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三月十一日 3

 夕食は久上さんの強い推薦もあって、俺達はリンドウで漬物をつまむ事にした。病院に帰りが遅れる事を連絡した後そのまま表通り。いつの間にか、もう夜七時半になっていた。


「雨、降りそうだな。ちょうどいいって事か」


「車椅子だってこと忘れないでくださいね。急停止したら前に倒れちゃうんですから」


 憎まれ口を聞き流しながら見あげる空は、ミカンの汁とコンクリートが混ざり合ったような、薄気味悪い曇天だった。そういえば朝から曇っていたな…雨の前兆の花曇りみたい奴だろうか。それにもしかしたら本当に雨の予報でもあったのかもしれないし。


 久上さんの車椅子を押して通りに出る。が、


「あれ? ―――なんか」


 見慣れているはずの写真なのに、どこか昨日と違うような感じがしてならない。要素の微妙にちぐはぐな服装を見ているみたいに、しっくりとこない何かに、気づけば足を止めていた。


 目の前には車が渋滞して止まっている。渋滞している先に目をやれば交通整理している警察官が見えた。雨が降り出そうとしている今、迎えとして交通量が少し増えるのはおかしくない。だけど、何一つ不自然のない景色に見えない。渋滞してもおかしくないという理屈をわかっているからこそ、何でもない景色に違和感を覚えるからこそ、ことさらに気になる。


「冬見君」


「何で歩道側の一車線分が通行止めになってるんだ?」


 まるで今さっき通行止めになったかのような(・・・・・・・・・・・・・・・・・)この渋滞が、不自然さの理由のようだ。


「そうですね…でも冬見君。早く急ぎましょう? 雨が降っちゃいますよ」


 久上さんが言うも、すでにぽつぽつと、粒とは言えないくらいに細かい雨を顔肌が感じていた。普段なら気づかないくらいに小さい粒だ。妙に肌が敏感になってるらしい。

 そこはよく通る…バイトまでの暇な時間を潰すための、通り慣れてしまっている図書館への道への通りだった。


 駅前の飲み屋の一角。客として訪れた老人の通報によって駆けつけた六台のパトカーが表通りへの入り口をほぼ占拠していた。

 関係者以外の立ち入りを禁じるテープが張られ、野次馬がそれを覆うようにして群がっている。その野次馬を押しのけながら、山本はただでさえ冷静さを欠かせる冷や汗を呪った。さっきまで小雨だったのが少しずつ勢いを増し、空は急速に光を失っていく。それが、何かを暗示しているようで怖かったのだ。乱暴にテープをくぐると、


「や、山本刑事…、一カ月非番のはずでは…!? たしか署長にそう言われ――」


「やかましい! 僕に何か言う前に、この鬱陶しい野次馬らをどうにかしろ!」


 やや突き飛ばすように若い警官のそばを通り抜ける。山本は障害物の無くなった眼先に早足で向かった。


 雨がいつの間にか強く、全身を染み通さんばかりに濡らしていく。髪は水で額に張り付き、気持ち悪くて乱暴に拭うと、数本の白髪混じりの毛が手についた。死んだ蛇のようにも見えた。


「…ちっ!」


 否定するように顔を横に振り、嫌なビジョンを頭から排除する。すでに十分老体の体はすぐに息切れしてしまって、まともな思考をするには酸素が足り得ない…それにただでさえ最近山本は休養不足だった。走りながらも―――たとえあの時が偽りだったとしても、奥山と相棒として組んでいた一週間前が懐かしく思えた。


 この辺の飲み屋で唯一の和風、群がるのは夜に溶け込むような黒々とした警察官。近くのバーの住人が窓からこの店をのぞいているのが分かる。周りの店の明かりに誘われるようにして、山本はリンドウを目視した。


「吉…永、お前、来ていたのか」


 濡れるのも構わずリンドウの前で腕組、思案をしているらしい見慣れた男に声をかけた。しかし僅かに頷くのみ。それでは不足と感じたのか、やや遠慮がちに山本の方を向き、口を開いた。山本の絶望が見え隠れする表情を前にして、吉永は意を決したように、


「…中を見てくれ。目に焼きつけるくらいにな。事件の事を俺なりに調べて、ここ最近お前達がどういう状況にあったかは多少なりに理解しているつもりだ。だから、現場はそのままだ。お前と…あの冬見の坊主に見せるために」


 山本の絶望感は口へと伝わり、言葉を紡がずとも唇が引きつけを起こしたように震える。そして一瞬の忘我の後、我を取り戻した山本は目前の店の敷居を中に跨いでいった。吉永はその背中を見送ると、携帯電話と取り出し、


「今山本が入って行きました。そちらはどうですか? そっちの方の令状はもう届くと思うのですが」


 そして疲れた表情で空を向く。雨粒など気にしない。まるで雨、雷の彩る曇天の暗闇に何かしらのメッセージが隠されているかのように。友人を見送った眼はもう、事件の結末を探していた。







「すみません! 通してください!」


 警官が邪魔をして通ることができない。顔をぶん殴ってでも進んでいきたかったが、久上さんの事を考えると、できない。最後まで久上さんの面倒を見なくては。


 雨が痛い。久上さんが風邪をひかないように、せめて久上さんだけでも屋内に対比させておきたかった。それでも行かないといけない。なぜならこの通りの先にはリンドウがある。店はいくつもある、もしかしたら昨日のように道端で殺されているのかもしれない。でも、リンドウである可能性がゼロというわけじゃないのなら、少しでも早くその事実を確認しなくては気が済まなかった。


