとても愛おしい。
ふと、先日偶然お邪魔した美和さんの自宅のことを思い出した。
カーポートに停まっていた、小さくて鮮やかな赤い車。あの愛らしいフォルム……。
「あ、そういえば美和さんのお宅に、すごく可愛らしい赤い小さな車が停まってましたよね。新型のフィアット……だったかな?」
彼女はパッと顔を輝かせると、すぐにスマホを取り出した。
「はい! 私の愛車なんです♪ 見て見て、可愛いでしょ〜?」
画面に映し出されたのは、確かにフィアット500のシルエット。でも…何か違う。
ボディに走る大胆なストライプ、特別なデザインの17インチホイール、ドアミラーはカーボンファイバー。
そして何より、フロントのエンブレムが…。
「これ…スポーティーすぎるし、エンブレムも…。美和さん、もしかしてこれ、アバルト?」
恐る恐る尋ねると、美和さんは一瞬キョトンとしたあと、満面の笑みでドヤ顔になった。
「おっ、よく分かりましたね〜! これはね、アバルト 695 トリブート フェラーリなんです♪」
…えええっ!?
フィアット500をベースに、アバルトがチューニングを極め、さらにフェラーリとのコラボで生まれた特別仕様車。
世界限定1696台、1.4Lターボで180ps、最高速225km/h……。
可愛らしい見た目からは想像もつかない、かなりのモンスターマシンだ。
「車、お好きなんですか?」
美和さんが身を乗り出して聞いてくる。瞳がキラキラしている。
「…実は、昔ちょっと草レースにハマってた時期があって。最近は、トヨタのGRヤリスがもうすぐ納車される予定なんです」
その瞬間、美和さんのテンションが天井知らずに跳ね上がった。
「ええー!? GRヤリス!? めっちゃ羨ましい〜! じゃあ、絶対一緒にツーリング行きましょうよ! 一台で走るより、二台で連なって走るほうが絶対楽しいですよ!」
彼女はもう完全に予定を組み立て始めた様子で、目を細めて夢見心地に呟く。
「久住のミヤマキリシマを見ながら、ワインディングを攻めて…黒川で温泉入って、蕎麦街道で〆る…最高のコースじゃないですか♪」
そして、急に思い出したように付け加えた。
「あ、狐白も連れて行きますね! あの子、ドライブ大好きなんですよ〜。後部座席でずっと窓の外見て、尻尾振ってる姿が可愛くて…」
…どうやらこの久住ツーリングは、美和さんの中ではもう「決定事項」らしい。
カウンター越しに、彼女の弾むような笑顔を見ていると、こちらまで胸の奥が温かくなる。
赤いアバルトが先導して、俺のGRヤリスが続く。
ミヤマキリシマのピンクの絨毯をバックに、二台のスポーツカーが軽快に連なる光景が、頭の中に鮮やかに浮かんだ。
…これは、断る理由が見当たらないな。
「じゃあ、楽しみにしてますね、美和さん」
そう答えると、彼女は「やったー!」と小さくガッツポーズ。
シェーカーを置いた手で、そっと彼の手に触れてくる。
「約束ですよ〜? 絶対ですよ♪」
…どうやら、近いうちに本物のエンジン音と、ミヤマキリシマの香りと、黒川の湯気と、手打ち蕎麦の香ばしい匂いに包まれる日が来そうだ。
◆
グラスの中身が底を現した瞬間、美和さんがタイミングを見計らったように、柔らかな声で言った。
「そろそろ、次をお作り致しますね。」
彼女の視線が俺の空いたグラスに落ち、すぐにバックバーへと移る。
今日はどうやら、シャルトリューズ尽くしの特別な夜。
美和さんは少し首を傾げて棚を眺め、ふっと小さく頷くと、冷凍庫の扉を開けた。
そこから取り出したのは、タンカレーNo.TENのボトル。
続いて、バックバーの一番奥——木箱に大切に収められた、プレミアムボトル。
シャルトリューズ・ヴェール VEP。
ラベルに刻まれた「V.E.P.」の文字が、照明に照らされて静かに輝いている。
Vieillissement Exceptionnellement Prolongé——例外的に長期熟成させた、カルトジオ会修道士たちが毎年限られた量だけ作る希少な逸品。
通常のヴェールより長くオーク樽で寝かせられ、複雑なハーブの層がさらに深みを増し、滑らかで長い余韻を持つ……そんな特別な一本を、彼女は今、俺のために開けようとしている。
美和さんはバロンシェーカーを取り出し、メジャーカップを使わず、経験だけでタンカレーをまず注ぐ。
続いて、VEPのボトルをそっと傾け、緑の液体を慎重に、でも迷いなく加える。
その瞬間、シェーカーの中に、普段のヴェールとは違う、深く熟成されたハーブの香りがふわりと広がった。
ミントやスパイスの鋭さはそのままに、オークの柔らかなウッディネスと、時間だけが醸し出す丸みが加わっている。
バースプーンを滑り込ませ、軽くステア。
一度、指先でシェーカーを傾けて味見をし、彼女は目を細めて小さく息を吐く。
「……今日はVEPだから、いつもより優しく、でも深く……」
独り言のように呟く声が、カウンター越しに聞こえてくる。
次に、オーストリアのリーデル社製のカクテルグラスをそっと取り出す。
クリスタルの透明度が抜群で、グラス自体がすでに宝石のよう。
トングで氷をきっちり詰めると、彼女は軽く息を整え、シェーカーを両手で構える。
そして——振り始めた。
キン! キンキン! キンキンキン!
