最後に読む本
一 ラスト・リーディング現象
人間の脳は、死ぬ瞬間に本を読む。
発見したのは、二十二世紀初頭の脳科学者、リー・ウェンシュウだ。臨終時の脳波を高精度スキャンしたところ、死の直前0.8秒に、言語野と視覚野の両方が同時に活性化することが分かった。パターンを解析すると——文字を読んでいた。
映像ではない。音楽でもない。文字だ。
脳が最後に処理するのは、人生で読んだ何かの「本」の記憶だった。リーはこれを「ラスト・リーディング現象」と名づけた。走馬灯のように人生が駆け巡る——というのは文学的な誇張で、実際の脳はもっと地味なことをしていた。本を、読み返していた。
——なぜ本なのか。
リーの仮説はこうだ。脳の最後の電気信号は、最も安定した記憶パターンに帰着する。言語記憶は映像記憶より構造化されており、長期保存に向いている。つまり、本は「脳の最後の避難所」だ。混沌とした臨終の脳が、最後にすがりつく秩序ある情報体——それが、かつて読んだ一冊の本。
論文は学会で絶賛された。同時に、巨大な問いが生まれた。
——人間は、最後にどんな本を読むのか。
二 ミナミ・ケイの研究
その問いに取り憑かれたのが、私だ。
ミナミ・ケイ。三十四歳。神経臨終学研究所の研究員。——「神経臨終学」という学問があること自体、たいていの人は知らない。合コンで専門を聞かれて「脳が死ぬ瞬間の研究をしています」と言ったら、場が凍った。以来、「脳科学です」とだけ言うことにしている。
私の研究テーマは「ラスト・リーディングの統計的分析」。要するに、世界中の死者の「最後に読んだ本」を集めて、ランキングを作ること。
不謹慎だと言われた。何度も。
だが、考えてみてほしい。人間が死ぬ瞬間に、人生のあらゆる本の中から「これだ」と脳が選ぶ一冊。——それは究極のブックレビューだ。評価者は死にゆく人間の脳で、採点基準は「最も脳に刻まれた一冊」。嘘がつけない。見栄も張れない。流行も関係ない。脳が、本気で選ぶ一冊。
これを調べずに、何を調べるというのだ。
三 十万件のデータ
世界中の協力病院からデータを集めた。
臨終時の脳波スキャンが普及してから二十年。蓄積されたデータは百万件を超えるが、そのうち「ラスト・リーディング」が明確にテキストとして復元できたのは約十万件。残りは断片的すぎて判読不能だった。
十万件。統計的には十分すぎるサンプルだ。
私はまず、仮説を立てた。
——最も多い「最後の一冊」は、聖典(聖書、クルアーン、仏典など)だろう。人生の最後に宗教的な安寧を求めるのは自然だ。次に古典文学。シェイクスピアとか、夏目漱石とか。そして「人生を変えた一冊」系——自己啓発書やビジネス書が来るかもしれない。あるいは、哲学書。死を前にして、存在の意味を問い直す——。
結果は、全て外れた。
全て。
十万件のラスト・リーディングを集計した結果——
1位は、「タイトル不明・著者不明の絵本」だった。
割合は、38.2%。
圧倒的な1位だ。
四 タイトルのない本
最初はエラーだと思った。
テキスト復元に失敗しているだけではないか。脳波の解析精度が足りないのではないか。——何度もフィルターをかけ直し、ノイズを除去し、パターンマッチングのアルゴリズムを更新した。
結果は変わらなかった。
38.2%の人間が、死の瞬間に、タイトルも著者も覚えていない絵本を読んでいる。
復元されたテキストの断片を並べてみた。
「むかしむかし」「おおきなおおきな」「おひさまが」「おやすみ」「またあした」——
内容はバラバラだ。統一されたテキストではない。数十種類、あるいは数百種類の異なる絵本が混在している。共通しているのは、どれも幼児向けの極めて簡易な文章であること。そして——被験者本人が、タイトルも著者も覚えていないこと。
脳は、忘れたはずの本を、読み返していた。
聖書でも、シェイクスピアでも、人生を変えたビジネス書でもなく。
——小さい頃に読んだ、名前も思い出せない絵本を。
私は研究室の壁に結果を貼り出した。同僚のタグチが見て首をかしげた。
「……絵本? ミナミさん、本当に?」
「本当に」
「なんで? 死ぬ瞬間に絵本を?」
「分からない。だから調べている」
「聖書が来ると思ってたんでしょう?」
「はい。もしくはプルーストかカフカあたりが——」
「絵本かあ」
タグチが腕を組んだ。
「……そういえば、俺も覚えてないな。子供の頃に読んでもらった絵本のタイトル。でも——なんか、あったことは覚えてる」
「それです」
「何が?」
「それが、38.2%の正体です。——『あったことは覚えているが、何だったかは覚えていない本』」。
五 二次データ
私は研究の方向を変えた。
従来の解析アルゴリズムはテキストの復元に特化していた。テキスト以外の脳活動——聴覚野や体性感覚野の反応——は「臨終時の環境ノイズ」や「脳の混線」として切り捨てられていたのだ。私はあえて、そのノイズを再解析した。ラスト・リーディング中、言語野と視覚野の他に、どの領域が活性化しているかを調べるために。
結果は——聴覚野だった。
ラスト・リーディングで絵本を「読んでいる」被験者の脳は、言語野と視覚野に加えて、聴覚野が強く反応していた。これは他の本(聖書、小説、論文)では見られないパターンだ。
絵本を読んでいる脳は、同時に何かを聴いている。
何を?
