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三月九日 2


 リンドウのバイト後、俺は少し駆け足で病院へ向かった。もう覚えてしまった道の順路は、院内だけなら目を瞑ったままでも部屋にたどり着けそうなくらいに足が動いてくれる。部屋にノックし、どうぞという声を合図にノブを捻った。


「おはよう」


「おはようございます。今日は、よろしくお願いしますね」


 ベッドで、暖かそうな茶のブラウスの上半身だけを起こして、ぺこりと頭を下げる。ベッドの布団の上には本がページを伏せるようにしておかれていた。読書中だったのか。


「用意はある程度は終わってるので、後は下に行くだけですよ」


 昨日、帰る時に今日迎えに行く事を約束していた。葬儀場がわからなかったので、ついでに教えてもらうつもりだった。


「松葉杖でそのリュックサックは無理だろ。貸せよ、持つから」


「それは冬見君に悪いですよ…」


「あのね、そんな重そうに膨れたリュックサックを、松葉杖をついた怪我人に背負わせながら隣を歩ける人間はそういないよ。皆に俺の人間性を疑われる」


 半ば奪い取るようにリュックサックを彼女の手から引き離す。どうしても自分が持ちたかったのか顔では苦笑していても右手が空を悔しげに掴んだり離したりしていた。無視して「他には?」と続ける。他は本当に何もないらしい。


 エレベーターを使って一階へ降りそのままロビーを…突っ切らずに、久上さんに少し待ってもらうように言って、ロビーの新聞を見に行った。…地方の欄では円ちゃんの葬儀が今日行われる事を報道してある以外に、特に変わりはない。ロビーのテレビでは連続殺人のニュース…血文字ロゴが悪趣味だった。久上さんの所へ戻って、外へ出る。さすがに院内に比べて外は寒い。隣の久上さんは寒そうに顔をわずかに震わせて白い息を吐いていた。


「大丈夫なのか? ジャンパーか何か羽織っておかないで」


「いいの。もこもこのジャンパーだったらかえって歩きにくくなるし」


 松葉杖は脇で挟み込むからな…意外と不便だ。


 門を出た俺達は道路を見回した。さっき電話して呼んだばかりだから迎えの車はまだ来る気配はない。二人して門に背中を預け、そこから見える景色を眺めていた。これといって飛び出ている建物はないが、どの建物もコンクリートの側面の汚れが目立つ。確かに掃除しにくいよな。そんな事を考えながら、少し上に視線をずらせば凍て雲が点々と寂しげに浮かんでいて、水面に浮かぶハスのように見えた。


「そうだ。…ほら、今だけでいいから羽織っとけよ」


 松葉杖を使っていないので今ならジャンパーを不自由なく着る事ができる…リュックサックから(押し込まれていたのを)取り出すと久上さんに手渡した。よほど寒かったのか、慌てるようにして袖に手を通した後、安堵のため息を吐く。


「葬式、今日だな」


「そうですね。…いざ来ると少し緊張します」


 俺も幼い頃に味わった出来事も、遠い過去だけに記憶が薄い。久上さんは家族の死は初めてなはずだ。…内心はどうなんだろう。俺と会話していて苛立ちを感じないだろうか。本当はそっとしてほしいんじゃないのか…久上さんは当てもなく空を見上げているだけで俺が話を振るまで何も話そうとはしなかった。いつもは自分から話を振るくせに、今日だけは俺が話の切り出し方に困っていた。中々、見つからないものだ。


 よく新聞で事故だとか殺人だとか、人が死んだニュースを見る。他人事だと思っていた。だけど自分達の事になると、途端にしんみりとしてしまう。家族じゃない俺でそう感じてるんだ、家族だった久上さんが感じてる喪失はどれほどのものなのか…想像もつかない。


 いっそ泣いてくれればいいと思った。それはもう久上さんには必要ないのかもしれない。昨日の間に、もしくは今日俺が来るまでに十分悲しんだのかもしれない。でもどうなのかを知らない俺は戸惑うばかりだ。どう接してあげればいいのかわからなかった。


「来ないな」


「そうですね…」


 全然話が展開しないし、弾まない。自分の話術センスのなさが歯痒い…でも止めようとは思わなかった。少しでも笑みを取り戻してくれるなら…多少の苦労もしよう。今のような、俺を安心させるためだけに顔に貼り付けているような笑みは、いらない。


