三月十日 4
午後二時頃、山本は一時間近く車を走らせて隣の県の観察医務院に到着した。大学の研究施設を思わせるようなコンクリートの質素な外見…大都市の中にあるだけに建物の周りには気持ち程度に緑が植えられているだけで、後はめっきり灰色の建物である。。中年太りの刑事は老人くさい声を上げながら車から降り、肩を揉みながら目をしぱしぱと瞬かせた。暖房をつけた車内にずっといたせいでひどく目が乾いていたのだ。しかし寒さが嫌いな山本は換気をする気は毛頭ない。特に反省する事もなく、のしのしと院内に入っていった。
受付で簡単に手続きをした後、山本は迷う事なくその研究室を目指した。たくさんの研究室、資料室が並ぶが、目もくれない。院内は静かで、山本の重量感ある足音が響く。
ノックもせずにその部屋に入ったには、たくさんの書類に埋もれるようにしてキーボードを叩いている白衣の老人がいた。ドアの開く音で山本に気づいた老人はぶすっとした目でちらりと山本の姿を確認すると、またディスプレイに目を戻す。山本は足元の書類の詰まったダンボール箱を避けながら早足で近づき、言った。
「武さん、例の連続殺人の死体検案調書を確認したいんですが、すぐ用意できますかね?」
「もう水越町警察署と、警視庁に送っとるがぁの。二度手間は嫌いなんじゃ」
「そこを…何とかできませんかね。急ぎなんです。しかも僕…わけありで署を追い出されてまして。今頼れるのは貴方ぐらいしかいないんですよ…」
聞きながら老人は眼鏡を外し、回転イスをくるりと山本の正面になるように向けた。また何かやったのかと呆れたような目を向けながら、冷めているコーヒーカップを口に傾ける。そして長くため息をする。
「後先考えんで行動するから…いっつも冬見の奴や奥山を困らせとったんだろうに、成長せんなぁ…まぁ今回はいいとしよう。…場合が場合じゃからのぉ」
おそらくその冬見と奥山が殺されているからこその言葉だろう。今は細々と研究がてらに検死をしているが、昔は鬼の監察医と呼ばれていたその男、近藤武は、冬見と山本らにとっては専門は違うが「関わりのある怖い先輩」にあたる。もう還暦近い年を取っていて老人らしいしわが増えた…とはいえ、その威厳と懐の広さはさほど変わってはいなかった。
山本に励ましの意味を込めた頷きをした後、近藤は窓の外を遠く見つめる。
…遠い昔の事。大人だというのに子供が抜けきらないような性質だが、強引さと積極さを持つ山本、それを時にフォローし、鋭い勘と忍耐強さを兼ね備えた…刑事の鏡のような冬見。その情報収集力では警視庁全体と並ぶほどの私立探偵疋田も交えた四人は、よくこの研究室に入り浸っては捜査資料をテーブルの中心に置いて、その時々の事件について議論していた。今はほとんど誰も来ない研究室。昔に四人が使っていた机や椅子は、整理しきれない書類やファイルなどで埋まっている。
「待っとれ。…昔の癖がまだ残っとっての、何か興味深い事件が起きたなら、いつでもお前らが来ていいようにちゃんと別に整理しとる」
近藤はおぼつかない足取りながらも立ち上がると、すぐ後ろにある、ファイルがびっしりと連なっている奥の棚の中を探し始めた。しかしものの数秒で目的の青いファイルを取り出してしまう。そのファイルにはピンク色の栞が挟まっている。どうやらその「興味深い事件」の所には皆その栞を差し込んでいたようだ。
「ありがとうございます」
山本は会釈してファイルを受け取りながらすぐ近くの机に腰掛けた。早速その栞の所を開く。第一の事件『久上由利』の死体検案調書…外傷部位、死体の状態、発見時刻、発見者、検死担当者などが細かく明記されている紙面と、それに関する写真が七、八枚。次のページは奥山に関してで、その後も事件が起こった順に並べられている。普通は名前順に並べるのだが、そこは近藤の配慮だろう。
「今度、リンドウで一杯やりましょうよ」
山本は紙面に視線を落としながら言う。
「リンドウか…懐かしいな。よく四人で飲みに行った…そうだ、茜ちゃんは元気かい? 看板娘だったからねぇ、もう男がついて店を出て行ってしまったりしてないかい?」
「いえいえ…今じゃ店長ら夫婦が引っ込んでしまっていて、彼女が店を支えてます。冬見の息子も、そこでバイトしてますよ」
「それは知っとるよ。…よく冬見に話してもらっとったから」
近藤の意外な返答に「え?」と驚きの声をあげる山本。紙面の興味はどこへやら、近藤の方を向いて、どういう事か事情を知りたがっている顔で続きを促した。
