1-8 ここから見える景色
姿見の前でくるりと回って再度服装を見直す。
今日は週に1度のミュウ先生との特訓が休みの日であり、母様との買い出しの日でもある。
「フィル。どう、準備できた?」
扉越しに母様が呼びかけてくる。
「はい、大丈夫です。すぐ行きます」
そう返事をしながらオストヴルグ家の家紋が入った帽子を頭に乗せると部屋を出た。
「今日は良い天気ね~」
門を出て正面にある長い坂を下っていくと市場へ出る。もっと小さい頃は帰りにこの坂を登るのが面倒で嫌がっていた記憶がある。
だが、今は街全体を見渡せるような広い景色が広がるこの坂と、自分の屋敷が大好きだ。
「そうですね。今日は何を買いましょうか」
「ん~、ミュウ先生の好きなお酒と~、そういえばクロ用の小魚の干物ももう無かったかしら?」
「それなら鮮魚も一緒に見て回れそうですね。たしかこの時期の旬は…ん?」
ふと前に目を向けると、背の曲がりかけた小柄な老婆と小さい女の子が木を見上げてオロオロと慌てている。
「ばーばぁ…ぼうし~」
「ばーばじゃ届かないよ、困ったねぇ…」
目線を上げるとピンク色のリボンが巻かれた麦わら帽子が木の上の方に引っかかっていた。この坂は下から吹き上げるような風が吹くので飛ばされてしまったんだろう。
「あらまあ~」
母様がスッと手を前に伸ばそうとしているのを制止する。
「風で飛ばすと枝で帽子が傷つくかもしれないのでぼ…俺がやります」
「あらそう?じゃあお願いね~、フィル」
指先から魔力を伸ばして制御する。イメージはレンガ片の様なブロック状に空気を集めて固めていく。数は…九つ。
作り上げた空気のブロックを踏み台に空中を駆け上がり老婆と孫の頭上を越え、帽子を回収してから最後に地面近くに作った空気の塊にボフンと着地した。
「うん、傷ついてはいないかな」
帽子を一通り見まわすが傷もなく、リボンにも汚れ一つついていない。恐らく買ってもらったばかりなんだろう。
帽子を返そうと振り返ると老婆も少女も、それどころか母様も目を丸くしていた。
「あ…えっと」
いつかミュウ先生がやったように帽子と少女の頭の間に魔力の通り道を作って風を流す。
帽子はふわりと浮かんで少女の頭をスポッと包み込んだ。
「わっ…!?」
少女は不思議そうに帽子の鍔とこちらを交互に見ていたが、やがてニカッと歯を出して笑った。
「おにいちゃんありがとお!」
少女の言葉に老婆もハッとして
「あ、ありがとうございます!」
と、頭を下げた。
「大したことじゃないから大丈夫。もう帽子飛ばされないようにね」
「うんー!」
「本当に助かりました…って…あ、ああっ!?」
すっかり明るく元気を取り戻した少女と対照的に老婆の顔がみるみる蒼ざめていく。
「お、奥様!と…坊ちゃまでしたか!ああ…申し訳ございません申し訳ございません…」
老婆が何度も頭を下げているのを見て少女も気になったかのか真似をするようにペコリと頭を下げた。
「もーしわけござせんー」
「あ、いや…その…」
帽子を取ってあげたくらいでここまで萎縮されてしまうと対応に困る…。
どうしたものかと母様をチラッと見ると、すでに察してくれていたようで老婆に近づくと肩に手を置いた。
「お願いだから気にしないで。困ってる人を助けるのも私たちの務めなんだから、ね?」
「おお、そんな奥様…。ありがたや…」
老婆も徐々に落ち着きを取り戻したようで一息つくと、裾をくいくいと引っ張られたので下を見る。
「ねー、おにいちゃん。さっきおそらとんだのってまほー?」
「そうだよ。さっきのはお兄ちゃんの魔法だよ」
しゃがんで目線を合わせて答える。
「やっぱり!えーとね、マリーのおっきいおねえちゃんもね。まほーつかえるの!」
「マリーちゃんていうんだね。じゃあマリーちゃんのお姉ちゃんもお兄ちゃんと同じだね」
このマリーという少女は見たところ4、5歳くらいか。大きい姉という口ぶりからすると3姉妹なのだろうか?
