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三月十一日 2

「さぁて、最初はどこに行くんだ? …お姫様」


「心にも思ってないくせに。…いいです。たっぷり奢ってもらいますから」


 普段では聞かないような意地悪を口にする久上さんの笑顔を見ていると、本当にそうしてもいいように思えた。なのに理性を保たせてくれるのは、バイト休み続きで金欠気味の財布のおかげだ。ちょっぴり悲しさが浮かんでくる事は否めないが、それでもいっか…考えたくない生活感より、今は車椅子の重みに心を寄せてしまう事にした。


 町中の屋台のクレープを買って、歩きながら食べた。イチゴチーズケーキと野菜サラダ味…もちろん久上さんはイチゴだ。俺はというと、もさもさと青い触感にちょっぴり後悔した。野菜不足を考えて買ったのに。慣れない事はするもんじゃないな。


「久上さんも半分食べなって。絶対に糖尿病になる」


「だから私は止めといた方がいいって言ったんです。…絶対そう言うと思ってました」


 しっかり俺の内心を悟った上での返答だ。く、悔しいっ、まるで俺という人間を知り尽くしているかのようなセリフだ。…だけど、全く言い返せない言い草なのに、なぜか、それでいいと思っている。彼女の声や横顔に、言い返す気力もそがれていたのかもしれない。


 今日の高校生の登校、サラリーマンの出勤ラッシュを終えた街中は、真昼だというのにどことなく殺風景だった。平日のこの時間帯では、せいぜい買い物の主婦や暇な大学生が関の山、カップルなんか全然見当たらない。


 …って何を意識してるんだ俺は。今日はデート、だけれども、俺達はそんな中じゃない。どうしようもなく共闘しているような、出られない密室で偶然居合わせた間柄と言ってもいい。それに何せ、俺は久上さんに借りがあるからここにいる―――こんな状況でデートみたいな事なんて、断ってもよかった。親父を殺した犯人を突きとめなくちゃいけないのに、何を楽しげに、クレープ片手に街を歩いて。


「そう言えばお昼まだですよね…そこの喫茶店でどうですか?」


 俺が押す車椅子の中から指差すのは、喫茶店と言うよりコーヒー専門のお店だった。マグカップが大きくて、「コーヒーはちびちび飲む」俺のイメージを粉々にするかのような、量や質に関して良心的な全国チェーン。でも少し高いし、そもそもあまりコーヒーをたしなまない俺には縁がなかった。


「スコーンが絶品なんです。あと、チョコレートクッキーもおいしいんですよ。大きなチョコが入ってて…」


 店内に入ると、すぐさま店員が近寄ってきた。ガラス越しに見ていたのだろうか。車椅子の客である久上さんとその連れである俺は、やや手厚く応対を受けて席に着く。

 ちらほらと巡回中のパトカーが往来する道路を流し見ていると、車椅子に座ったままの久上さんは少しむくれたように、


「もうっ、今日はせっかくのデートなんですから、窓の外より相手の顔を見てくださいよ。それとも何か、歩道に奇麗なお姉さんでもいたんですか?」


「悪かったよ…ちょっとな」


 久上さんはデートだと言い張っているが実質どうなんだろう。俺は…久上さんや自身の身の安全を考えながらコースを選んでいるし、道路をうろうろするパトカー、警察官らしき私服の人らにも注意を配っている。それに車椅子を押すなんて初めてだから、何かに引っ掛かって久上さんの体が前につんのめってしまわないように、内心冷や冷やしている。


 対する久上さんは本当に楽しげだ…この六日間で自分の母親、妹が殺されて、父と一人残された悲劇の女の子とは思えないくらいに笑っている。あまりに楽しそうだから、本当に楽しめているのかどうか不安になる。…今は遠い昔に思える。妹ともども、俺が病室を出るまで泣くのをこらえていた。だから、また無理をさせているんじゃないかと思うと言葉が出ない。言いようもない申し訳なさで心がいっぱいになってしまう。