甲高い氷の音が、静かな店内に鮮やかに響き渡る。
少し長めに、でもリズミカルに。
シェーカーが彼女の手の中で生き物のように躍動し、音が徐々に高まって、最後にぴたりと止まる。
手早くストレーナーを通して、グラスに注ぐ。
液体は美しい薄いエメラルドグリーン——でも、VEPの熟成による深みで、ほんのり黄金のニュアンスが混じっている。
表面に細かな氷のフレークがキラキラと浮かび、まるで小さな宝石の欠片のよう。
最後に、カクテルピンに刺したグリーンのマラスキーノチェリーを、そっと沈める。
チェリーがゆっくりと底へと落ちていく様子が、なんだか幻想的だ。
「エメラルド・アイル…スペシャルバージョンです。」
美和さんは静かにそう告げると、グラスを俺の前のコースターに優しく置いた。
コースターに触れるガラスの音が、かすかに響く。
「こちらのカクテルはジンベースでね。名称の由来は、一年中エメラルドグリーンに覆われているアイルランドの愛称から来てるんです。」
彼女はグラスを磨きながら、穏やかに続ける。
「アラスカの兄弟カクテルとも言われていて……アラスカはシャルトリューズ・ジョーヌ(イエロー)を使うのに対して、こちらはヴェール(グリーン)を使うから、『グリーン・アラスカ』とも呼ばれるんですよ。」
そして、少し声を落として付け加える。
「今日はVEPを使ってるから……普通のヴェールより、熟成の深みが加わって、ハーブのレイヤーがもっと複雑に、でも優しく広がるはず。
修道士さんたちが何年もオーク樽で寝かせた特別な一本…だから、今日は特別に、ゆっくり味わってくださいね。」
俺はグラスを手に取り、一口、ゆっくりと口に含む。
…深い。
ジンのドライでシャープなボタニカルがまず広がり、そこにVEPの複雑なハーブとスパイスの層が、重なり合うように溶け込む。
通常のヴェールより鋭さが丸くなり、オークの柔らかなタンニンと、時間だけが育んだ甘やかな余韻が、喉の奥で長く響く。
甘さは控えめなのに、香りが口いっぱいに広がって、体温がじんわりと上がるような強いアルコール感。
でも、決して荒々しくない。
洗練された、静かな力強さ——まさに「プレミアム」の名にふさわしい一杯だ。
これは…お酒の弱い人には絶対勧められない。
でも、だからこそ、こんな夜にぴったり。
VEPの希少性が、グラスの中で静かに息づいている。
グラスを傾けながら、俺はふと美和さんを見上げる。
彼女はグラスを磨く手を止めず、でも視線は俺の方を向いている。
柔らかな照明の下で、その瞳が優しく微笑んでいるように見えた。
「どうですか?」
小さな声で尋ねてくる。
俺はグラスを軽く掲げて、笑みを返す。
「…完璧すぎる。VEPの深みが、全部体に染み込んで来ますよ。」
美和さんはふっと息を吐いて、嬉しそうに目を細めた。
「よかった……。今日はシャルトリューズの緑を、たっぷり、特別に味わってくださいね。」
カウンター越しに交わすその視線が、なんだか妙に心地よくて。
エメラルド・アイルの緑が、グラスの中で静かに揺れている。
店内のBGMが遠くで流れ、氷の音がまだ耳に残る夜——
このスペシャルな一杯が、今日のハイライトになるのは間違いない。
読んでくださってありがとうございます。
この話は、「ふとした会話から、二人で走る未来が決まっていく瞬間」と「シャルトリューズの深い緑が、静かに体に染みていく夜」を、ただそのまま切り取ってみたかっただけです。
美和さんの少女のように目を輝かせる姿、アバルトのドヤ顔自慢、そしてV.E.P.の特別な深みが溶け合う一杯。
どれも派手ではないけれど、全部が重なって「この夜は特別だな」と思えるような、そんな小さな幸せを誰かの胸に残せていたら嬉しいです。
狐白も、きっと後部座席で尻尾を振って待ってると思います。
次は本当に久住のピンクの絨毯を見に行けますように。
またふらりとカウンターに寄ってくださいね。
それでは、今夜も良い夜を。
天照(Bar風花)