年が近いならいつか騎士団で知らないうちに会うこともあるのかもしれない。
「おっきいおねえちゃんはねー、おみずをぷかぷかうかせてあそんでくれるのー」
「そっか。優しいお姉ちゃんなんだね」
「うんー!」
「マリーやおいで。坊ちゃまに迷惑かけちゃいけないよ」
気づくと老婆が後ろから手を入れてマリーをひょいと持ち上げた。
「迷惑だなんて。楽しかったよ、ね?マリーちゃん」
「うんー!マリーおにいちゃんすきー!」
「この子ったら…申し訳ございません。それとマリーの帽子の件、本当にありがとうございました…」
「良いんだよ。困ってる人を助けるのは俺たちの役目なんだから」
「坊ちゃまが次の領主様なら我々も何も心配することはないでしょう。本当に本当にありがとうございます」
老婆は最後まで深々と頭を下げて俺たちを見送っていた。傍らでマリーもぶんぶんと手を振っている。
軽く手を振り返してから向き直って、ふうと息をつく。
「…やっぱり緊張しました」
「そう?立派だったわよ~坊ちゃま」
「やめてくださいよ、もう」
「ごめんね。でも、やっぱりフィルは俺って言ってる方が格好良いと思うわよ?」
「まだ、慣れないですけど…」
事の発端は先週の父様の帰宅パーティーの後だった。
食事も終わって久しぶりに父様と歓談をしていた時に急にミュウ先生がグラスをテーブルに叩きつけて俺に難癖をつけてきたのだ。
「フィィィィィルゥゥゥウゥ?あんらさあー、いつまで僕僕ですます言ってんのおおぉー?」
『僕僕ですます』のとこだけ物真似のつもりなのか甲高い声だったのが癪に障る。
「何ですか急に…?お酒の飲みすぎですよ」
「ほぉおおおら、またですです言ってるううぅぅぅ。何れ言うかさああ、男っぽくないにょよねえええ」
普段はここまで酔っぱらうことは珍しいのだが、それにしても何と言うか…ウザい。
「あんたも男ならねええ、オッス俺フィル!父ちゃんお帰り!母ちゃんメシ!…くらい言いなさいよねええ」
相変わらず甲高い声にピクピクとこめかみの血管が引きつるのを感じる。
「本当に何なんですか…。父様も何か言ってくださいよ!」
すると当の父様は顎に手を当ててうーんと何かを考えていた。
「父様…え?」
「そうよねえ。今まで気にしてなかったけど、フィルの言葉遣いって…」
気づくとお皿を運んでいたはずの母様も近くにきていた。
「やっぱり僕の影響なのかなあ」
「フィルはあなたのこと好きだものねえ。ほとんど家にいないくせに」
「く、くせにって…母さん?」
あれ…この流れは何だろう?