 やがて注文を取りに来た店員に俺はブレンドコーヒー、彼女はクッキー全種とカフェオレを注文した。「クッキーを全種類お願いします」なんて注文の仕方、おそらくあの店員は生まれて初めて経験したに違いない。


 店員が席を離れてから…妙な沈黙が俺達を支配した。俺は視線をテーブルや窓に行き来させるだけだし、久上さんは久上さんで俺の胸元を見つめたまま物思いにふけっているようだった。やがて注文の品が席に届く。ミルクを入れてただでさえ甘ったるいようなカフェオレにガムシロップを垂らしながら久上さんはやっと口を開いた。


「冬見君は、気になってる人とかいないんですか?」


「気になる? …ああ、そう言う事か。どうだろうな。いるにはいるけどもう可能性はない…みたい。そんな感じの答えでいい?」


 俺は真っ先に茜さんの事を思っていた。あの、自分の気持ちをを押し殺した笑みは、これから先どんなことがあったって、忘れられるわけ、ない。


「それは…もしかして、…もしかしたらですけど、その人は私だったりします?」

 ちょうどコーヒーを口に流し込む最中だった俺は吹き出してしまいそうになった。コーヒーを口に含んだまま咳きこむ。久上さんは俺を気遣うどころか紙布巾を素早く広げてクッキーを守っている。きつく締めた唇の端から少し零れ、手の裾でそれをぬぐいながら、


「はぁっ? いくら久上さんでも、その質問は唐突過ぎるだろ…」


「だって、オブラートに包んで物を言うのは時間がかかりますから。相手がそれに気づいてくれなかったら不本意ですし」


 えらい言いようだ。最近になって…初めて会った時の久上さん像が少しずつ壊れ…いや剝がれていっている。あの病室にいた、天女と錯覚するかしないかの彼女はこんなにまで甘いもの好きで、血を分けた円ちゃんのようにお茶目だったんだ。


 でも…どうだろう。そんな彼女でもいいような気がする。久上さんは、久上さんなんだ。車から引きずり出し道路に横たわっている彼女に一目惚れして、そしてこれまでのどんな経緯があっても、なかったとしても、俺は彼女から離れていく機会は幾度となくあった。


「そうだな…」


 俺は意味深げに顎を撫でながら意地悪な目つきで言った。


「好きかもね、久上さんの事」


 ――その後、クッキーを吹き出してしまうという失態を犯し、激昂した彼女をなだめるのに苦労した事は言うまでもない。





 二人で一緒に街を回った。何か特別な事が起こったわけじゃないのに、全ての光景、彼女の仕草や俺の気持ち――その場その場で大切に収納されていく記憶の感触を感じた。


 楽しかった。茜さんや疋田さん、円ちゃんや今はもう和解したも同然の親父――たくさんの人の温かさよりもじんわりと、彼女との一時はこそばゆい熱を教えてくれた。


 彼女の横顔を見るたびに顔が火照ってくる気がする。心なしか、そんな彼女の頬も赤く染まっていた。季節はまだ寒い春。はたから見れば不自然なくらいに、嬉しさをかみ殺しているような薄い微笑で、俺と久上さんは街を見て回った。


 ――そう。いつの間にか警察やパトカーの存在すら忘れて。うちの家の近くにあった喫茶店で夕食を取った時も、車椅子だからやりにくいらしい…若干長すぎるような彼女のトイレもあっという間に感じた。そんな時ですら時計の針が進むのは早くて、久しぶりに酒でも飲もうかと気の緩みが抑えられなく思えるほどだった。


 ――そして最後の締めとして、俺達は港に向かった。「…人気のない所で座って、ゆっくり話がしたいですね」という彼女の提案は、まだ彼女と離れたくなかった俺にとっては助け舟のようなものに感じた。