——声だ。
脳波パターンを音声解析にかけると、ヒトの声のスペクトルが検出された。特定の個人の声。低い声と高い声が混在している。男性と女性。——父親と母親の声だ。
推定される時期は——被験者が三歳から六歳の頃。
そこまで解析した時、私の手が止まった。
38.2%の人間は、死の瞬間に、「タイトルも著者も覚えていない絵本」を読んでいたのではない。
「読んでもらった声」を聴いていたのだ。
本を読み返していたのではない。声を聴き返していた。
膝の上に座っていた夜。ページをめくる手の温度。少しだけ眠かったこと。でも、もう一冊読んでほしくて、「もういっかい」と言ったこと。
脳は覚えていた。タイトルは忘れた。内容も忘れた。著者の名前なんか、最初から知らなかった。
でも——声だけは、覚えていた。
六 論文
論文を書いた。
タイトルは『ラスト・リーディング現象における聴覚記憶の優位性——臨終時脳波の多領域活性化パターンに関する統計的研究』。
長い。学術論文のタイトルはいつも長い。
査読に出した。三人の査読者のうち、一人が厳しいコメントを返してきた。
『本研究の結論——「死の瞬間に脳が最も強く保持するのは、幼少期の読み聞かせの声である」——は、統計的に有意であることは認めるが、科学的説明が不十分である。なぜ声なのか。なぜ絵本なのか。メカニズムの仮説を提示せよ』
正しい指摘だ。科学論文としては、メカニズムの説明が必要だ。
だが——。
私は返信を書いた。
「極限状態における原初的愛着記憶への退行現象であり、幼少期の読み聞かせ体験が最も安定した聴覚-言語統合パターンとして長期記憶に刻まれるため」という、もっともらしい仮説をでっち上げた。査読を通すには、こういう建前が必要だ。
だが、返信の最後にこう書き添え、さらに改訂した論文の末尾にも追記した。
『なお、追加のデータを一つ提示します。
聴覚野の活性化パターンを詳細に解析したところ、被験者の脳は声を「聴いて」いるだけでなく、「応答して」いました。すなわち、ブローカ野(発話中枢)にも微弱な活性が検出されています。
被験者は、読み聞かせの声に返事をしています。
90歳の男性の脳が、「もういっかい」と言おうとしているスペクトルが、事実として検出されています。
なぜ声なのか。なぜ絵本なのか。——本論文ではメカニズムの仮説を上記の通り提示しましたが、正直に申し上げれば、データの前で私が感じたのは、理論ではなく納得でした。人間の脳は、最後に帰る場所を知っている。科学者として不適切な表現であることは承知しています。しかし、データはそう言っています』
査読者は、論文のこの非科学的な段落の削除を求めなかった。
論文は掲載された。
七 反響
論文は、予想外の反響を呼んだ。
学術界ではなく、一般に広まった。「死ぬ瞬間に脳が読む本は、絵本だった」。ニュースになり、SNSで拡散され、書店の絵本コーナーの売上が世界中で跳ね上がった。
出版社がこぞって「最後に読まれる絵本」を作ろうとした。「臨終推薦図書」なるジャンルが生まれかけた。——馬鹿げている。ポイントはそこじゃない。
テレビのインタビューで聞かれた。
「ミナミ先生、では、どんな絵本を読んでおけば『最後の一冊』になるのでしょうか?」
「それは——質問が逆です」
「逆?」
「どんな絵本を読むかは、たぶん関係ない。どの本だったかは、皆さん忘れているんですから。——大事なのは、誰が読んでくれたか、です」
キャスターが黙った。
「脳が覚えているのは文字ではありません。声です。ページをめくる音です。隣にいた人の体温です。——その本の内容は忘れても、読んでもらった時間は脳の一番深いところに残る。死ぬ瞬間に、脳はそこに帰るんです」
「……先生は、ご自身の最後の一冊は何だと思いますか」
私は少し考えた。
「覚えていません。——でも、母の膝の上で、何か読んでもらったことは覚えています。冬で、こたつがあって、みかんの匂いがしました。タイトルは覚えていません。たぶん一生思い出せない」
「それが、先生の最後の一冊になる?」
「なるかもしれません。——なればいいな、と思います」
八 母
テレビ出演のあと、母に電話をかけた。
母は七十二歳。実家で一人暮らし。元気だが、最近、物忘れが増えたと言っている。
「お母さん。一つ聞いていい?」
「なあに」
「私が小さかった頃、絵本を読んでくれたよね。何を読んでくれたか、覚えてる?」
電話の向こうで、母が笑った。
「覚えてないわよ、そんな昔のこと。——あんたが『もういっかい、もういっかい』ってうるさかったのは覚えてるけど」