「じゃから、一人でここに来て話しとったんじゃよ。以前と同じように」
「以前と同じって…あいつ、僕たちに内緒で来てたんですか!?」
「そうじゃぞ。まぁ息子にはマージャンをしに行くと言っとったみたいだがの…自身は全くマージャンができんくせに、たいした嘘をついてからに…」
「…何で教えてくれなかったんですか。もしも僕が知っていたなら、あいつを何とか警察に戻す説得をする機会があったかもしれないのに」
「だから、それが嫌だったんじゃないかい? …理由はなんにせよ、あいつは自分のもう一つの家のような刑事という職を捨てた。その決意は固かったはず…なら、もう二度と戻らないと決めている警察にまた戻れと言うお前の存在は、冬見にとっては苦痛だったじゃろう。もしくは戻る気はないのにいつまでも自分が戻ってくる事に期待をかけてしまうお前への、お前が傷つかないようにするための思いやりだったのかもしれんしのぉ」
近藤の言い分を否定する事ができない山本は、勝手な事を、と呟き、視線を紙面に戻す。しかしその目は文面を読み取らずに、紙面と目の間の空間で何かを思案していた。
「これ、借りてもいいですか? すぐに返しますから」
「しっかり敵を討つんじゃぞ。逃げ帰ったら承知せんからのぉ」
手の甲で追い払う仕草をする近藤に、山本は強く頷いて見せた。
部屋を出る際に胸ポケットの携帯電話が身を震わせた。山本はファイルの中身が滑り落ちないようにしっかり左手で持ち直すと、本体を取り出す。着信は署からのようだ。
「何だい? …銃殺死体を発見した? わかった、すぐに現場に急行する。そうそう、お前らが尾行してる冬見の方はどうだ? こっちも情報網があってね、わかってるんだって。…見失ってるだと? すぐに探し出してくれ。見つけ次第現場へ呼んでくれ」
電源を切ると、足がスピードを上げ始める。次のヒントが死体に隠れているとわかっている今、山本の気を静めるのはその死体を見る以外になかった。
ハンバーガーで昼食を済ませて店を出た頃くらいから体が少し痒かった。よく考えてみればここ数日間風呂に入ってないし、この服もいい加減着っぱなしだ。家で着替えようと思ったが、今うちの家は警察が調査をしてる真っ最中。この際仕方がないと百円ショップで洗面用具を買い揃えた後…久上さんの病院に泊まる事になっているし、邪魔なので捨てる運命にある…服も新しい物がほしくなって上下を買った。そして銭湯に行った…ヒゲもきちんと剃り、髪も洗って、銭湯から出てさっぱりした気分になった時には、俺は最近のどの若者と比べても見劣りしないくらいの美男子になったような気がした。
鼻歌交じりに道を歩く。片手には衣類を買った時の紙袋を提げていて、中身は脱いだ服や洗面用具が入っている。何歳か若返ったような気分だった。…こうやって何も考えずに歩いていれば、俺も皆と同じ、事件とは無関係な人間になれるような気さえした。
そんな風に幻想していると、車道の方から声がかかった。その方向に目を向けると、いつもの白いセダンが路上駐車をしている所だった。
「何か用ですか?」
「いや~ナイスタイミングです。冬見君、ちょっと急いで来てくれませんか」
連れ込まれるようにして白いセダンの後部座席に押し込められる。そして自身も乗り込んだ山本刑事は思い切りアクセルを踏みこんだ。がくんと、一瞬体の中身を後ろにおいていってしまったような衝撃。俺は慌てて助手席の背もたれにしがみついた。
「スピード出し過ぎですよ!」
「あ、そうでしたね。サイレン付けときましょう」
そう言いながら窓を開けると、ごそごそと赤いソレを取り出し天井に乗せる。…が、そんな事は問題じゃない。もう少しで事故ってしまうくらいのスピード…患者の救急に向かう救急車だってまだ遠慮するだろう。俺は必死にスピードを落とすよう説得した。何とか時速八十キロまで落としてもらう。
「死体が発見されたそうです。身元はまだわかってないようですが…今までの事件の関連性からおそらく久上紗枝さんか冬見君の知り合いでしょうね」
「現場はどこですか?」
「奥山が殺されたスーパーの近くの路地裏だそうです。死後六時間は経過しているようで」
「性別はわかりますか?」
「若い女性だそうです」
六時間前で、若い女性で俺に関係のある…? 久上さんはそれ三時間前くらいに会ったばかりだから違う…じゃあそれって、署に来たきり会ってない茜さん以外にいない…!?