 落陽が沈み込む海の果てに向かって、彼女の重み、車椅子を押す。波風が久上さんや俺の髪を優しく、時折強く撫でていって。街の喧騒は風下だからなのかあまり聞こえないように思えた。今は夕方、クラクションやエンジン音で本当にうるさいだろうに―――。


「静かですね、ここ」


「そう…だな。意外だ。こんなに街が近くにあるのに…本当に、静かだ」


 見えない壁で…そう、あの屋上で感じたような見えない壁で俺達と息づく街は隔たれているように思えた。でも屋上の時と違うのは…一人ではなく二人だという事だ。


 その違いは大きい。あれだけ大きく、巨大に見えた街の命が少しだけ小さくなったような。恐れすら感じた風も、車椅子のグリップの感触がそれを和らげてくれる。


 小さく、鳴くような波風の中で、聞こえないはずの久上さんの息遣いが聞こえる。


 彼女の一言一言に、体に感じるはずのない温かみが与えられている気がする。


 堤防の先っぽで海へと近づく歩みを止めた。空のオレンジは灰色に淀んでいて、熱はない。いつまでも揺らいだままの水面は、てらてらと空を反射しては凹凸を繰り返していた。 


 少し海際に強く押せば、彼女の体は海へと落ちてしまう。彼女の命のグリップをつかんでいる俺はある意味彼女の命を握っていて…そして守っているように思えた。銃なんかなくとも簡単に人は殺せてしまう。こんなところに二人きりで行くなんて、殺されても誰にも助けを呼べない。――信用していないと、そんな事は誰もできない。


 自分の命を、会ってから、たかが一週間経つか経たないかの青年に託せるものなのだろうか。ましてや、自分の命は今も狙われていて、いくら協力関係とは言え、裏をかいて俺が犯人だった――なんていう結末もあり得なくはないというのに。


「大学は…どこに行くつもりなんだ?」


 先の話がしたかった。話題が話題だけに、胸がちくりと痛むけれど。


「そう言えば、私卒業してたんでしたね」


 他人事のように言う。初めて事件があった日…母親が銃殺されたその日が、確かその日が彼女の卒業式だったな。


「おいおい、確かに色々な事があったけど、残った奴がちゃんと生きていけなきゃどうしようもないじゃないか。しっかりしてくれよ…これからは父親と二人きりなんだから」


 久上さんの背中に立ち尽くしている俺は、彼女のつむじを見つめる形で言う。でも何も答えてくれなかった。聞こえていないのか無視しているのか。この位置では瞳の動きでさえも知る術がなくて、だから、つい俺もつられて――海の果てを見つめるしかなかった。


「運命論って信じますか? 冬見君は」


「…何だいきなり。運命論…? あの、最初から最後まで人の人生は決まってるって言う事か」


 運命ね…二文字を咀嚼するように頭の中でイメージする。すると、全ての発端の屋上…そこに立つ、白いワンピースの少女、幽の姿が思い浮かんだ。


 ―――「死にたいなら、ちゃんとした死に場所をあげる」―――


 わからない。考えると不自然だ。例えば俺がここで自殺しようとするなら、一体誰がどうやって止めるというのだろうか。俺の決定は俺でしか覆せない。それは間違いないんだ。なのに、なぜ彼女が「ちゃんとした」死に場所を俺に与えられるんだ? そもそも「ちゃんとした」という定義すらあやふやだ。何がどうだったなら、俺にとって「ちゃんと」するんだろうか。


 矛盾している。俺が今すぐにでも自殺しようとすれば、そこは俺の自殺したい場所になる。なら、死に場所は彼女に与えられる必要もなければ、はずもない。俺が死にたい時に都合よく現れて銃殺する? それに俺は人に殺される事なんか望んじゃいないから、「死にたいなら殺してあげる」という結論も、俺が「死にたい」という条件に当てはまらない。




 あれ?



