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三月九日 1


 いつの間にか目を覚ましていた。自分が眠る瞬間を誰も気づけないように、気づけば真っ暗な天井を見つめていた。もしかしたら一夜中そうしていたのかもしれないし、たった今起きたばかりなのかもしれない。でも体が重くだるく感じているのは、前者の理由だからだろう。


「もう…四時か…っ」


 身をよじって枕もとの時計を見た。しかしデジタルの数字を確認した瞬間、がくっとガソリンの切れた車のように顔が枕に落ちる。頭に血が届いてなかったようだ。起き上がるのを一時中断してごろんとまた横になる。全身の節々に軋みを感じた。布団をかぶってさえ鳥肌を立たせてしまうほどの寒さのせいだろうか。…頭が休息を求めていた。しかし眠れないのなら意味がない。体調が悪いせいか、寝付ける自信がなかった。


 ――真っ暗な天井を見上げていると、昨日の感触が唇に蘇る。


 そっと指先で触れてみた。しかし、あの熟れた桃のような感触はどこにもない。

 この唇に、茜さんが。

 現実にあった事なのに、未だに信じられない。

 だって、あの茜さんだぞ? 昔から男勝りで、女性なんて感じさせることはほとんどなかった。百歩譲って女性だとしても、がさつな姉程度。間違っても…間違っても、恋愛の類な見方で彼女を見た事はなかった。


 綺麗になったのは、認める。きちんと身を整えさえすれば雑誌の表紙は十分に飾れる人だ。だけど、茜さんは家族同然の存在だった。いや、俺にとっては家族だった。俺の母親が死んでから、唯一の「家族」だったんだ。


 ――…そんな事を考えていたから。ここまで「俺」が動揺するとは思いもよらなかった。


 それに、気になったのはそれだけじゃない。幽の事だ。なぜ昨日は現れなかったんだろうか。今まで銃を捨てたあの日から毎日のように現れていた奴が急に出てこなくなるなんて。かえって気味が悪い。もともとから正体不明な奴だ。不安になるのは仕方がないだろう。意図があるように思えてならなかった。


 今日もまた一人、殺される。


 誰に? どこで? どうやって…はわかってるか。でも、殺されるってのは、もう確定なのか? 犯人が、誰かを殺すその前に捕まってしまう可能性もあるじゃないか。なのに、いつの間にか殺されるんだという事を信じている。決定事項…何者にも止められないのだと知っているかのように。


 でも、そんな悩みは隅に置いておこう。


 今日は呼ばれる立場としては初めての葬式の日だった。






「おぉ…隆史か」


 朝飯を作るために居間に下りると珍しい事に、父の起きている姿があった。


「何だよ」


「いや…何でもない」


 わけのわからない事を。俺はそれ以上の会話を避けるように居間…親父の前を通り過ぎると、台所に入り、冷蔵庫から味噌を取り出した。賞味期限がそろそろヤバい。


「お前は…大丈夫なのか?」


 おそらく今回の連続殺人事件の事だろう。どこで聞きつけたのやら。


「親父に心配されるほどじゃねえよ」


 声を聞いているだけで癇に障るのに、心配なんかされたら余計にむかついてくる。いいよな、てめぇは安全な場所にいて。俺みたいに死ぬ恐怖に晒される事はないんだから。


 少々荒い手つきで食事を作り終える。一応親父の分も飯を盛ってやるのは、せめてもの情けだ。歩きながら食うためにお握りを作った俺は、味噌汁の椀を出すのが面倒臭くてお玉で自分の分の味噌汁を飲んだ。


「ほらよ」


 茶碗を卓袱(ちやぶ)台に置くと、礼の代わりに不思議な表情が返ってきた。親父にしては珍しい…気弱な、そう…同情しているような。


「何だよ、用があるなら――」


 言葉が続かなかった。親父の目から、何かを伝えられているような錯覚を感じたからだった。小さい頃、何よりも怖かった親父の姿は、いつの間にか背だって並んでいる。俺が大きくなったからという事実をわかってはいても、親父が小さくなったように思えてならなかった。