「何の本だったか——」
「さあ。わざわざ図書館まで行って、紙の絵本を借りてきたのよ。電子書籍じゃ味気ないでしょう。あんたが気に入ったやつを、何度も何度も。表紙がボロボロになるまで。——何だったかしらね。動物の話だったような気もするし、お月さまの話だったような気もするし」
「……覚えてないんだ」
「覚えてないわよ。でもね、ケイ」
「うん」
「あんたの重さは覚えてる。膝の上のね。五歳くらいの時がちょうどよかったの。——軽すぎず重すぎず。おばあちゃんの形見のこたつを引っ張り出してね、みかん食べながら。あんたは絵本のほうを見てたけど、お母さんはあんたの頭のてっぺんを見てたの。つむじがね、二つあるのよ。知ってた?」
「……知ってた」
「そう。——あれが良かったなあ。何の本を読んだかは忘れたけど、あの時間は良かった」
電話を切った。
研究室の窓から空を見た。——なんでもない空だ。
査読者への返信に書けなかった仮説が、一つある。
——なぜ声なのか。なぜ絵本なのか。
たぶん、それが人間が最初に「自分のためだけに」与えられた時間だからだ。
誰も採点しない。テストにも出ない。就職に有利にもならない。タイトルを覚える必要もない。ただ膝の上に座って、声を聴いて、ページがめくれるのを見ている。
それが読書の原風景で、脳はそれを——生涯の終わりに、もう一度読みたがる。
読みたいのではない。聴きたいのだ。
「もういっかい」と、言いたいのだ。
九 最後の0.3%
一つだけ、論文に書かなかったデータがある。
十万件のラスト・リーディングの中に、38.2%の「絵本」に入らなかった残りの61.8%がある。聖書、小説、論文、詩集、漫画、雑誌、教科書、レシピ本——さまざまだ。
その中に、全体の0.3%にあたる——三百件だけ——不思議なデータがあった。
テキストが未知のものだった。過去に出版された、いかなる書籍とも一致しない文章。
解析すると、それは被験者本人がかつて、自分の子供に絵本を読み聞かせていた際、アドリブで作り変えた話だった。
ページをめくりながら、面倒くさくなって途中から適当に話を変えた父親。「それで王様はカレーを食べましたとさ、おしまい」。——子供が笑って、「違うよ!」と言った夜。
脳は、その「正しくない本」を、最後に読んでいた。
世界のどこにも出版されていない。著者は疲れた父親。読者は一人だけ。ISBNも、レビューも、星の数もない。
——でも、それが「最後の一冊」だった。
本は、紙とインクでできているのではない。
声と、温度と、膝の上の重さでできている。
タイトルは忘れていい。著者の名前も。ページ数も、あらすじも、結末も。
脳は全部忘れる。
——声だけを、覚えている。
(完)
お読みいただきありがとうございます。
ありがたいことに、以前書いた別の話で「人生で一番感動した」という趣旨の感想をいただいたことがありました。お世辞かもしれないけれど、とても嬉しかった。
それと同時に、ふと思ったんです。自分が人生で一番感動した本は、なんだろう、と。
でも、なかなか浮かばない。
ある日、家で古い本を整理していたら、子供の頃に読んだ本がたくさん出てきました。それを眺めているうちに、読み聞かせてもらったことを思い出した。確かに、読んでもらった。それは覚えている。
でも、それがどの本だったかは思い出せない。目の前にある本のどれかなのか、あるいは、ここにはない本なのか。そこまでは思い出せなかった。
でも、「読んでもらったこと」だけは、確かに覚えている。
それが、この話を作るきっかけでした。
死ぬ瞬間に「走馬灯」が見える、という話はよくあります。でも、もし走馬灯の代わりに「本」を読んでいたら?——そう考えた時に、この物語の形が見えました。
本を読むことは、文字を目で追うことではありません。少なくとも、最初の読書は。誰かの膝の上で、誰かの声で、ページがめくられるのをぼんやり見つめている時間——あれが、きっと人間と「本」の最初の出会いです。
タイトルは忘れていい。内容も忘れていい。でも、あの声と、あの温度だけは——覚えていてほしい。そして、もし今、誰かに絵本を読んであげる立場の方がいらっしゃったら、どうかその時間を大切にしてください。読んでいる本の内容より、あなたの声のほうが、ずっと長く残ります。
☆評価・ブックマーク・感想——どれか一つでも、ものすごく励みになります。
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