「…あのさ」


 しかし、言葉をつなげようかと思っていたら右の指先に何かが触れた。


「…なぁに?」


 彼女の人差し指が、俺の人差し指に絡んでくる。何を、と顔を窺うと、悪戯が見つかった少年のように笑みを浮かべている久上さん。


 互いに言いたい事は同じらしい。久上さんもきっと言葉を捜していたんだろう。でも、見つからなかった。捜すのに夢中で、簡単な相槌しか打つ事ができずにいたのか。


「…そうだ、リュックサック貸してください」


 そう言って俺からリュックサックを受け取ると、中から膨らんだスーパーの袋が出てきた。またお菓子だ。そして公共の場だというのにあろう事かポテトチップスを取り出す。


「往来でそれはちょっと…小さな物にしなよ」


「おいしいですよ? ほらぁ薄塩ですから」


 別にコンソメなら嫌というわけじゃないが…断る暇を与えずして久上さんにつままれたポテトチップスが口元へ近づいてくる。後ろは壁、逃げる事ができない。かといってこのままの状況が続くのも恥ずかしかった。恥をしのんで口を開ける。


「おいしいでしょう?」


 よくわからない。舌に乗っているはずの塩味は遠い味覚に思えた。ポテトチップスの成分は揚げた脱脂綿とたいして変わらないと誰かが言っていたけど…やっぱりそんな事もどうでもよかった。無償に喉が渇いた。いや、ポテトチップスのせいじゃなくて。


 指先の冷たい温もりで何を伝えようとしているのか。思えば親父も茜さんも山本刑事も久上さんも…本音らしい本音を口にしようとしない。皆、直接的な会話をどこかで拒んでいるのだろうか。それとも俺の持つ雰囲気がそうさせているのか?


「あのな、そんなお菓子ばかり食べて…太るぞ」


「昔から太らない体質だから大丈夫ですよ」


「そうやって自分の体質を信じた奴が何人いた事だろうね」


「意地悪ばかり言って…実はもっと食べさせてほしいんですか」


 たわいもないやり取りをしているうちにタクシーが到着する。車内でも食べようとする彼女から、運転手から注意される前に袋を取り上げてリュックサックに封印する。二人で後部座席に腰掛け、久上さんは今日葬式が行われる葬儀場の名を口にした。


「なぁ、もう大丈夫なのか。久上さんは」


 ずっと心配していた事だった。立て続けの不幸に心を病んでいないか、と。もちろん無事であるとは思っていない。それでも、彼女の心情を知っているのと知っていないのでは大違いだ。俺が今日気安く話し掛けていいのかどうかが、それで決まる。


「大丈夫なのか?」


 せめて、それくらいの本音は聞かせてほしいと思った。


「……少しだけ」


 一人呟くように、確かにそう言った。







 どこにでもある公民館が少し大きくなったくらいの葬儀場は、パチンコ屋の前でよく見るような、しかし色が白黒な花輪が建物に似合わないくらいに盛大に飾り付けられていた。 

 長蛇の列…それにしても制服姿の生徒が多い。見覚えがある制服はおそらく円ちゃんのクラスメイトか吹奏楽部の部員だろう。その他の制服は中学の頃の友達か。それにしても多い…円ちゃんのファンの人も何人かいるんだろう。ぱっと見ただけで二百人はゆうに越していそうな人数の間を抜けて、久上さんは最前列、親類の席に座った。なぜか俺もそこに連れていかれ、久上さんとお父さんに挟まれる形で座った。あまりの生徒の数でわからなかったが、久上さんのお母さんの知り合いも多数来ているらしい。


 周りの迷惑にならないように何とかして泣き声をかみ殺そうとする女子生徒…それとは対照的に葬儀の場に似合わないくらいの円ちゃんの笑顔が前に飾られていた。その隣には死体としてしか顔を合わせた事はないが、円ちゃんによく似ていて綺麗なお母さんの姿。とても高校生二児の親には見えない。以前の写真なんだからそれもそうなんだけどもさ。


 お経をBGMに、ふと母さんの葬式の事を思い出していた。

 この葬式の人数には負けるけれども親父の仕事の関係の人がたくさん来ていた。

 大人に混じって、子供がぽつんと俺が一人。

 その隣には――やはり茜さんがいた。


 何で急にそんな事を思い出したんだろうと、ちらりと後ろに目を向ける。多種多様…泣き方は様々だが、悲しみを感情を顔に表して死を悼んでいる人々の姿があった。


 世間では死が溢れているのに、どうして身内…知り合いが死ぬとこんなにも悲しいと感じるのか。報道はいつだって容赦がなく、聞くにも堪えない悲惨な事故事件を平気で垂れ流してくる。その情報を毎日のように受けていると、それだけ冷たくなってしまうのかもしれない。本当なら、誰が死んだとしても新聞の報道を聞くだけでこの葬儀場の中の人のように涙を流さなくてはいけない…なのに、知らない人が死んだ所ではどうもしないのか、今まで他人の不幸事が当たり前のように過ごしていた。