 おかしいぞ。問題はまだある。そして何で彼女は俺しか知らないはずの弾数をカウントできて、最近になって急に出てこなくなったのか。

 代わりに昨日は危険な目にあったが…あれが彼女の手口ならずいぶんと陰険な方法だと、閉口せざるを得ないが――。





「…信じないね。最初から最後まで運命なんかで決まるわけない。全部、個人の選択だろ」


 あり得ないと信じたかった。認めてしまえば―――それは。


「生きたいって思ってそう決めたのも俺自身なんだから、これからもそうありたいよ」

 流されたくないと。…自分の選んだ道を、自分の足で歩きたいと思う事。それが間違いだとは思いたくない。そうだからこそ、俺は幽に抗おうとしているんだし。


「私は結構信じてるんです。高校がキリスト系だったからかな。あ、別に宗教を信じてるわけじゃないんですよ? それはあくまでそういう学校だったというだけで。…でもちょっとくらいは関係あるのかも。神様は信じていないんですけど、運命は信じてるんです」


「まぁ…他人が何を信じたって、俺には関係ないからいいけど。で? たとえばどんな運命だよ」


「冬見君が自殺しようとして、それを幽っていう女の子が止めた事」


 …もう慣れたつもりだったのに。彼女の口がそれを発すると、心に深く楔が突き刺さるような自責の念が浮かぶ。

 完璧に吹っ切れているのか。そうだと言えば嘘になる。


「そのおかげで…久上さんは不幸になったんだってわかってる?」


 俺があのまま死んでさえいれば、五人の死者は出なかったかもしれない。幽さえ俺を止めなければ、誰も不幸になんてならなかったんだ。なる必要、なかったのに。


「私は、不幸なんてなってない。むしろ幸せになれるような予感さえしてる」


 俺に「今を認めてもいいんじゃないか」と昨日も言っていたけど。はたして彼女はあきらめてるのか達観してるのかとてつもないプラス思考なのか。


 でも、そんな風に罪を認めるなんて俺には一生無理なんじゃないだろうか。あの母さんに誓った日から心の奥底で守り続けていた父親を、死なせた。子供が十年貫き通した誓いだぞ? 死なせてしまった後味の悪さやはたせなかった事への責任感は無意識に重くて、しかも幼い頃の習慣めいたものにさえなっていたのだから、そんな簡単に責任感に薄くなるような考え方ができるわけがない。


「久上さんは…強いよ。親が死んだ日に、他人を察して泣くのを我慢することなんてできないよ普通。妹ともども、さ」


「気づいてたんですか」


「気づいてたさ」


 あの嗚咽を聞き、責任感は確かに強まっただろう。あの時はまだ俺の銃だと、俺のせいだとはわかってはいなかった。なのにすごく後味が悪かった。電車の踏切の所で助け、関わってしまった時から俺はすでに事件の関係者で、幸不幸も共有しなくてはならない…なんてまでは言わなくとも、少なくとも自分が聞いてしまったものへの強い同情があった。ともに母親を失ったという仲間意識が原因だろうか。一緒に暮らしていながら母親を助けられなかった、無意識に過去の自分と重ね合わせているんじゃないだろうか。それとも…。


「なんだ、なら冬見君が今ここにいてくれるのって、ただの同情なんですか?」


 頭だけふり向きながら言う久上さん。夕日を瞳が反射してとても綺麗に見えた。泣いているようにも見えたし、無機質なカメラのレンズのようにも見える。


 言う言葉は決まっていた。だけど今まで、言う事におこがましさを感じていた。…何度も久上さんに、楽になれと言われた。それはきっと、無理だ。でも、


「俺が今そばにいるのは、安っぽい同情じゃないし、押しつけがましい責任感でもない。どんなに今の俺の価値観が曇っているとしても、久上さんを好きだって言う気持ちは嘘なんかじゃないよ。」


 目を見返す。なぜか、何かの勝負をしているかのような錯覚にとらわれそうになった。


「もう……やっと言ってくれた」


 久上さんは呆れたように頬を緩ませて、親指の腹で俺の手をさすり始めた。


「私も、好きです」


 後は、ただ影が重なるばかりだった。



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