「…行け」


 言われなくても。でも――後ろ髪を惹かれる思いが残った…何が言いたかったのか、悲しげな瞳に浮かぶ自分の姿を思い出しながら、俺は自宅を後にした。


 家の門を出ると見知った顔に出会った。


「おやぁ冬見君、おはようございます。どうしたんですかこんなに早くに」


 昨日から張り込みでもしていたのだろうか。ご苦労な事だ。そうでないと、こんな時間に鉢合わせるなんて偶然でもありえないぞ。そんな俺の予想を裏付けるように、寒そうに手のひら同士を擦り合わせる初老の山本刑事。相変わらずの笑顔にげんなりする。


「それは俺のセリフですよ。山本刑事こそ…年が年なんですから無理はしない方がいいと思いますよ。もう若くないんですから」


「今日はお葬式でしょうに。一緒に行こうかな後思ったんですよ、僕は」


「朝はバイトですよ。第一、葬式は十時頃ぎだったはずです」


 皮肉ったつもりなのに無視されてしまった。それに、そうだとしても怪し過ぎる。正直に言った方がまだ印象は悪くないだろうに…その事に果たして本人が気づいているのかどうかは疑問だが。


「…何か、聞きたい事でもあるんですか?」


 素直にそう言えばいいのに。結局こちらから話を振ってやるしかない。


「たちの悪いマスコミみたいに言わなくてもいいじゃないですか…はっはっは!」


 路地を抜けた所に白いセダンが停めてあった。刑事なら路上駐車が許されるというのか。


「今日は後部座席でいいですよ」


「話を聞きたいんじゃなかったんですか?」


「だから違うと言ったでしょうに。今日は特別ですよ。リンドウまで送ります」


 セダンが走り始める。微妙な揺れが全身をくすぐって…少しうとうとしてきた。


「その調子だと、昨日は寝れなかったみたいですね」


「やっぱり、わかります?」


「顔色が悪いですし、ヒゲも剃ってない所を見ると、ね。あの時間に剃ってる時間がなかったとも思えません。疲れているんじゃないんですか? 少し寝てはどうですかね。ほら、車とか電車の中だとよく寝れる人っているでしょう?」


「…いいんですか」


「いいですよ。私を気にせず寝ちゃってください。向こうに着いたら起こしますんで」


 どういう風の吹き回しだろう。でも、ありがたい。ちょっとずつだが、眠気が襲ってきていた。両のまぶたに、町の景色が通り過ぎていく度に重りが追加されていっているようだ。


「…なら…言葉に甘えて」


 車のエンジン音を子守唄に、俺は意識を手放した。






 山本刑事の車を見送った後、俺は気を引き締めてリンドウの戸を開いた。五分程度のわずかな睡眠でも、頭は生まれ変わったように冴えてきていた。山本刑事のおかげだな…礼を口に出すのははばかられるけれども。


 外はまだまだ暗く、リンドウの中はそれ以上に暗い。お客が入っている時の盛況が嘘のように静かで、この静けさの奥に茜さんはいる。そう思うと、今あるわずかばかりの落ち着きも零してしまいそうな気がした。


「おはようございます…」


 俺の挨拶が店内に響く。誰かが聞いていなくても関係ない。儀礼のようなものだ。


 カウンターの奥に回りこみ、茜さん唯一の私室へ向かう。さすがに暗いので電灯をつけた。見えるようになった足元を、転げ落ちないように確認しながら、ゆっくりと階段を上がっていく。


「おはようございます…朝ですよ、起きてください」


 襖を開けると、室内の暗がりに廊下の明るさが差し込んでいった。その先には畳の部屋…あれこれ物が散乱している中に布団が敷かれ、人が一人入ってる大きさに膨らんでいる。


 でもなぁ、よく考えたら女性の部屋に入るって結構まずい事なんじゃないか? …バカ、変な事考えるな。そんな風に、わずかばかりの躊躇を仕事と割り切って振り切り、掛け布団を剥ぎ取る。そこには、ちゃんちゃんこに包まって胎児のように体を丸めて寝ている、姉代わりの姿があった。なるべく顔から下を見ないように声をかける。