「すみません、携帯電話借ります!」
了解の返事を聞かずに、胸ポケットに手を突っ込み携帯電話を取り出す。何度も会っているおかげで、そこに携帯電話をいつも入れている事は分かっていた。リンドウの黒電話の番号を、焦る指先をなだめながら押していく。
プルルル、と電子音。一回ごとに緊張感が高まる。…早く、出てくれ…!
「はい、リンドウですが。…あんたねぇいい加減に―――」
「…あ、茜さん!? 今、リンドウにいるんですか!?」
やっと電話に出た茜さんの声に安堵する。もしかしたら彼女だとばかり…。緊張が一気にほぐれて目が細まる。なぜか、いきなりからぶすっとした言い方だった。
「あれ? えっとタカっちなの? ごめん、間違えた。一体どうし――」
電源を切った携帯電話を身を乗り出して助手席に置く。
「いました? はい…じゃあその人、茜さんじゃないみたいです。でも、わからない…。久上さんは三時間前に会ったばかりだし、茜さんでもないとすると一体誰が…」
「他に知り合いはいないんですか?」
「はい。これといって誰も」
俺の返答に山本刑事は眉毛を八の字にする。じゃあ誰なんだとでも言いたそうな顔で。そんなもんこっちが聞きたい。現場に行ってみなければわからない事だ。…しかし、俺は死が来る事にどうしてこんなにまで淡白になってしまったのか。身近な死の訪れが、一日のスケジュールの中に組み込まれてしまった奇妙な現実のせいだろうが…。
そう思うと、自分がいかに死に近くいるか、よくわかる。俺は生きながら常に死と隣り合わせで、鬱蒼と茂る森を闇雲に手探りで進んでいるだけだと、思い知らされてしまう。
「…今日は生き延びるわけか」
しかし、その死体が連続殺人に含まれる死体なのかが疑問だ。もしかしたらそれは連続殺人に影響された人の仕業かもしれない。まだ今日の日が終わらない限り、気は一瞬も緩める事はできないんだ…!
「急いでください。早く、知りたい…」
「奇遇ですね。実は…私もそうなんですよ」
第二の現場であるスーパーの駐車場にセダンを止めると、現場を目指した。路地といってもこの辺にはいくつも横道があるもんだから、意外と見つけにくいんじゃないか…と思っていたが、数ある路地への入り口の一つに主婦など地域住民らしき人々が吸い込まれていく様を見つけた。いかにも野次馬というそそくさとした動きをするものだから、そっちの方向か、とすぐにわかった。
「はぁい…ちょっと通してください」
ぎりぎり車が通れるか通れないかくらいしか横幅がなく、あまりに多い興味津々な住民の人数に押しつ押されつされながら先を進んでいく。はぐれないように山本刑事の手を握っているが、その手すらも離れそうだ。圧迫感に目を細めながら、体をわずかな隙間にねじ込みながら進むしかないために、近くでしゃべる主婦らの噂話が耳に入る。
「殺されたのは若い女性らしいわよ」
しかし、その若い女性に俺は覚えがない。久上さんの関係者にしても、家族なら自身を除いてしまうと若い女性は存在しない。…じゃあ誰だというんだ。
「また撃たれたんだって」
若い女性が思い当たらない事からしても、銃殺だからといってそれが連続殺人の中に入るのかどうかわからない。もしかしたら、まったく関係のない殺人なのかもしれない。
「くそっ! なんて多さなんだよ…!」
「冬見君、はぐれないように気をつけてくださいよ…!」
しっかりと大きな手を握りなおし、顔をかばいながら先を急ぐ。山本刑事はそれでも俺がいる事を確認するように後ろを向き、また前へ戻した。握る力が少し強くなる。
「誰なんですかね…一体」
聞かれてもわからない。現場にはいつ到着するんだろうか―――。
「―――殺された人、白い服だったんだってさ。何だか死装束みたいね」
………白、だと?
白で、俺達に関係あって、若い、女性…!?