 おそらく死を、死として認識していなかったんだろう。人が死に、永遠に会えなくなったという事実は、知り合いでないとわからない事なのかもしれない。なら、自分に近しい人であればあるほど人は悲しむのか。だとするならば円ちゃんやその母親のためにここまで泣いてくれる人達は、以前からそれに値するほどの交流があったに違いない。


 俺も、泣いていた。自分でも気づかなかった…頬に手を当てるまで。でも…確かなのは、俺の涙は彼女らへ向けての涙じゃないという事だ。俺は過去の俺に涙していた。


 どうしてこんな事に、と念仏のように繰り返される思い。どの人の顔も、それがにじみ出ていた。立派に弔辞を読み終えたクラス代表も、終えたと同時に崩れ落ちた。何で死んだのか、と。済んでしまっては仕方ない事なのに、そう思わずにいられない…それは俺の両隣の遺族も同じようで、もういなくなってしまった家族へ向けて涙を漏らしていた。


 そこへいくと、久上さんは強かった。誰よりも悲しいはずなのに、嗚咽を少しも漏らすまいと口を横一文字に結んでいた。なぜ、そこまで頑ななんだ。昨日俺に見せたあの涙は、他人にはそんなに見せたくない物だったのだろうか。


 人が死ぬと、悲しい。―――いつからだろう? そんな当たり前のような事が当たり前じゃなくなったのは。…理屈では分かってる。おそらくは最初から。そんなに人は優しくない…思っているよりも冷たい生き物だ。失って悲しいと思えるのは、いつだって大切な物の時しかない。かけがえのない物と思えるのは、そう思えるだけそれまでにずっとそばにいた…そばにいるのが当たり前だった日常の風景だけ。


 きっと葬式は、そんな日常の風景から決別するための儀式だ。一種の区切り。これで最後だと…残された人々に与える最後の猶予期間なんだ…と、俺は思った。


 選考の香りに涙した数時間はすぐに終わり、出棺を迎えるために参列客は席を立った。俺は、家族でもないのに最前列という貴賓席を設けてもらったが、さすがに火葬場まで同行するのは気が引けた。ここは遠慮しておくべきだろう。後は遺族だけの問題だ。


 ほとんどの人が出棺を見送るために席を立った。だが、俺は座ったまま写真を見つめていた。なぜなら俺の中の円ちゃんとの思い出はわずか二回会った程度…それも合計して一時間にも満たない時間だからだ。…だからだろう。専攻をあげる時に見た彼女の顔は俺の知っている明るい、茜さんの実の妹のような彼女じゃなかった。もう中身の抜け切った抜け殻のように思えてならなかった。


 …なら。覚えておくべきは写真のようなこれ以上ない笑顔だろう。それが、葬式の本来の意味じゃないのか? だって、俺たちが覚えておかなければならないのは出棺を見送って涙する一瞬じゃなくて、もう二度と…今のような感傷的な気持ちでは見られないだろう最高の笑顔を記憶に刻み込んでおく方が大切なんじゃないだろうか。


 エンジン音が、空気を通して伝わってくる。いつ出発してもおかしくない。


「ちっ…」


 指先が、あるはずのない鍵盤を叩く。…それは理屈だ。俺はバカだから…いくら理屈を並べられたところでどうにもならない。本当の最後なら、その後姿だけでも見送ってやるべきだろう。


 俺が席を立った時、車はすでにゆっくりと走り始めていた。ひしめき合っている人の群れを強引に抜けて、車の背を追う。その時はもう、車の速さは俺の走る速さと同じになっていた。車が門を抜ける。数秒遅れて、俺は門の前に到着した。


 言いたかった。俺よりも二つ若く、才能と明るい将来があった女の子とその母親へ。言わなければならなかった。この機会を逃せばもう次はない。最後のチャンスだった。


「ごめん…!」


 腹から絞り出すような声とともに、俺は深く頭を下げた。…唖然としている人々の視線を背中に感じる。でも、いい。これでいいんだ。


「犯人…絶対…絶対何とか、するから…」


 奇跡を願うような声で言う。

 だんだんと見えなくなる車の背を、遠く長く見つめながら。



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