三月六日 6
本屋の立ち読み帰りで、七時より少し早めに俺はリンドウに到着した。ガラス越しの店内にはすでに明かりが灯っていて、ガヤガヤと話し声も外に漏れている。
すでに日は落ち、リンドウのある通りには街灯が灯っていた。柔らかく発光する通りを抜けて。暖簾をくぐり、ガララと扉を開ける。
「あぁ、タカっち! ちょうどよかった。洗い物お願い。あ、いらっしゃいませっ!」
元気のいい声で接客しに行った茜さんを見送ると、邪魔にならないように入り口から離れ、素早く洗い場に行く。うわ、ごっちゃりだ…今日は相当客入りがいい。
カウンターの奥にある舞台裏、いわゆる洗い場だが、そこにはいつも以上の量のお皿が洗われるのを今か今かと待機していた。調理場では接客から戻った茜さんが、中小企業の流れ作業を連想させる速さで皿に料理を盛り付け、五つのコンロをそれぞれ同時使用している。どうやら昼に用意しておいた分はもうなくなっているらしい。
「手伝いましょうかぁ?」
「いい。まずそっちの洗い物を片付けて。どんどん来るよ」
言いながら、茜さんは三十枚ほど重なった皿をドンと台の上に置く。そして指差すのは、宴会でもしたのかと思われるくらいに食べ物やらグラスやらが散乱したテーブルだった。
「うへぇ、確かに…」
茜さんはその後は声もかけずにすぐに調理場へ戻り、速いテンポの包丁の音を響かせる。あっという間にキャベツ一玉千切りにしたかと思ったら、水で軽く洗っておいた漬物を切り、包丁を洗うのが面倒くさいらしく、その包丁で煮物をひっくり返す。てきぱきとし過ぎていて、それぞれの行動が早送りされているみたいに見えた。
「ふぅ」
皿を一枚一枚丁寧に洗いながら、店のテーブルを見回す。前々から思っていたんだけども、従業員二人にこのリンドウの仕事場は広過ぎる。それにしても、今日のように「ひしめく」ほどお客が入るのは久しぶりだ。
「はい茜さん、お皿」
「ありがとう! ついでに、これ洗っといて!」
十枚渡すと十五枚返ってくる。何だかエンドレスループを見ているようだ。
「タカっち、小皿四枚紅葉柄で!」
「ちょっと待ってください、まだ拭いてないです! あー、あー、あー…んんぅ…よし! はい!」
「四番と五番テーブル片付けといて!」
「茜さん一番近いんだからお願いしますよ! 流しにもう皿が入りません!」
「ぁあ~茜ちゃん、ぬか漬けの盛り合わせこっちに二皿頼むよぉ」
「だぁぁああああ――もうっ! 疋田さぁん! 何人か連れてきて、手伝ってください!」
半狂乱になる茜さん。「はぁ~い」と、疋田さんは言われた通りに何人か連れてくると、それぞれが皿を運び、注文を取り始める。こんな風に、あまりに忙しい時は疋田さんなどお客がウェイターをしたりする。地元の力に、素直に感謝だ。さすがに厨房は任せられないけれど。ていうか、そんなやり方でいいのかといつも思う。
そんなこんなで何とか戦場をかいくぐり、夜中の二時頃ようやく最後の客らしい客が出て行った。机に突っ伏す茜さんと俺、それを囲むように協力してくれた三人のご老人。今頃になって、三人は飲み食いを再開する。
「いやいやぁ、茜ちゃんお疲れ様」
「すみません疋田さん。いてくれて助かりました。タカっちが後二人か三人いてくれたならもうちょっとは楽なんですけど」
「…だからいつも俺以外にも雇った方がいいって言ってるじゃないですか。茜さん、少しは学習してくださいよね」
正直だめだと思う。店っていうものの在り方として。
「あのね、私とタカっちの愛の巣に他の奴等を土足であげさせるかっての。来ても即刻叩き出すから」
「そうだねぇ~やっぱり見慣れた人の方がこっちも安心するものねぇ」
勝手な事を言ってる二人は放って、俺は手伝ってくれた残り二人の老人のお酌をする。
「おお、ありがとぉ隆史君」
「いえいえ、ささどうぞ」
トックリを子供を抱くように持って、二人が飲み終わるのを待つ。
空になると注ぐ。何でもない世間話。昔の時代の話。故郷ネタが尽きてきたかと感じれば、俺からネタを振る。その繰り返し。