「まさか、幽なのか…!?」
「んん? 何か言いました?」
頭の中を整理するので忙しかった俺は、山本刑事に言葉を返す事は適わなかった。
――白の、ワンピース。
一歩進むごとに近づく。それは今後に関してすごくヒントになる…なのに、どうしてこんなに、その死体の正体を知るのが怖いのか。嫌な予感がする。全てを知っているかもしれない少女が死ぬ事は、唯一あった突破口がガラガラと音を立てて崩れていくような事態にも思えた。それ以前に、死ぬとは思えない少女の死を認めたくなかった。
お人よしな事に…俺は彼女に死んでほしくないと思っている。なぜなら、彼女こそが俺の自殺を止めてくれた張本人だからだ。
どんなに怪しく危険な存在に思えたとしても、彼女が手を差し伸べてくれなければ、俺は久上さんに会ったり、茜さんに告白されたり、生きている事の意味を知る事はできなかった。あいつがもしも俺を殺す気であったとしても、何にせよ、彼女は俺に猶予を与えてくれた事になる。気持ちを整理し、見つめなおす時間をくれた事になるんだ
結局は奇妙な間柄だけど、もうこれ以上誰も知り合いに死んでほしくなかった…!
人の群れを抜けて、黄色のテープで仕切られた場所に俺は手を引かれて入っていく。そこはいつもはあまり通らないが、俺の家の近くだった。警察官と同じような地味な紺だけど、作業員のような服装をした人らがうろうろしている。いつかドラマで見た「鑑識」の職業の人だろう。「こちらですね。どうぞ」
警察官に阻まれている人々からの奇異な物を見ような視線を背中に受けながら、俺は先を促されて進んでいく。小さなドブ川…それにかかった橋の中央で、フェンスにもたれるようなポーズで冷たく固まっている死体を見つけた。近くにいた警察官が俺達の邪魔にならないように少し横に避けてくれた。胸を赤く染めた、白い服が見えた。
「…えっ?」
それは俺の驚きの声だった。これは確かに、まさしく―――――、
「見覚え、あるんですか?」
山本刑事は「やっぱり」という顔に変化させようと……するが俺の意外な表情に変化が止まる。「どうしたんですか、そんなに固まって。冬見君、見覚え、あるんですよね!?」
いつまでも答えずに固まっている俺の肩を掴んで、強く揺らした。
―――バカな。
だって、そんな。
ありえない。
だって、今まで、ずっと―――
「違います…知りません。こんな人、知りませんよ。一度も見た事ありません」
「えっ…それ、どういう事ですか!? だっておかしいでしょう、今までの殺人は皆…」
言いながら、引きつっていた表情が落胆へと変わっていく。俺もそのまま視線を落として、その死んでいる女性へ目を向けた。白い…スーツ。年は二十後半だろうか。ただの、見た事もないOLだった。
「ハズレって事みたいですね」
「そうですなぁ…迷惑な事を。いるんですよね、こういうのがたまに」
ハズレという言葉に、一気に気が落ちていく。つまり模倣殺人。まだ、今日の分の殺人が終わっていないという証拠だ。
心の隅で、この人が今日の分ならよかったのに…なんて事を思ってしまった。だってそうだろう。どうせもう死んでしまったなら、もうこの人が今日の分でいいじゃないか。これ以上人が殺されないでもいいじゃないか…そんな風に、人道を逸脱した卑怯な考えが浮かんでしまう。
人が死んで、安堵する? めちゃくちゃだ、それは…もう心ある人の考えじゃない。でも、そんな良心的な考えでどうにかなる状況じゃない事もわかっている。こうやって自分の心が穢れていく事も、堪えなければならないんだ…!
「…もしかしたら、あの人がアタリだっていう可能性もあるんですよね?」
「綺麗に貫通してましたからね…銃弾を見つけてみないとわかりませんが」
お互いに落胆の色を隠す事ができないでいると、近くの若い警察官が機嫌を伺うように山本刑事に近づいていった。
「あの…山本刑事、署長が署で呼んでいます。見つけ次第すぐに、との命令で」
「…わかった」
山本刑事は肩を落とし、大きくため息をついた。あの署長か。上司と部下じゃ、悔しい思いをしても何も言えないんだろうな。いくら学歴社会とはいえあの男はひどかった。
山本刑事はその警察官に連れられていく所だった。俺とはここで別れるらしい…。
「そうだ、山本刑事。今日は久上さんのお父さんの警備をお願いできますか? きっと茜さんには疋田さんが付くと思いますから。連絡取れるなら疋田さんにも伝えてください」
「はぁ? …それはこちらからするでしょうが。いいですよ。…何かあったんですか?」
「いや、気になっただけです」
不思議そうな目を向ける山本刑事。そりゃそうだろう、今までの俺はそんな事をわざわざ山本刑事らに言って確かめたりしなかった。…でもそれは俺の誘導の一つ。それぞれの場所を意識させる事で、久上さんと俺が潜んでいる病院に近づかせないようにするためだ。
「じゃあ、失礼します。よろしくお願いしますね」
再度念を押す。俺の言葉を深く取っていないような、きょとんとした顔の山本刑事は、いつものようにニカっと笑った。