 ――雷鳴が、夜を照らした。


 俺は急転換して表通りへ戻る。がたがたと少し速いスピードなので久上さんが振動に大きく揺れた。気遣う事を忘れている俺の心情を察してなのか、何も言わない。今だけはそれがありがたかった。


 表通りに出て、左に曲がり、またすぐに左へ。つまり店の群の一つ隣の道に入ったわけだ。雨水が体に染み入るのを感じながら少し進んで、俺は適当な家のインターホンを押す。パトカーがうろうろしている時にのんびりと安眠できる人間がどこにいるだろうか。ましてやバーであり、夜からその営業を開始する店舗は、常に客を迎え入れる事ができる状態だった。


 出てきた年寄りの店主は驚いたように俺達を見る。無駄な会話をしたくなかった俺は、店の中を通らせてください、あと、しばらくの間だけでいいので彼女をここに、とお願いした。躊躇しながらも了承してくれ、俺は久上さんを車椅子ごとその店の玄関に残すと、その店の反対側のドアから出る。警官の奇異の目を振り切るようにして、リンドウに向かった。


 ――雨が痛かった。一粒一粒が、重い鉛玉のように感じる。雲は時折目を焼くほどの光を放つ。雷鳴が窓を割りそうなほどに鳴り響いていた。まだあまり水を吸っていないはずの服さえ必要以上に重く感じる。本当に本当に、今日は、嫌な予感がして。


 リンドウの前には、警察が帯をなして現場検証をしている。店のちょうど正面に当たるところには、山本刑事と同じ匂いの男が立っていた。彼は俺に気づくと、ゆっくりと歩み寄ってきた。傘もささずに何をしているんだろうか。


「冬見君…だね? 待っていた。山本刑事はもう中にいる。被害者も…そのままに」


「被害者って…」


「さぁ、中へ」


 俺の言葉を遮るように、または俺との会話を避けるように俺を店の中へ追いやる。入りざま振り返ると、携帯電話を耳元に当てていた。誰かと会話を始めたようだ。

「今、冬見君がリンドウに入りました。すぐに応援に向かいます」


 店の中は外に比べあまりに明るすぎて、一瞬太陽をみた時のように眩んだ。真っ白に満たされた視界に、生気の宿るがごとく徐々に色が伴ってくる。見慣れた店の内部、仕込み途中の料理、カウンターに寝かされたままの暖簾、しゃがみこんでいる、山本刑事らしい男の背中。


「来ましたか冬見君。吉永は…君を呼ぶ事ができなかったのに。自分から来るなんて、血ですかねやっぱり」


 背中で語るのはあきらめたような呟き。冷静な思考はとうに失っていた俺には、よく意味がわからなかった。言葉の意図を探ってみた数秒をきっかけに、何度も踏み入れているはずの店内に何かを警戒しながら進んでいっている…そんな自分がいる事に気づいた。


 怖がっている…ああ、怖がってるとも。


 そして、絶句した。


「――とうとう終わったようです。冬見君、これで、終わったんですよ」


 山本刑事はその体勢のまま振り向けるだけ首を動かして、言う。


「…どう、して、何で、はは、は、だって何も関係ないじゃないですか」


 山本刑事の前にひれ伏すようにして倒れている茜さん(遺体)は、赤に浸ったまま。


 ――六発目の弾丸が、無慈悲にその額を貫いていた。


 あぁ――…くそ。雨が、うる、さい…―――。







 彼女は、俺の初恋の人だったのかもしれない。もしかしたらその逆だってありえる。母さんが死んで、初めて会った時から。いつだって一緒にいた。バイトと称した同棲もしていた。「愛の巣」とまで言って、他のバイトを雇わなかったことも頷ける。


 親父――俺、やっぱりあんたに似たのかもしれない。


 血も涙もないのかもしれない。


 こんなにも悔しいのに、こんなにも悲しいのに、涙なんか一滴も出ない。


 もう、枯れてしまったのかも。


 そう感じてしまうくらいに、表面の顔の冷やかさを鼻で笑うかのように、頭は事件の最初から最後までを暴走した速度で走馬灯のように回想していて――。







「冬見君…今すぐ元気を出してください、とは言いませんから、せめて――え?」


 山本は突然の隆史の行動に素っ頓狂な声を上げた。彼はしゃがみこむやいなや、店の地面をきょろきょろと見始めたのである。そして、隆史の体がびくりと動く。見開いた眼は何かに集中している時の、同僚としての冬見を彷彿とさせた。


「電話…リダイヤル…!」


 隆史は血走った眼で、あろうことか長年一緒にいた家族同様の死体をまたいで、カウンター後ろの電話のもとに行く。すると、ポケットからハンカチを取り出し、リダイヤルボタンを押した。


「冬見君、ちょっと、何を」


「黙っててください。――あと、今から事件の被害者の…なんて言うんでしたっけ? ええと、死体検案調書? 山本刑事、持ってますよね?」


 受話器を耳元に当てながら、しかし瞼は下ろしたまま、瞑想のように言う。


「…どうも、夜遅くすみません。そちらは…そうですか、中央病院ですね?」


「中央病院…? 何でそんなとこから」


 しかしその瞬間、山本は冬見の言わんとしている事を察する。


 事件に、あらゆる意味で関わりの深い、神崎俊平。


 山本はリンドウから飛び出し、そこに立っている吉永に叫ぶように言う。


「神崎、俊平だ! 急いでくれ!」




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