忙しい時も…こんな時も、きっと俺は、幸せだと感じているんだと思う。抱くトックリの暖かさが、体に染みる。笑い声。…眠らない居酒屋、リンドウ。もしかしたら、俺ってこういう職業が向いているのかもしれない。誰かを喜ばせる事、いや…誰かが笑ってくれる事が、好きなのかもしれない。
何だか、幸せな気持ちになる。ここに居ていいんだと、実感できる。
今朝からの不安が嘘のようだ。心から洗われる…そんな空間。爺さん婆さん、後サラリーマン達の相手ばかりだけど、年の差なんか関係ない。茜さんの料理もおいしいんだけど、そんな事も実はどうでもいいんだ。
ここに、笑いに来ているんだ。笑えないほど疲れているならば、それを俺達やこの居酒屋の雰囲気で癒してやる。心から相手をしてやる。…いや、し合うんだ。
みんな、社会の荒波でくたびれている。老若男女訳隔てなく。死にたくなるのも、その疲れが消えてくれないからだ。洗い流せないなら、いつまでも癒されない苦痛がどんどん加算されていくだけだ。
だから、俺は幸せを感じるんだと思う。相手を癒すと同時に、俺も癒されている。
「あ、そうだ…はい、これ今週のお給料」
手渡された茶色の封筒はいつもより薄かった。基本的にリンドウは週給だ。
いつもはもうちょっとジャラジャラとしているはずなのに、と疑問の念を隠せないほど、今日はかなり軽い。俺は首を傾げ、わざと茜さんに見せ付けるように振った。
「何か薄くないですか?」
「うふふ、まぁ開けてみてよ」
中を覗いてみる。
「お、おおおおおおおおっ、諭吉じゃないですか!?」
久々に見た一万円札(しかも二枚)に思わず声が高まった。
「あのさ、もう遅いから静かにね」
なだめる茜さん。
「今日はね、だいぶお客が入ってくれたから…ボーナスって事で」
それでも普段の四倍はあった。でも、そんな大金でも痛くないほどに客は入っていたけど。あぁこんな事なら毎日満員御礼ならいいのに…一瞬そう思った。
「じゃあ、俺はもう遅いから失礼します。もう遅いですしね」
「そうだね…。疋田さん達もそろそろ、いい? 何かいるんならタッパーに詰めますけど」
「いやいいよ…あたしらも失礼するよ」
どっこらせ、と立ち上がるご老人達。口々に「じゃあね」「おやすみ」と言って店を後にしていき、俺と茜さんで見送る。
「やぁっと終わった…っ! くぁあ~…」
「コンプリートですか」
「いやいや今日は久々に…大軍だったね。私のぬか漬けに群がるように来たよ」
「その表現は何となく嫌ですね…昆虫の類じゃないんだから」
「ぬか漬けに群がる昆虫って何なの? …とにかく、ぁあああ~きついっ、寝よ」
暖簾を引きずるように店内に持っていく茜さんに続いて、俺も。
「じゃあ僕、着替えたら帰ります」
「ん。お疲れ様」
そう言うと茜さんはそのまま二階の自室へ行く。そのまま寝てしまうつもりだ…。いつも俺に戸締りさせるんだから…。
「ま、いいか」
そんなわずらいもまた、いいものだ。…そういう事にしておこう。
リンドウの戸締りを終えた後、そろそろと近づいてくる眠気にさいなまれながらも、しっかりとした足取りで帰路に着いた。午前三時。人家も明かりを消し、辺りはもうひっそりと闇に満ちていた。
雲一つない夜空には、まだぎりぎり丸く見える月が浮かんでいた。光度は劣るが、北極星もよく見える。眼でたどり、北斗七星を描いた。画用紙に絵を描くような自然さで、何気なく。
子供の頃からそんな遊びを繰り返していた。家に出来るだけ帰りたくなかった俺もそれなりに常識があって、夜街を放浪するのは好まなかった。変わり者と言われればそれまでだが、他人が何を言おうが知った事じゃない。
そんないつもの夜を、点々と白く光る蛍光灯の明かりをたどって家へ歩いていた。
「あれ、ここから電灯が消えてら」
一週間前くらいから調子の悪くなった外灯。わずかに点滅してはいるものの、調子の悪さがウイルスが伝染するみたいに広がり、事ごとく消えそうになっている。しかし、暗闇に慣れていた目には対して問題なかった。
暗闇を歩く。
ふいに。
「ん…?」
わずかに、アスファルトが擦られる靴音が響いた。
虫の音も聞こえない。風の音も聞こえない。