「茜さん…朝ですよ、朝」


 いつもなら乱暴に揺さぶり起こしているはずだった。でも、見えない壁に遮られているように、俺の手は彼女へ伸びてくれない。もう少しで肩に触れる…そう意識した途端に神経に電気信号が走って、熱い物に触れたかのように、手のひらが戻ってくる。触れば壊れてしまうとでも思っているのか。


 茜さんの寝相は、何かに怯えている少女のようにも思えた。何におびえる必要があるんだろう。彼女の目の下が薄っすらと赤くなっている。その赤みに目が誘われ、視線を漂わせているうちに、男ではどうしても表せそうにない柔らかさを感じる唇があった。気づけば茜さんの唇へ指先を運んでいた。その弾力を確かめるように、人差し指で押さえ、戻ってくる。その感触を知覚するごとに鳥肌が立った。ちょっと待て、何やってるんだ不謹慎だぞ隆史。


 昨日の出来事がフラッシュバックしてくる。キスするなんて。言わなかったけれど、そうする理由は一つしか思いつかない。彼女は女性として俺に好意を持っている…そういう事なんだろうけど、俺にはいまいちそれがよくわからなかった。


 なぜ今になって、というのが第一の理由だった。でも、今だからこそというのもわかる。疋田さんから色々話してもらって不安になったんだろう。唇を触れ合わせる事にどういう意味を求めていたのか真意はわからないけれど、それは今はどうでもいい。


「…起きろよ」



 唇に触れた事で吹っ切れたのか、手は自然と肩へと向かった。異性の体温が服越しに伝わる。何度も起きてと呟きながら、心のどこかでまだ起きるなと願っていた。このまま微妙な時間が刻々と過ぎていってほしいと、手先の温もりに知らず知らず溺れていた。こんなにも、女の子になっていたなんて。…心のどこかで異性という区分を排除していた俺は、今の今までそれに気づけずにいたのか。


「…うぅん、あれ…タカっち?」


「そうですよ、ほら、起きてください」


 ごしごしと目を擦る彼女は手を顔から離した後、眠たげながらも、どこか信じられない物を見ているかのような目をしていた。


「…今日は、来ないかと思ったよ」


「何でです? 理由もないのに休めませんよ…ほら」


 背中をすくいあげるように手を回して上半身を起こさせた。思ったよりも、軽かった。俺の普段取らない行動にまたもや不信そうな目を向けてくる。俺は何気なく、


「店の用事、俺が簡単にやっときます。朝食も作りますから、用意しておいてくださいよ。それで遅れそうになったら承知しませんからね」


 微笑をそえてそう言った。途端に、茜さんは困った顔になる。


「どうしたの…?」


 どうしたの、か。わからないよ。自分でも説明できていない…俺が茜さんをどう思っているかなんて、すぐに分かるわけない。茜さんが世話の焼ける姉である事は、今まで考えるのもバカらしいくらいに当たり前だった。それに急に態度を変えるなんていう器用な真似は、俺にはできそうにない。その茜さんの困った顔が笑みに近いのか悲しみに近いのかわからないように、俺もまた、困惑している。整理の時間が…必要だった。


「どうもしないよ」


 茜さんが俺を見つめているのに気づいて、俺はその視線から逃れるように立ち上がり、襖に手をかけた。襖の溝を通り過ぎ、そして閉める。閉める間際も俺を見ていた彼女の瞳が、ぼんやりと頭の中に残っていた。


 俺は茜さんが好きだ。でも異性としてじゃなくて、まだ家族としてだけ。


 だから…いいだろう? 今のままじゃ。頼りない俺じゃだめだ。


 今は――これくらいの好意で許してくれ。



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