「第一あんらはねえぇ、女みらいなオズワルドと違ってニコラウスみたいにゃ顔してんだからあ、俺だぜ!って言ってる方が似合ってんのよお」
今度は『俺だぜ!』の部分だけやけに低い声だった。
「ニコラウスって…お祖父様のことですか?」
赤ん坊の頃に会ったきりだというので僕にはお祖父様の記憶はない。居間に飾られている若い頃の肖像画でしか顔を見たことがないが、確かに父様とはあまり似ていないと思う。
そして誤解しないでもらいたいが別にお祖父様は亡くなっている訳ではなく、このオストヴルグ家では跡継ぎ、つまり男の孫が生まれたら家督を息子に渡して隠居する。というしきたりがあるのだ。
いつからそうなったのかは知らないが、父様も自分の祖父、僕のひいお祖父様のことは肖像画でしか顔を見たことがないと言っていた。
「確かに小さい頃は私似かなとも思ったけど、よく見ればお義父様に似てきたわねえ」
「ほれ見なしゃいフィル。ほりゃ、俺だぜって言ってみなさいよお。ほりゃほらあ」
「もう…ミュウ先生には付き合ってられません。水でも飲んで寝てくださいよ、もう…」
「いや…確かにそろそろ言葉遣いを変えても良いかもしれないね」
「はっ!?…あ、いや、何を言ってるんですか父様?」
まさか父様から出るとは思っていなかった言葉に思わず声が上ずる。
「フィルももうこの年だしね。いや、別に僕たちの前でそういう喋り方なのは構わないんだけどね」
「そうねえ。これから見習い騎士団に行くにしろ、学校に行くにしろ、ねえ?」
「えっ…え?」
「敬語を止めろと言っているんじゃなくてね。もっと時と場所に応じた使い分けができるようにしないとってことだね」
「そうね、同年代の子供や街の人たちにも僕ですますって言ってたらちょっと頼りなく見えるかもね」
母様も『僕ですます』と言ったが声の調子は変わらなかったので、やはりミュウ先生のは物真似のつもりだったんだろう。腹立つ。
「ふっ、ふふっ、ふふふふふふ」
ミュウ先生の不気味な笑い声に恐る恐る振り返る。
「しゃっそくあしらから言葉遣いも見るかりゃねえ。ふふっ、ふふふふふ…」
こんな呂律も回ってない人に言葉遣いを教わっていくかと思うと不安しか感じないが、ミュウ先生はしてやったりと不気味な笑い声を残しながら自室へとふらふら帰っていったのだった。
「でもそっちの特訓の成果もでてるわね~。父さんとはまた違って素敵よ~」
「だからからかわないでくださいよ…」
「本当なのにい…。ねえ、ところで、さっきの魔法だけど」
来た。木に引っかかったマリーの帽子を取るために使った足場を作った魔法のことだ。
「えっと、あれはですね」
「私も父さん含めて風の魔法はたくさん見てきたけど、あんな使い方知らないの。ねえ、どうやったの?」
「その、魔力で空気をですね。こう…ギュッと固める感じで、その、空中に足場をですね」
両手で挟むようなジェスチャーで説明する。
「うーん…こうかしら」
目には見えないが母様も見様見真似で魔力を出して同じことをやっているようだ。やがて両手でスカートを摘まむと「えいっ」と前方にジャンプした。
「あらっ、ダメね」
一瞬地面に着地する前に母様の体が空中でガクッと止まったかに見えたが、そのまま体を支えることはできずに着地した。
「足場にできるのはほんの一瞬だけですし、他にも背中を風で押したり色々工夫してるんですよ」
「随分複雑なのねえ。今の私じゃちょっと無理かしら」
魔力の量は20代前半頃をピークに衰えていき、30歳頃を境に目に見える勢いで減っていく。老人になっても完全になくなる訳ではないが、風の魔法ならそよ風を起こすくらいにまで衰えてしまう。
母様ももう今年で32歳だから確かに昔のようにはいかないだろう。
父様も30歳になるはずだが、未だに魔力で劣るはずの若い世代に団長の座を譲らないというのはやはり経験や素質の差なのだろうか。
「えーと、それでですね…」
「大丈夫よ。父さんにもミュウ先生にも内緒、でしょ?」
さっきの魔法は来たるべきに備えてミュウ先生にもバレないようにひっそりと練習したものなのだ。
「はい、ありがとうございます」
その後2人で市場を回って屋敷に戻る頃にはすっかり日が暮れかけていた。
両腕に大量の荷物を持ちながら登る坂は結構くるものがあるので、正直こういう時には従者を雇えば良いのにと思わずにはいられない。いや、俺は雇う。
(だけど)
後ろを振り返る。薄暗い景色にポツポツと灯り始めている燭台の明かり。
今日出会った老婆と少女を思い出す。あの人たちもこの明かりの中のどこかにいるのだろう。
(この景色はやっぱり悪くない)
「フィル~?早く帰りましょうよう」
少し進んだ先で母様が立ち止まっている。
「すみません、母様」
そして再び振り返ると、屋敷へと続く坂を早足で登り始めた。