俺とその足音だけ。しかも規則正しく、並び、続く。
「…あ」
そうして進んでいく暗闇の向こうに人影が見えた。
どうやら立ち尽くしているようだ…こちらに向かって。ただ、微動だにしないその姿は見覚えがあった。
「お前、また…」
その人影は昨日出会った少女、幽そのままだった。昨日と何一つ変わった所はなく、白いワンピース姿で立ち尽くしている。目的のなさそうな視点が徐々に俺に焦点を合わせてきた。
「隆史」
またもや感情のないトーンで、静かに言う。
その言葉は本当に俺に向けての言葉なのかも疑わしい。ただ呟いているだけなのかもしれない。それくらい、幽の人としての存在感は感じられない。
「あの子のお母さんは、貴方が殺した」
その言葉に、なお進もうとする右足が金縛られたように感じた。
「……なっ、ふざけるな! 俺は、確かに自殺しようとしたが、人殺しにまで落ちぶれちゃいないぞ!」
何を言い出すかと思えば今度は、人を犯人呼ばわり。でも、彼女は続ける。
「貴方が殺した」
白ワンピースの少女は、先に言った言葉を繰り返した。俺の言葉なんか聞こえていないかのように。もしくはそれに答える必要もないかのように。
人形のように、淡々と続ける。
「殺してない。…絶対に!」
言い切った。たとえ死のうとしたとはいえ、無実の罪を着せられるのは嫌だからだった。しかもあんなに可愛い女の子の母親を殺しただなんて、嘘でも言われたくない。無差別なんてもってのほかだ。
「貴方が最後に投げ捨てた拳銃を、この町の誰かが拾った」
「……何で」
そこまで、知ってる?
一瞬耳を疑った。が、予想できていた内容だけに表面上の冷静さは保てた。
「貴方はあのまま、ただ立ち去ればよかった。だけど貴方は自殺から遠ざかった事で、死に恐れを抱いた。貴方は死から逃げた――そして銃を捨てた。だから、貴方の代わりにあの子のお母さんは死んだの」
…何、だと?
「何なんだよお前…!」
しかし、何も答えない。ワンピースも微動だにしない…!
「何でお前は俺の名前を知ってるんだ…! 何でお前はそれを教えるんだ…! 何でお前がそんな事を知ってるんだ! …何でお前は俺がバイトから帰る時、この道を通る事を知ってるんだよ!」
止められなくなって、追い詰められた獣のように吼えた。しかし少女はまったく動じる気配はない。
「場所は関係ないの」
幽は続けた。
「弾はまだ五発残ってる」
「五発…?」
まるで幽霊のようだった。もしかして、俺はコイツに取り憑かれたのか? …そんな錯覚をも感じてしまうほどに、少女の存在に飲み込まれている感触がする。
チリチリ、と脳内が不可視に騒ぐ。気を散らせるかのように、蛍光灯は怪しい点滅を繰り返していた。
「貴方がこれからどうするかは貴方の自由。この町の人が死んでいくのを、このまま眺めているのも面白いと思う。だけど」
「だけど、何だよ」
「銃を拾った人にとって、この町にいる誰かが標的。だから、貴方も狙われる事になる」
少しずつ風が出てきた。しかし、少女の衣服も髪も、動かない。彼女の口だけが唯一動いていた。
「はっ…バカらしい。逃げちまえばいいじゃないか。この町の、外へ。その拾った誰かの手の届かないところまで逃げちまえば、銃は構えられても弾は届かない」
「できない」
幽は即答した。
「じゃあ試してみるか!? せっかく思いとどまった命なんだ、たまたま拾った酔狂にみすみす殺されてたまるか!」
「できない」
それは断定だった。
まるで、未来(これから先)を知っているかのような口ぶりで。
なぜ、そんな事が言える? お前は、何なんだ―――?
「この世に『もしも』はないの」
くるりと身を翻した幽は、手を背中に組んでそのまま歩き出した。夜の散歩の途中だったかのような自然さで、彼女は立ち去っていく。
「……おいっ! コラ、待てよ!」
彼女は路地を曲がり、後を追う俺も三秒とたたずに曲がる。
「また、いない」
…立ち尽くす。
そこには蛍光灯が照らすゴミ溜めのような路地が、ただ黒々と続くばかりだった。
―――― 弾は残り五発 ΦΦΦΦΦ ――――